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2007年11月 4日 (日)

ムンク展

紛争処理委員会が昼に掛かってあり、今回は弁当が出たので1時には役所を出られた。せっかく外出したのでもったいないしと、思い立って上野に出かけた。

本当は、大徳川展でもみようかと思ったのだが、日比谷線で上野まで行ったら、駅から公園口までも結構歩いたし、余り時間もなかったので、大徳川展をやっている博物館まで行くのを辞め、西洋美術館のムンク展に急遽変更した。

まぁ、本当はどこでも良かったのだ。気分としては、「叫び!」の方が合っていたし。

ということでムンク展を見たのだけれど、叫びなどの印象が強く、狂気の画家のイメージがあったのだが、展覧会を見た印象は、「生命」であった。

展覧会の開催趣旨かなにかにも書かれていたが、今回は、これまでのムンクとは違う、装飾(学校、家などの)画家としての部分に光を当てたということのようだ。

「生命のフリーズ」という説明があり、「フリーズ」って、少し前にアメリカで、「フリーズ」=固まる=手を上げろという意味が分からなくて殺されてしまった日本人留学生の銃撃事件の連想から、生命が凍結されたというような意味なのかと思ったら、そうではなく、壁に絵をずらりと並べる装飾のことらしい。

いずれにしても、生命の木の絵に代表されるように、死んで骸になって、そこから木が生えて、男と女が居て、木が繁るというようないのちの連鎖のようなものが描かれている。恋愛とか愛の営みとかが描かれているのだけれど、それもそうした自然の営みの一連の行為の一つであるというように見える。ダンスをしているのだが、よく見ると、相手が死神みたいだったり、老婆が虚ろな目でたたずんでいたり、一方で綺麗な花に手をのばす美人の若い女性が描かれているなど。

i 」の字のような月の明かりが海に映っているのが多くの絵に描かれているのだけど、月明かりのなかでは、死んだ人も霊も生きている人も砂浜で一緒にダンスをしたり、コミュニケーションが出来る、そんな神秘を表しているようだ。

生き生きとした生命を描いている場面では、緑も鮮やかだし、人物に使われている黄色もとても輝いて見える。こんな明るい色の絵も書いていたのだ!と驚いた。

絵画は、やはり、現物を見なければ、エネルギーが伝わってこない。構図などは、プリントもので分かるけれども、色の感じは、現物を見ないと分からない。昔ルノアールを見たときもそう感じた。とても綺麗なブルーの目や、女の子や女性の健康な肌の色は、現物でないとダメだ。

三岸節子の絵を見たときもそう感じたのだが、ムンクの絵を見ても、譲らない(右顧左眄しない)絵を描いている強さに惹かれる。私も、こうした絵のように自分を殴り書きしたような生き方、描き方をしたい(と、しばらくは、そう思う)。

画家というのは、自分を表現するエネルギーが強いらしく、結構長生きの人が多い。三岸節子もそうだった。エネルギーが枯れつつあることを感じるこの頃だが、100歳に向けて、こうなりたいものだ。

余談だけれど、三岸節子も先天性股関節脱臼だったみたいだ、だからって、私も同じ凄さを得られるわけではないけれど。しかも、今と昔とでは、この病への対応が雲泥の差だったろうし。

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