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2008年3月28日 (金)

六義園のしだれ桜

Rikugis 染井霊園から染井通りをまっすぐ進むとまもなく駒込駅の少し手前の陸橋を渡り、六義園の染井門に到着する。

しだれ桜のライトアップの時期には、染井門からも入れるとのこと。

しかし、家から電車で約1時間、その後染井霊園など桜見物をしてここまで歩いて来たので、トイレ休憩をしたくなり、腰も少しくたびれてきた。皆さんとの待ち合わせ時間まで二時間もあるので、久しぶりに洒落た喫茶店にでも入りたいと思う。

Rikugi2s 六義園もあるし、昔ながらの場所なので、きっと裏側に洒落た喫茶店があるに違いないと重くなった足でウロウロするが、なかなか見つからず、正門まで来てしまい、本郷通りに出たけれど気配がなく、しょうがないので、公園トイレにでも行こうかと思った頃に、はるか公園の塀が終わる辺りにもしかするとと思える灯りが見える。

灯りに向かってヨロヨロと歩き出したら、お仲間の一人とばったり遭遇。でもトイレとは言いづらく、もうちょっと歩いてから集合場所に行きますので、などとちょっと分からないことを口走って分かれる。

幸い、喫茶店であった。なかなか、洒落ていて、狙い通り。混んではいたが、カウンター席が一つ開いており、トイレも借りられたのでまずはほっと休憩。

チーズケーキとコロンビアで一服し、正門から公園に入る。見事なしだれ桜。だが、公園案内のURLでは、ソメイヨシノも咲き始めましたとあったので、吹き上げ茶屋の辺りには、桜並木でもあるのかと思ったら、数本しかなく、他には、こぶしが咲いているくらいで、花は、ほとんどなかったので、時間をもてあましてしまった。

Cimg0565s おまけに昼間は暑いくらいで汗をかいたのに、夕方になるとまだ寒く、マスクをして、マフラーを巻いて、ヤッケのフードまでかぶって、怪しいヘンなおじさんのような格好をして約束の時間までをすごす。

Rikugi4s  Rikugi3s 夜桜のライトアップが売りなのだが、なかなか日も暮れない。まだ薄暗い程度の写真でおしまいにした。

Rikugi6s Rikugikois Rikugikames 先日後楽園にも居たかいつぶり?、かも、鯉、それに亀がいた。Rikugi5s

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染井霊園

Someis Somei4s Somei3s Somei2s 今日は、繊維の中間で六義園のしだれ桜見物とふぐ料理の集まりがあり、それだけではもったいないので、少し早めに出て、巣鴨から染井霊園に行きました。

ご存知のように、染井は、ソメイヨシノが開発された植木村があった地域で、染井霊園は、桜の名所として著名とのこと。

巣鴨は、おばあさんの原宿の高岩寺の方には、幾度か行ったことがあるけれど、染井霊園は初めて。

また、山手線沿いに桜並木があるのも知らなかった。

駒込の方向に少し歩いて、線路沿いの桜並木を通り、西友の角をまがってまっすぐ歩けばすぐに霊園に着く。

今日は平日なのですいているが、土日は混雑するらしく、交通規制の看板が整備され、警備の人が配置されていた。でも、彼らは、土地の人ではないらしく、念のため、駒込に行くのはこの道でよいのかを聞いたら、「えっ、巣鴨ではなく、駒込!」と驚かれ、しかも、道を全く知らないようであった。

私と警備の人の話を聞いて、写真を撮っていた人が親切に教えてくれたけれど、どうやらこの人も本当はあまり知らないらしく、私が地図を調べて判断してきたことのほうが合っていた。教えてくれた方向にあるいたら、ちょうど看板が見つかって、それが分かったので、とんでもない方向に行かずに済んだのだけど。

警備の人は、巣鴨駅から来て巣鴨駅に誘導することしか教わっていないらしい。染井霊園は、どちらの駅からも同じくらいの距離なのに。自分が警備する辺りの地図を見ることもしないのだろうか。興味がなければそんなものなのかもしれないが、もったいない話だ。

