ゴッホ展
昨日、用事と用事の間が空いてしまったので、竹橋の近代美術館でやっているゴッホ展に行ってきた。今回の展示は、「ゴッホの原風景」ということで、ゴッホの愛読書や影響を受けたと思われる他の画家や浮世絵などが一緒に展示してある。
名を成した画家の絵を見ると、いつも、エネルギーの凄さと右顧左眄しないその人の世界が「どうだ!」と描かれているのに圧倒される。
自分は、物書きの端くれの端くれなのだが、事実に振り回されて、「どうだ!」という書き振りが出来ずにいる。小説家ではないので、どうしても事実を抜きには出来ないのだけれど、なんとか自分の文体なり世界なりを作り出したいと焦ったり、ジリジリしたりしている。
でも、今回のゴッホ展を見ると、後に天才といわれる人でも、習作を重ね、また重ね、他の人の絵を模写したり色彩を工夫しながら、自分らしい表現方法を模索し続けているのが分かる。そして、とてもとても寂しくて、ちょっと可能性を見出して明るく有頂天になったかと思うとまた絶望したりと、こころがウロウロしていることも分かる。
農民や職工などの働く姿や食事の姿に惹かれたのも、そこに暮らしの辛さはあるものの、なんか人間らしいぬくもりを感じたのではないかと思う。「ルーラン夫人の肖像」は、通院に付き添ってくれた知人の奥さんとのことだが、寂しい精神状態のなかで、きっとやすらぎを覚えた相手なのだろうと思う。
40にして惑わずのはずだが、まもなく還暦でもまだ彷徨している私としては、ゴッホがキャンバスに絵の具を重ねたように、習作・習作・習作を繰り返しながら七転八倒するしかない。もちろん、七転八倒したって、何にもならないかもしれないのだけど、それしか生きる道がないので、喜んで転んでやろうじゃないか。90歳になっても転がっていたら、それはそれで面白い人生だ。
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