正月に短歌
東京の正月は、今年も穏やかな晴天に恵まれた。
前に書いた短歌をやっている中学の友人から年賀状が届き、そこに40年ぶりの同窓会にとして短歌が書かれていたので、私も真似てみることに。
2日の日に年賀状を出しにいったときに、風が冷たかったので、もしやと思っていつもの富士の見える場所に行ってみたら、見えた。空気がきれいなせいか、いつもよりとてもすがすがしい姿であった。
耳凍る 初春の朝 出会いたる 真白き富士は 屹然と立つ
本当は、これでなんだか嬉しくなったので、そうした思いを入れ込みたかったのだが、上手く入らず、富士が屹然としているというところで終わってしまった。
出会いたるは人ではないので可笑しいかなぁとは思ったが、普通に暮らしていては見えない富士に出会ったという意識を出してみたかった。
3日も晴れていたので、富士を見るなら午前中と思い、ぐずる母親を置いて、多摩モノレールに行ってみる。春にモノレールに乗った折、パンフに富士が良く見えている写真が載っていたので(春だと見えない)、冬に来て見ようと眼つけていたのだ。
すると、見事に美しい富士が見えるではないか。
そこで、子供のように、見えなくなる駅までモノレールに乗り、また引き返し、降車しても見えそうなポイントを見つけたので降りてみた。多摩川の土手のところだ。目線が低くなると見えないかとおそるおそる行ってみたら、良く見えた。
時間がないのだけれど、写真に撮るなら電線が写らないよう、もう少し土手を歩いたところの方が良いと通りすがりの人が教えてくれたので、土手に下りてみると、確かにそうだった。
土手をもっとあるくともっと見えるのではないかと歩き進んだが、そうでもなかったので引き換えした。
この頃には、昼近くになっていたので、実際、景色としても、朝の凛とした感じがなくなってしまった。
存分に 富士を見たいと 訪ね来し 多摩モノレール 行きつ戻りつ
絶景に 時を忘れて どこまでも 歩き続けし 多摩川の土手
行きつ戻りつって電車を往復乗っているというようには見えないで逡巡しているように見えてしまうかもしれないと思い、自分がまるで子供のようだといったフレーズを入れたかったのだが上手くいかなかった。
絶景になどと形容してしまうのはダメで、短歌で絶景さを歌うのだろうと思ったが。また時を忘れても、そうした行動で時を忘れたことを表すのが良いのだろうと思ったが。また、絶景では、何が絶景か分からないだろうとも思ったが。
もう一つ、このごろは、明け方に三日月が出ているので、それを詠んでみた。
初春の 朝空高く 居残れり 何を思うか 白き三日月
居残れリと何を思うかがよくないように思うのだが。月が居残っていてなにさというなら、何を思うかではなく、二日酔いかよとかしたほうが大晦日から元旦にかけての人間の様子とあわせて面白いとは思う。しかし、清らかな感じなので、こうはしなかった。本当は、月を見て感じた自分の気持ちを反映すべきなのだろうと思うのだが。
まぁ、とりあえず、時間切れ!
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