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2005年5月27日 (金)

社会貢献を標榜する企業

フェリシモという神戸が本社の通販会社がある。経営理念を「しあわせ社会学の確立と実践」とうたっており、さまざまな社会貢献活動を行っている。以下は、HPで「社会貢献活動」としてあげられているもの。環境に力を入れており、ISO14001も取得している。

  1. 森基金
  2. 地球村の基金
  3. 阪神・淡路大震災被災地支援活動

このほかにも、ユネスコと共催のデザインコンテスト、神戸学校(チャリティコンサートなど)、稀少本の復刊プロジェクト、ハッピートイズプロジェクト(家庭で使わない古着などを一定の大きさの布にして集め人形を作る)などさまざまな事業を行っている。

大変立派な志の会社であり、最近における世の中の流れを先取りしている。アメリカなどでは、こうした会社は社会的評価が高く、株式公開していれば株価は高く、消費者も同じ商品を購入するなら、こうした志の高い会社を選ぶことで社会をよくすることに参加しようとするらしい。

日本人にとって不幸なのは、もしかすると新興宗教がかった会社ではないかとまず疑ってかかることから始まることだ。新興宗教でも、社会がよくなるなら良いではないかとも思うし、空海だって日蓮だって当時は新興宗教だったのだろう。しかし、今日新興宗教というと、なんだか私服を肥やしていそうなにおいがしてしまうのだ。

一方で、これまで、社会を良くすることを標榜し、実行してきたのは、新興宗教や笹川財団でしかなかったことも確かだ。そこに最近では、NPOが加わり、企業も加わりはじめた。

この社長は、Web検索をすると、稲盛和夫さんを信奉する盛和塾のメンバーらしい。稲盛さんは、仏教心の篤い人らしいが、まぁ京セラを立ち上げた人だから良いかと安心する。本当に志の高い会社・社長かどうかの判断ができず、結局、京セラという成功した企業を判断基準にしてしまう自分が情けない。

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ポップ

最近、「ポップ」というのが好きらしいことが分かった。

何気なく見た、「タイガー&ドラゴン」(これはスペシャルだったらしい)を面白いと思い、それが連続ドラマになっているのを知って金曜夜10時に嵌っている。この脚本が宮藤官九郎(通称クドカン)と言う人で、若者の間で人気らしいことも最近知った。

「タイガー&ドラゴン」では、現実と落語の話が重なりあい、現代と落語の世界の画面がパカパカ切り替わりながら展開する:ウソのような話の展開のなかに、泣ける話や真実を突いた話が挿入されている。

そもそも、落語自体、首を左右に振るだけで、女になったり男になったりするし、烏カァで夜が明けてしまうなど、時間や場面の切り替えが速い。このテンポの速さが話しを面白くもし、どんどん惹きこまれるわけだが、「タイガー&ドラゴン」では、それがさらに現代劇と時代劇とが切り替わる。番組は、まるでディスコでフラッシュライトが当たっているような感じでパッパッと画面が切り替わる。

テレビの二時間ドラマをよく見るのだが、ストーリーがず~うっとベタに流れる。極論すると、ドラマの時間と現実の時間が同じくらいのテンポで流れているような感じだ(そんな訳はないが)。

これに対し、「タイガー&ドラゴン」では、過去に行ったり、現実に戻ったり、浅草かと思うと原宿だったり、一人の人間がやくざかと思うと落語家の弟子だったりと、5分の間に、時間も、場所も、人格も切り替わる。

私は、どうやら、こういうのが好きらしい。

これを「ポップ」といってよいのかどうか正確には知らないが、ナルミヤインターナショナルの成宮社長のインタビュー記事に、次のようなことが書かれていた。

ちなみに、ナルミヤインターナショナルというのは、小中学生(ジュニア)向けアパレル市場を開拓して成長している企業だ。同社のブランドは、それぞれ異なるキャラクターの世界があって、そこには友達だの家族だのが生息している(HPのRainbow Parkをクリックするとキャラクター紹介あり)。

