テクノロジストの条件
恥ずかしながら、ドラッカーをちゃんと読んだことがなかったが、さすがに、ファンが多いだけあって、含蓄深いことが書かれている。
しかし、この「テクノロジストの条件」は、過去に書かれた沢山の著作から、抜き出して再編集したものなので、読んでいると、何時書いたのかが気になる。特にIT技術などは、今ではもう結論が出てしまったようなことがもったいぶって書いてあったりする。
逆に、今話題になりはじめたと思っていたことを1950年代に書いていたりするので、こりゃすごいと感じるところもある。以下、自分なりに面白いと思ったことをメモっておくことにしたい。
この本のプロローグ「未知なるものをいかに体系化するか」というのを読んで、驚いた。
というのは、このブログの姉妹であるregional innovationの方で、紹介した吉田民人さんの設計科学と同じようなことが書かれていたからである。
それは、「現実はモダンを超えた」「全体は部分の総計か」「因果から形態へ」「目的論的世界観」という小項目に要約されている。
デカルト以来の近代科学がものごとを細分化すれば理解できると考え、定量化による因果関係を示してはじめて理解したといえるとしたのに対し、細分化しても全体は理解できない、(彼は形態という言葉を使っているが)部分の総計ではない全体の重要性を訴えている。一方で、部分は、全体との関係においてのみ存在が可能であると、生物学の進歩からもたらされた知見を述べている。
そして、吉田氏が「設計科学」という言葉を使っているのに対し、ドラッカーは、「目的論的世界観」という言い方をしている。デカルトの時代は、すべてが等式の両辺にあって移項可能であったのに対し、ポストモダンの世界観では、プロセスが重要で、成長、変化、発展するとしている。
プロローグは、最近書かれたものなのかと思ったら、なんと1957年に書かれている本から持ってきたものであった。
そこで、「ポストモダンの世界感が世界の現実となった。今日では、このことはあまりに明らかである。方法論上、哲学上これを知らない者は、よほどの時代遅れである」と書かれているのだ。
私は、1994年頃に「職人」の本を書いた時に、漠然とこの「分析ではなく全体である」lことの大切さを感じたのだが、それでも、当時の上司には、「コンピュータが分析して同じものができる時代であり、職人の良さを言うのはノスタルジーでしかない」と言われたものだ。
今でも、学者の世界では、論文の良し悪しは、この定量化された因果関係を説明していないと駄目といわれてしまう。
ドラッカーが1957年にこの本を書き、近代科学の考え方は時代遅れだと言っているのに、どうして頭の良い人たちが「近代科学」の桎梏から解き放たれなかったのだろう!
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