良く、ホテルのフロントやコンシェルジェがホテルの周辺のことに疎くって、きちんとした案内ができないことに出くわす。せっかく遠方から来て、時間が空いたときに、地域の大観光地ではないが、知的な興味を持てる歴史的、文化的観光スポットに行けたらよいと思うのに、もったいないと思う。

たまたま、こちらが前もってネットで調べておいたので、自前情報で足りたけれども。

染井霊園の桜は見事でした。

日本では、青山墓地もそうだけれど、墓地が桜の名所になっているけれど、これって、無くなった人はうるさくって敵わないのではないのだろうか。それとも、仏様も、実はあの世で宴会なんかをしているのだろうか。

でも、桜って、特にソメイヨシノは白っぽいので、青空とか緑とかと一緒だと映えるけれど、それだけだと、ちょっと感動しなくなっているのは、私が歳を取ったせいだろうか。

散っていると綺麗だけれど。

一方、しだれ桜は、そめいよしのよりもピンクが濃いので、綺麗だった。

駒込小学校、西福寺、染井稲荷の辺りが桜の名所というが、ちょうちんはぶら下がっているが、お寺はコンクリートづくりで自動車がやたら止まっているし、稲荷は寂れた感じ出し、ちょっとがっかり。

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2008年3月19日 (水)

生地の世界ブランド

京都では、西陣などの伝統産業が衰退しており、その再生のためにさまざまな試みをしている。

たとえば、京都ファッション産業協議会では、「KYOTO STYLE CAFE」を数年やっている。京都の染織・繊維業者とデザイナーや家具メーカーなどが提携して新しい時代の商品を開発し、東京青山で百貨店のバイヤー等を呼んで展示会を開催してきた。

また、2005年から「京都プレミアム」事業も実施している。海外向けにホームデコレーションアイテムを開発し、海外の展示会に出してきた。

しかしながら、HPを見る限りでは、やるという告知のリリースはあるが、その結果、商談が進んだというリリースが見当たらない。商談成立は、個別企業のことなので掲載していないだけかもしれないが、気になるところだ。

HPを見ると、各企業がクッション、カバン、テーブルウェアなどの単品をそれぞれのテーマで開発し、毎年チャレンジしているといった感じだ。つまり、トータルな空間デザインの提案ではない。

展示会で、バイヤーが見本品の品質やデザインを見て、個別企業と連携し、新しいブランド開発をしようと言ってくれるのかもしれないが、それだと単品の下請け企業になりかねない。

もっとも、商品企画をしたり、マーケティングをしたことがない企業、販路開拓に途方に暮れる企業などが練習としてやってみるのは、学ぶという意味では有意義だと思うし、実際、ここまでやるのでも結構大変なのだろうとは思う。

しかし、望むらくは、自ら空間デザインを提案し、独自ブランドで打って出て欲しい。

O フランス・プロバンス地方のプリント柄の生地やそれを使ったホームデコレーションで世界中に販路を開拓している「SOULEIADO]や、大胆なデザインの生地をベースとしたホームデコレーションやファッションまで手がけている「MARIMEKKO」は、いずれも独自ブランドで展開している。

貼り付けた柄は、今私の部屋で使っているもの。小花かと思ったら、虫の柄らしい。

京都の企業もこうなって欲しいし、そう成れるのではないかと思う。

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京都ベンチャー

前の記事に書いたように、1995年当時、ベンチャーが生まれる気配がまったくなかったのだが、今回、調べてみると、それなりにベンチャーが生まれていた「kyotovb.doc」をダウンロード

もちろん、これらがどの程度のものなのかは分からないが、ハイテク分野でニッチを狙っている企業も数社見受けられる。

また、コンテンツ関係を調べた友人の話では、精華大学や京都工芸大学など、マンガやアニメなど最近日本が注目されている分野で、京都の大学ががんばっているとのこと。問題は、そこの学生たちが東京に流れてしまうことらしい。

