収入のない暮らし
収入のない暮らしは、なんとなく心細い。毎月、ほぼ25万円くらいが消えていく。
年金の手続用書類は、国家公務員の時の証明書がまだ届かないため、書類を出しにいかれない。今月末まで待って、来なかったら電話してみよう。
それにしても、年金暮らしでも、心細い。
テレビで、石油値上がり、バイオマス燃料への転換で農作物値上がり、ユーロ高で欧州からの輸入品が値上がりなどと報じていると、ハラハラしてしまう。
しかし、やっぱり、倹約生活はできなくて、ジャムも美味しいものを購入してしまうし、駅の向こうのスーパーまで行くのが面倒だと、割高だけれども、コンビニに購入してしまう。
入院していたとき、新聞チラシを丹念にみて、安売りを探している主婦の人をみて、私もやってみようと思っていたけれど、なかなか面倒でできない。というか、それに時間を費やすのがもったいないようなきがしてしまう。
これは、まだ、本当に窮していないからだろう。
しかし、大きなお金が出ることに対しては(友達との会食、学会費、同窓会費など)は、けちってしまう。
そうかといって、たまに、都心に出たり、サラリーマンをみると、もうああいう生活はしたくないと思う。会社の都合や価値観でしばられて、きりきり舞いさせられる・・なんだか、すごく人間的でないような気がしてしまう。
そのなかに居る人は、生きがいも感じているのだろうし、同僚や他社との競争に勝てるのは嬉しいだろうし、そういう切羽詰った仕事を通して知識も深まるのだろうけど。
これは、歳をとったからなのか、怠け癖が付いてしまったのか、私の日常的な生活の方が人間的だからなのか分からない。
競争の渦から逃げていると、責任も負わされなくてよいが、それだけ情報も入ってこないし、活躍の舞台もやってこない。
それはそれでよくないような気もするし、さびしい気もするが、いづれにしても、もう戻れない。
ゆったりしたこの時間でゆったりした観点で、世の中や物事を見られるようになると、それはそれで良いのにと思っているのだが、まだこちらも中途半端だ。
体力が弱まり、動作がのろくなっている母親との生活のリズムについイライラし、少し仕事が立て込んだりすると、時間がもったいなくて、邪険にしてしまう。しかし、これではいけない。おそらく、ゆったりした命を大切に思う日々を大切に過ごすことを普通の状態にしなければだめだ。
「ゆったり」という尺度をせっかく体験できるチャンスなのだから。
庭のすずらん、小手鞠、君子蘭は終わり、バラが盛りだ。
今日、姫沙羅の花が咲いた。目立たないが、山法師の白い花も咲いている。
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