妙なプライド
この財団の仕事を請けるにあたって、「縛られるのが嫌で」と前に書いたが、これは正確ではない。
おそらく、妙なプライドなのだ。
「あの財団の人」とレッテルを貼られるのが嫌なのだ。
この財団は、地元の電力会社が中心になって出来たもので、役員には、北海道の大手企業、中堅企業、大学などが名前を連ねている。お金の構成は知らないが道庁や経済産業局などのお役所も絡んでおり、役所の事業の受け皿でもある。
だから、ある意味由緒正しい財団である。
また、私は雇われているとはいっても、文部科学省の産学連携事業の予算で臨時に雇われているに過ぎない。他の人は、基本的に役所や大手企業からの出向者である。
だから、この財団の人とか、あの事業の担当者と言われても、本来卑下すべき仕事ではない。
ただ、基本的に、財団というものが出向者の寄り集まりであり、皆親元があるので、組織体としての意思決定や機動力に劣るのは確かだ。また、私がかかわる事業がこれまで迷走を続けてきたという評判があるのも事実だ。
だから、財団というもののこの気持ち悪さに染まるのが嫌なのと、この迷走事業に係わることの恥ずかしさのようなものがある。前任者が欠陥車を作って販売してしまったために、後任の社長が誤らなければならないというようなイメージだ。
このため、私は、どこにも所属していない「私」であって、たまたまこの仕事に携わっている。この仕事をしているのは、この仕事で給料をもらうためではなく、「地域イノベーション」についての事例研究をしているのだ・・と思いたいのだ。
仕事は、もちろん請けたことをちゃんとやるつもりだけれど、そのスタンスを上記のように保ちたいと思っているのだ。
財団の人も半分は私のこういうスタンスを歓迎しているようなところがある。つまり、余所者のセンセイがこの事業に取り組み、ナタをふるって欲しいと思っている。
私を呼び込んだ社長さんも、私のことを「センセイ」と呼ぶ。このほうが社員の○○さんよりも、使い勝手が良いらしい。
私も「センセイ」と呼ばれる馬鹿はなしと言われるので、なんだか座りが悪いが今はそうしている。時代劇のヤクザの親分の元に食客としている素浪人の用心棒のようだ。
問題は、この「私」という肩書きをどうしたらよいか決めかねていることだ。知人は「クリエーティブ・デザイナー」が良いなどと言うが、日本では絵描きや音楽プロデューサーのように思われる。日本語が良いのだが「用心棒」ほど腕た立つわけではないし・・・んんん・・困っている。
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