彼に言わせると、京都にいても、これだけネットや交通機関が発達しており、仕事はできるはずだというのだが、皆、東京にいけばなんとかなるというような気分で東京に来てしまっているらしい。

日本のどこもそうだが、狼が来ないと新しいことは始まらない。

京都がマンガなどによる新しい産業発展をする要素はあるのだろうが、どうしたらそれが実現するだろうか。

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京都企業

京都の企業には、古い歴史を持つ企業が多い「kyotocompany.doc」をダウンロード

しかしながら、たとえば、松栄堂は、若い人や外国人にも受け入れやすいお香を商品化して、海外にも進出しているし、宝酒造は、お酒の分野では海外に進出し、一方、要素技術を活かしてバイオや機能性食品に進出している。

清水焼を祖とする京セラや村田製作所、松風のように、セラミックスがファイン化し、産業が新たに発展している例もある。尾池工業は、金糸銀糸を作っていた企業だが、その後、食品包装分野(アルミなどを蒸着し、湿気や光を遮断する)に進出、さらに、今日では、プラズマディスプレイや液晶の反射フィルムなど電子材料にも進出している。

京都は、幾度も戦乱などに合っており、そういうなかからさまざまな京都の知恵が生まれているといわれる。旗色をどちらかに明確にせずに生き延びるとか、同じ土俵で競争しないで、棲み分けるなどがよく言われることだ。このため、個性的な企業、コア・コンピタンス(寄って立つ強み)が明確な企業が多い。

一般に、伝統がある地域では、伝統のイメージにしばられて革新が生まれにくいが、京都は、明治維新(天皇が東京に行ってしまった)と戦後という大きなショックに出会い、なんとかしなければと新しい試みがなされたことが、昔ながらの京都の伝統産業に新しい産業が接木されて発展してきた。

これらの新しい産業が高度成長期以降、京都経済界の顔となっているが、京セラの稲盛さん(鹿児島)も、ワコールの塚本さん(滋賀)も、オムロンの立石さん(熊本)昔からの京都人にしてみると他所ものであり、新参ものと見られてきた。

外からは、稲盛さんが京都経済の代表のように見えるし、村田製作所、ローム、オムロンなどが成長しているし、島津製作所が京都大学との関係で成長したこともあり、京都はベンチャーが生まれやすいとイメージされてきた。

しかし、私が1995年に調査した折には、新しい企業はあまり生まれていなくてがっかりした。京都大学もユニークな校風であり、アメリカのシリコンバレーのように、大学の研究者や既存の企業などとの間で交流が進み、ベンチャー企業が次々と生まれている熱気のようなものが感じられるかと思ったのに、まるで見えなかったからだ。

しかも調査にあたっては、寺院、共産党・・・・などと、既得権益の巣窟なので、これらには触れないようにとか、マルハンなどのパチンコホールが当時渋谷で大規模店を開設するという話もあったので新しいベンチャーだと思ったのに、京都でであった経済人は、誰もこの件については話さないというような閉塞感があった。

結果、京都調査は、ほとんど実のある内容にならなかった。

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知識と知恵

京都商工会議所会頭にオムロンの会長がなり、「知恵産業のまち・京都」というビジョンを打ち出しています。その関連で、何か提案をして欲しいということになり、何人かが知恵を出しました。

私は、結局良い知恵が出なかったのですが、その作業の過程で得られたものを、備忘録として書き留めておきます。

今、世界中で知識経済への対応が課題とされています。特に、EUでは、労働集約的な産業は後発国に移ってしまうとの危機感から、ヨーロッパの古い産業都市を知識産業に転換することに力を入れ、それが各地におけるサイエンスパークやインキュベーションセンター設立につながっています。

日本でも同じようなことをやっていますが、イメージしているのは、ハイテクで、IT、バイオ、ナノといった産業名が並びます。

もう一つが、ブレア政権や佐々木先生らが提唱している創造都市やクリエイティブ産業です。クリエイティブ産業の定義もあいまいですが、担い手のそれぞれが創造性を活かせる産業ということで、大御所のフロリダは、トヨタのような現場が知恵を出すことも含めています。一般的には、マンガやアニメなどのコンテンツ産業を含め、アート、芸術などを含めて議論されています。