成宮社長は、キャラクターを展開するうえで重要なのは、送り手ががちがちにストーリーを描くのではなく、受け手が入り込めるようにすることだという。受け手がどんどん話を展開することによって、キャラクターは自然に成長する。

そして、すべてのブランドの底には、「ポップ」というのが流れているという。なぜ「ポップ」なのかというと、「例えば羊が空を飛ぼうが飛行機を操縦しようが、まったく問題ない。あらゆることが可能になるんです。ユーザーみんなが自由に想像力を膨らませることができる。」

アメリカのキャラクターをライセンス生産したこともあったが、その場合、キャラクターを自由に展開することができないので、消費者が飽きてしまうとのことである。

「ポップ」というのは、英語でポンとはじけるといった意味。ポップコーンのポップである。今、日本のサブカルチャーが世界から注目されているというが、「羊が空を飛んでしまう」という自由な発想は、マンガもそうだが、日本人に馴染みやすいのではないか。北斎の浮世絵の構図も、現実離れしているが、返って印象深い。

理詰め、根拠を求める・・といった西欧の文化では、羊は空を飛べないし、富士を飲み込むような大波も描けないのではないだろうか。E・Tでは、自転車が空を飛ぶけれど、これは日本のマンガが大好きなスピルバーグだから・・。舞台について詳しくないけど、歌舞伎のはや変わりとか・・西欧の舞台にもあるのだろうか。

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2005年5月17日 (火)

ユーザ参加

産地の企業が自分たちの作った製品を市場で販売しようと考えると、いつもとっても真面目に取り組みすぎてしまう。産地というのは、繊維の産地だったり、あるいは、農家であったりする。

ものづくりに対する真面目さが必ずしも消費者が欲しがるものに結びつくは限らない。もちろん、目の肥えた消費者は、品質の悪いものは受け付けない。しかし、全てを提供側が完璧にやってしまうことが消費者にとって楽しいこととは限らない。

先日、いとこの家に行った折、1歳半になる子供用のTシャツがあった。これは、Tシャツの真ん中がキャンパスのようになっていて、耐水ペンも一緒に売られており、子供がそこにいたずら書きをすることができる。無心に書いた線や点だが、それなりにおしゃれだ。親ばかは、子供に才能があるような気になって、まるで北斎の絵のようだなどと自慢する。

たまごを入れるダンボールの容器も、子供の才能が生まれるような気がして楽しい。

「born to create」というブランドのこのTシャツは、1枚3780円と高いけれども、友達の子供が生まれたら、あるいは、孫が生まれたら、喜んでギフトにしそうな気がする。

これは、海外のデザイナーの作品らしいが、人々の生活を温かく見る眼差しがこうした作品を生むのだろう。

産地の側から考えるのではなく、消費者の側から考える、優れたものづくりの技術から考えるのではなく、人がどうしたら楽しいかから考える・・こうした視点が欲しいのだけれど、商売となってしまうと難しい。産地企業の社長も、会社の発展から考えるのではなく、自分の子供や孫や、自分の趣味などから自社の製品を見直す目が必要だ。

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2005年5月14日 (土)

ゴッホ展

昨日、用事と用事の間が空いてしまったので、竹橋の近代美術館でやっているゴッホ展に行ってきた。今回の展示は、「ゴッホの原風景」ということで、ゴッホの愛読書や影響を受けたと思われる他の画家や浮世絵などが一緒に展示してある。

名を成した画家の絵を見ると、いつも、エネルギーの凄さと右顧左眄しないその人の世界が「どうだ!」と描かれているのに圧倒される。

自分は、物書きの端くれの端くれなのだが、事実に振り回されて、「どうだ!」という書き振りが出来ずにいる。小説家ではないので、どうしても事実を抜きには出来ないのだけれど、なんとか自分の文体なり世界なりを作り出したいと焦ったり、ジリジリしたりしている。

でも、今回のゴッホ展を見ると、後に天才といわれる人でも、習作を重ね、また重ね、他の人の絵を模写したり色彩を工夫しながら、自分らしい表現方法を模索し続けているのが分かる。そして、とてもとても寂しくて、ちょっと可能性を見出して明るく有頂天になったかと思うとまた絶望したりと、こころがウロウロしていることも分かる。

