女性の社会進出
93年頃に経団連主催の「女性の社会進出に関する部会」に参加しており、その頃の労働省婦人局の資料や資生堂福原社長(この部会の委員長)がL.R.ガレーズ著、江川雅子訳『ハーバードの女たち』に書かれた解説のコピーが出てきた。
M字型と呼ばれる女性の労働形態のへこみをどう無くすか、女性管理職をどう増やすかなどがこの頃の関心ごとだったと記憶するが(どのような報告書、提言になったのだったか覚えていない)。
福原さんが書かれているように、アメリカでは、次々と敏腕の女性経営者が誕生しているし、彼女らは、男社会で戦う化粧もしないギスギスした女性闘士ではなく、女性らしいしなやかさを持っているようにみえる。
最近ではビジネス社会から遠ざかってしまったので分からないが、男女共同参画社会基本法が出来てから社会に入った人々のなかで日本でも上記のような素敵な女性経営者や管理職が増えているのかもしれない。
しかし、改めて内閣府男女共同参画局のHPにある白書を概観しても、現実的には、余り大きく変わっていない印象を受ける。
企業での女性登用などを制度化するといった個別対応ではなく、社会そのものについての考察が必要に思う。
前にどこかの雑誌の論文募集で「高齢化」だか「少子化」だかのテーマがあり、こっそり「婚外婚」を認める必要性について書いたものを募集したがあっさり落ちてしまったことがある。生々しいテーマであるため経済論文として出すのが気が引けたし、友人と議論を深めるのも憚られて引き出しにしまってある。
しかし、法律で決められた結婚や家族だけが制度的にも、社会通念的にも認められるというのが時代に合っていないように思えたのだ。北欧のルポなどで、子供が「僕のパパではないけど、ママのパートナーだ」といっているのを見て、これが本来の姿なのではないかと思った。
家制度は、戦後、大家族から夫婦単位に変わった。昔は、家電製品もないし、農業などでは、大家族は家族でもあるが、生産共同体でもあったのだが、戦後、サラリーマンが中心となり、夫の稼ぎで生殖と生活をする小家族となった。ところが、今日では、妻も仕事をしてお金を稼ぐことが可能になり、子供もコンビニで食事をまかなうことが可能になり、共同体で暮らす意味が失われている。
偕老同穴で死ぬまで添い遂げられる夫婦になれるならそれに越したことはないが、そうでない場合もあるだろうし、そうした相手めぐり合うまでの過程も必要なはずだ。だから、人生のいろいろな場面で好きな相手が出来て生殖し、子供が生まれたら、それと結婚という制度の問題とは本来異なるものであるべきなのだろうと思う。
しかし、前職で知ったように、離婚家族や片親家族の場合、子供を十分に育てきれず(経済的な理由と精神的な理由とで)、非行に走る子供が多いのも確かなことだ。アメリカでも、離婚した片親家族の場合、低所得で非行に走り、その子供がまた片親家族になるというようなことが報告されている。
つまり、婚外婚や婚外子を当たり前にして欲しいのだけれど、まだそれを可能にする経済的、社会的な環境が整っていないのだ。この本質の議論を抜きにしては、女性の社会進出、少子化、高齢化の問題は解決しないと思う。
最近では、こうした論調も増えてきているようだ。たまたまネット検索していたら、便利なサイトを発見した。ジェンダーの専門家による本も出ているようだ。・・・片付けが終わったら、もう少し深く考えてみたいテーマだ。
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