ところが、まぁどこまで考えて出したか分かりませんが、京都では「知恵」という言葉をつかっています。知識産業もハイテク産業もクリエイティブ産業もイノベーションもなんとなく漠然と同じような内容をイメージしていると思っていました。が、調べてみると、「知識:knowlege」と「知恵:wisdom」は違うようです。

知識だけはダメで、それをどのように活かすか、活かすのが知恵だといいます。ラッセルという原爆反対運動をした学者がこれについて論じているようです。ラッセルの思想を分かりやすくした「辞典」があって、さらにその抄録のようなものをネットで見ることができます。

ラッセルは、戦前の日本について触れていて、日本は、一気に近代化をしなければならなかったので、その目的のために知識を吸収する教育をしてきて、それは大きな成功を収めたが、これは知恵ではない(知性ではない)というようなことまで書いてあるようだ。

知識はもちろん必要だが、今日、世界的に「知恵」が求められている。

別のところで述べたが、今日学問も認知科学から設計科学へ移行しなければというのも、同じことなのだろう。

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後楽園

今日も午前中の仕事と午後の仕事の間に小一時間開いたこと、飯田橋の職安に相談に行ったこともあり、すぐ裏の後楽園に行ってみた(写真はリンクしたwikipediaから活用させてもらいました)。

Koishikawakorakuen8978s 昔、トヨタに行った帰りなどに後楽園に行きたいと思ったのだが、その頃には、やはり足が調子悪かったのだろう、実際には歩くつらさを考えて行く気にならなかったのだ。

梅も終わりであったが、しだれ桜のつぼみが膨らんで、ぼわっと赤く見える。木によっては、一輪、二輪咲いているのもあった。今週末にお茶の先生の古希のお祝いで後楽園ホテルに行くのだけれど、それまでにもう少し咲くかもしれない。

沈丁花の花がひときわ薫るくらいで、花はさびしかったが、よくできたお庭であった。木の上に白いものが固まっているので、修理のためになにかかぶせているのかと思ったら、大きな白い鳥だった、鷺なのだろうか。小さい鷺?は水辺に居た。カルガモ?が池で泳いでいるだけでなく、庭を歩いていたりする。

舟着場のようなところがあった。ここから舟を出して庭で月見などしたのだろう。贅沢な楽しみをしていたに違いない。

昔から、時折、舟で出かける夢を見る。勤めているときには、舟で江戸城(勤務先がすぐ側)まで通勤している夢だ。天然色だったと記憶する。また、真鶴の家の下から海に出られるようになっていて、そこから舟で出かける夢もみた。実際には、真鶴の家は、うんと高台なのでそんなことは無理なのだが、道路の辺りが海という設定なのだ。

だから、後楽園の舟着場は、なんだかすっと、昔利用していたような気分になった。

これだけの庭の維持は、お金も手間も大変であろう。昔は、殿様だけがこうした贅沢が出来たのだろうが、それにしても、財政悪化のなかで、よくやり切れたものだ。

惜しむらくは、周りに高層ビルが林立していることだ。東京ドームもまるごと見える。もっとも邪魔くさいビルがなんと文京区役所だ。市民が上層階で楽しめる展望ラウンジやレストランなどもあるようだが、景観を考え、歴史遺産を大切にすべき区役所が何を考えているのだろうと思う。

ところで、すごいメタボの鯉がいた。

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横山大観展

2月の終わりに、昔の友人と昼食の約束をしていたのだが、彼は、午後一番で会議があるというので、早めの昼食となり、その次の予定まで間が開いてしまった。そこで、これ幸いと丁度開催されていた横山大観展を見に行った。

前の記事にも書いたが、私は、画面いっぱい力強く書かれた絵が好きなので、もともと大観は好きである。

そのときは、感動したのだが、もうすっかり忘れているので嫌になる。

今回は、なにやら人生の生々流転を書いた、やたらと長い絵巻があって、展示が覗き込むようになっているため、人がなかなか動かず、人が覆いかぶさって遠くからは見えないのが嫌だった。