農民や職工などの働く姿や食事の姿に惹かれたのも、そこに暮らしの辛さはあるものの、なんか人間らしいぬくもりを感じたのではないかと思う。「ルーラン夫人の肖像」は、通院に付き添ってくれた知人の奥さんとのことだが、寂しい精神状態のなかで、きっとやすらぎを覚えた相手なのだろうと思う。

40にして惑わずのはずだが、まもなく還暦でもまだ彷徨している私としては、ゴッホがキャンバスに絵の具を重ねたように、習作・習作・習作を繰り返しながら七転八倒するしかない。もちろん、七転八倒したって、何にもならないかもしれないのだけど、それしか生きる道がないので、喜んで転んでやろうじゃないか。90歳になっても転がっていたら、それはそれで面白い人生だ。

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2005年5月 8日 (日)

すずめ

家の庭には、雀がしばしばやってくる。

冬にはまるまるしていたのが、最近では、ほっそりとしている。

虫がいるのか、芝生の庭をつついたり、どこかで獲得してきたらしいパンの端をつついていることもある。一羽が別の一羽に食べさせていることもある。追いかけごっこをしていることもある。

余ったごはんを撒いてやると、そこでは食べずに、一粒づつくわえてどこかに持っていって食べるらしいのだが、あっという間にきれいに食べてしまう。

ず~っと居るのではなく、我が家に来る時間帯があるようで、朝方、昼ごろ、夕方4時ごろにやってくる。夕方は夕日があたるのでそこが暖かいのか、柘植の木にびっしりかたまってじっとしている。

また、2本あるヒバの木が気に入っているようで、出たり入ったりして遊んでいる。何気なく庭を見ていると、ヒョコっとヒバの木から顔を出す。一羽かとおもっていると、あっちからも、こっちからも顔を出したり、てっぺんに上ったりしている。

最近、一羽が食べ物ではなく、わらのような乾いた草をくわえては、そのヒバの木のなかに入っていく。もしかすると、ここに巣をつくっているのかもしれない。ある日、ここからすずめの赤ちゃんが鳴きはじめたら嬉しい。

でも、このヒバの木は、烏も気に入っているようなのだ。最近あまり見かけなくなったが、つい先日までは、この木のてっぺんに止まって当りを睥睨していた。すずめはそのことを知っているはずなのだが、赤ちゃんを育てても大丈夫なのだろうか。

巣づくりが捗って、うまく卵がかえってくれますように!

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遺伝

今日は、叔父の20?回忌のようなことで、久しぶりに一族郎党が集まった。叔父が宗教がかったことが嫌いだったので、いつも、単に会食をしておしゃべりするだけである。こういうことでもないと、なかなか顔を合わせることがないので、それはそれなりに楽しい。

叔父の世代では、叔母はボケが著しく、今回は施設から連れて来るのが無理であったため、いとこ達がそれぞれ施設を見舞った。叔父の兄弟では、91歳になる私の母だけになってしまった。

私の世代のいとこ達は、皺が増え、頭の毛が薄くなり、体形が崩れ、なかにはアルツハイマーになってしまったものもいる。

私の子供世代のトップが40代となり、その子供たちが中学校からはじまって、生まれたばかりまでつながっている。

z002_41 これまでいろいろな契機に集まった折のビデオが編集されていて、それを見ると、それぞれの世代が皆4年前、10年前・・と若いので面白い。今ではすっかり髪の毛がなくなっているのに、黒々としていたり、ボケてしまった叔母がかいがいしく料理をつくっていたりする。

こうした折に、始めて会ったいとこの子供の指が私と同じ「まむし指」なのを見て、うわ~血がつながっているんだ!と驚いた。

私は、先日突然当時の仕事が嫌になって辞めてしまったのだけど、そういえば、いとこのAも、別のいとこのBも急に会社を辞めているのに気がついた。これも遺伝なのかもしれない。

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