その後、ほかの部屋で美大卒業生の展覧会を流し見たが、作為ばかり感じて、やはり出来上がった人の絵と比べると力の差を感じてしまった。

美術館オリジナルのみやげ物やがあったのだけれど、これも作為ばかり感じるもので、洒落たうなるような品がないのでがっかりした。羽田にある変わった文房具やの方がよほど面白いものがあった。

大観の絵を見て今回感心したのは、白い色を塗っているのではなく、黒い墨で白(地の色)を浮き上がらせて描いていることだ。それをぼかしでやっているのがすごいと思った。

また、若い頃には、やはり忠実な絵を描いていて、だんだん歳を経て、ぼかす技法になって「らしさ」が際立ってくる。積み重なって、らしさが強調されてくるのは、うらやましい。実は繊細に注意深く書いているのだろうけれど、こういう大胆で力強い絵をみると、私も大胆な自分の考えや匂いがプンプンした文章を描けるような気がするのだけれど、それができない。らしさの前に基礎や試みの積み重ねがあり、その努力の差なのは分かっているのだけれど。

勉強しても(時間とか目とか使っても)この頃は、どんどん抜けていってしまって、一向に考えが深まらないし、ひらめきもない。 なんとか、抜け出したいものだ。

だんだん思い出してきた。富士の絵がいくつかあって、どれも素晴らしかった。絵葉書を買ってきた、大観には珍しい色付の絵:大きな柳の下で昼寝をする馬子の絵と紅葉の下の二匹の鹿の絵もとてもやさしく、品のある、風や照りを感じる絵だ。

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2008年3月17日 (月)

古希の茶碗

お茶を習っている先生が今年古希を迎えられます。お弟子さんのなかに、同じく古希を迎えられる方がおられます。その方がたまたま赤楽の茶碗で、9代の了入が古希の祝いに70個作ったという茶碗と出会い、購入されたとのこと。70歳つながりでなければ買わなかったとのことだが、運命的な出会いに感じたのだそうだ。

先生のお祝いにそれで薄茶を差し上げたいとお稽古に持ってこられた。

本当は、その方は、先生にだけ一服差し上げたかったようなのだが、その場の流れで私たちもお相伴に与った。

了入は、(宝暦6(1756年)-天保5(1834年)) の人というから78歳で亡くなったわけで、その方の70歳の時の作品というから、180年くらい前の茶碗ということになる。しかし、代々の持ち主が大事に使ったか、あるいはほとんど使わなかったのか、新品のようなつやをしている。

見た目は小ぶりだが、持ってみると結構重量がある。切れ味のよい姿をしている。茶碗の底が分厚い感じで、熱いお茶を入れても、手にはほとんど熱さを感じない。

先生によると、楽茶碗は、粗いので、水がしみてしまうから良く乾かさないと水が腐って、くさくなってしまうそうだ。昔は、暖房が今のようではないので、冬には中の水が凍ってしまい茶碗が割れることも多かったとのこと。

また、茶せんの硬いのを普段のようにゴシゴシ茶碗にぶつけるように茶を立てると楽茶碗が削られてしまうので、軽くそそっと立てなければだめとのことだ。

普通は、こんなに大勢で次々にお茶を立てるものではないとのこと。その折には、5人が頂戴してしまった。

おそらく、お値段も結構するのだろうし、貴重なお品なので、持ち主も緊張してお茶を立てられていた。お茶を分かる人に自慢したいようなものの、使わせるのはもったいない気持ちもあったに違いない。

しかし、お陰で、めったにない経験をさせてもらった。

茶道具は、貴重な品を展覧会で見ても、触ったり使ってみたりしないと本当には分からないもので、ありがたいことである。

ちなみに、9代了入は、3代のノンコウに次ぐ名工といわれており、箆(へら)の使い方がうまかったとのこと。文政8年(1825年)に隠棲して悠々自適な暮らしをしたというから、古希の茶碗は、そんな暮らしをしてまもなく生まれたものということになる。妙なへつらいがない。凛としながら楚々とした感じだ。

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お茶席の掛け軸

お茶のお稽古で、毎回、掛け軸がかかっていますが、季節ごとにすばらしい書や絵が書かれています。が、すぐ忘れてしまいますので、これも備忘録として記します。

先日3月の第二週に掛かっていたのが、「春風満四澤」でした。先生のお部屋の掛け軸では春風でしたが、ネットで調べると春水となっています。春風が吹くようになり、氷が解けて四方八方の澤は水で満ちているといった情景を読んだ詩です。いかにも、春になり、水ぬるむというか、きらきらと春の光を輝かせながらたっぷりと水が流れる澤の様子が目に浮かびます。

自然が暮らしの中になくなり、ビルやコンクリートだけの生活のなかで育った人には、この5つの文字でこうした情景を浮かべることができるのでしょうか。

昔、蒲田で育った20代の男性と東村山の日産工場に見学に行ったことがあります。私が生まれ育った西武線で東村山に向かう途中、彼は、住宅地に緑が多いのに驚いていました。一般的には、緑が多い=田舎と蔑視する時代でしたが、彼の驚きは素直なものでした。

ちなみに、この掛け軸は、陶淵明の四時という詩で、春夏秋冬を歌ったものの一節のようです。

なお、昨日3月の第三週には、はみださんばかりの虎の絵でした。虎は、子、丑、虎と春の干支とのことで、春が力強くなってきたことを表現しているとのことでした。

私は、画面いっぱい、むしろはみ出すほどに書かれた絵というのは実は大好きな構図です。

昔、オノ・ヨーコのアフロヘアーを画面いっぱいに書いた絵を竹内さんの取締役就任祝いにお贈りしたのですが、奥様に、こんな怖い絵を飾ってと言われたというので、外して、好意を無にされたと、悔し涙を流しながら、女子の着替えをするロッカーで切り刻んだ覚えがあります。もっとも、ろくに習っていない自己流の下手な絵でしたし、奥様は絵画を習っておられるし、役員さんの部屋には、高価な絵画も購入して飾るのが普通でしょうから、常識を知らない行為だったと今となっては思いますが。

陶淵明       四時  

春水滿四澤,

夏雲多奇峰。

秋月揚明輝,

冬嶺秀孤松。

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お茶のこころ

お茶の心として藤原家隆の次の歌が知られています。知らなかった後輩に教えてあげるついでに、自分の備忘録としてブログ化しておきます。

  花をのみ 待つらん人に 山里の

         雪間の草の 春をみせばや

小倉百人一首には、次の歌が選ばれています。

  風そよぐ ならの小川の 夕暮れは

         みそぎぞ夏の しるしなりけり

藤原家隆

藤原家隆(ふじわら  いえたか、保元3年(1158年)-嘉禎3年4月9日(123755日))は、鎌倉時代初期の公卿、歌人。有職読みで「かりゅう」とも呼ばれる。初名、顕隆。法名、仏性。権中納言藤原光隆の子。藤原兼輔の末裔であり、紫式部の遠縁に当たる。『新古今和歌集』の撰者の一人。

和歌を藤原俊成に学んだ。歌人としては、晩成型であったが、『六百番歌合』、『正治百首』などに参加して、やがて藤原定家と並び称される歌人として評価されるに至った。承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇を慰めた。歌風は平明で幽寂な趣きと評価される。『新勅撰和歌集』には、最高の35首が収められている。歌集の『壬二集(みにしゅう)』は六家集の一つ。

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香川さんのコンサート

小学校の友達で声楽家の(旧姓)香川さんが、駅近くのショッピングビルの広場で日ごろ地元で教えているグループの発表会があるというので、昼過ぎの第一回のステージに立ち寄りました。

卒業というテーマで、懐かしい歌をメドレーで歌ってくれました。春のミニ・コンサート in アスタ・センターコート

写真は、多摩六都ウェブから活用させて頂きました。

街中の日常のなかのコンサートは、座って聴いている聴衆だけでなく、買物しながら立ち止まる人がいたり、聴衆も高齢者もいれば、子供連れの家族もいたりと、なかなか豊かな感じでした。

前に美保の松原で薪能を見たときと同じような気分です。能舞台で演じている後ろが海と海岸で、そこで普通に戯れている人たちがいて、その現在と能舞台の世界とかつながっているように感じられる・・何か深いものがありました。

懐かしい歌というのは、その頃の新鮮な気持ちを思い出したり、自分が歳を重ねたことも感じますし、そもそも、きれいな歌声は心に沁みて身体を洗い流してくれる感じもし、ちょっぴり涙が出てきました。

ところで、先日、公明新聞の書評で『衰退を克服したアメリカ中小都市のまちづくり』を読んだあとだったので、このコンサートがこの本で取り上げられているデービスのように、ダウンタウンの公園や歩行者天国になっているスペースでだったらもっと良いのだろうにと思いました。

自然の風で緑の木々がさやさやとゆれれ、木漏れ日がきらめくといった広場です。

う~ん、でも、今日の午後のように突風が吹く可能性がある日や雨の日だったら、演奏する人たちは計画が立たなくて困るだろうけど・・。

では、田無の駅前を公園にしてこうした広場にすることは可能だろうか。バスやタクシーが占拠しているのを止めさせられるものだろうか・・・。

などといろいろと考えてしまった。まちづくりを研究しても、なかなか自分の町で実行するには勇気が要ります。

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母の誕生日

「haichan.AVI」をダウンロード 「haichan2.AVI」をダウンロード ビデオは少し前のものです。

母が3月4日に満94歳の誕生日を迎えました。2年前に入院手術をしてから二度目の誕生日となります。前日の3日には、いとこ夫婦が来てくれて、庭に花を植えてくれました。

4日には、ご近所でいつもお世話になっている二人の方々と一緒に小僧寿しでお祝い、見事な花束を頂戴しました。

3日には、私の友達が別件で訪ねてくれ、お返しなのですが、おいしい和菓子も頂戴し、また母のボーイフレンドの一人もケーキを持って訪ねてくれましたが、いとこ夫婦と食事中だったのでお菓子だけ頂戴してしまいました。

いとこ夫婦も母の大好きなケーキを届けてくれましたし、お菓子だらけで、うれしいような私は体重が増えてしまうと心配な状況でした。

いずれにせよ、母は、だいぶ元気になり、私が基本的に側にいることが薬のようで、心的にも落ち着いています。まずは、ありがたいことです。いろいろな方に感謝!

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大内君からのコメント

前の記事で、友達に啓発されて正月に短歌を作ってみたと紹介しました。その友人(大内君)からコメントを頂戴しました(1月15日)。

(湊)先生は短歌は、分かるか分からぬかだ、と言っています。短歌は誰が見ても分からなければなならないし、分かればそれでいいのだ、という意味です。三首とも私には分かります。これを、世代の違う人にも、将来の人にも、どこに住む人にも、およそ日本語を使う人には、分かるものにするために、推敲があります。推敲の参考のために言います。
出会うと言う言葉は、動きの中で使う言葉なので、動かない山に使うと何か変です。
第二首は、動詞が省略されているので論理上意味不明です。存分に富士を見たいと思って多摩モノレールに乗り何度も往復した。位の所から推敲を始めればよいのではないでしょうか。
何を思うか、という問いは、答えが推測できないので論理上無意味になってしまうので、答えを匂わす必要があると思います。また三日月は夕方西空に出るものなのでここは、二十日月とするか、有明の月ぐらいでごまかすかでしょう。一、三首とも、初春があいまいです。何も初春でなくとも歌としては成り立つからです。例えば大寒、です。岡目八目で余計なことを言いましたが、お許しください。

なるほどです。

そこで推敲し、彼に結果をメールしようと思いつつ、もう3月15日になってしまいました。試みたのですが、なかなか難しいです。

忘れないためにブログ化しておきます。

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