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2008年5月31日 (土)

敗戦と戦後

藤井良広『頭取たちの決断』日本経済新聞社の第一章を読んだところだ。長銀破綻の記述だ。買って読んでいなかったのだが、今日は腰が痛いので、寝転がりながら読みたくなったのだ。

バブル崩壊からの時期は、素直に「敗戦」だったと認識すべきである。長銀がではなく、日本がである。

1.戦争が何故起きたのか

2.何故敗戦したのか

3.敗戦後、ルールが変わった世界のなかで、どのように国を作り直すか

1と2にも興味があるが、取り急ぎ考えなければならないのは、3である。

3.1.どのように世界のルールが変わったのか

3.2.国をどのように作り直すべきなのか

3.2.1.これまでのレガシーをどうするか

3.2.2.新たにどのようにすべきか

まず、どのように世界のルールが変わったのか。

1.グローバル経済のなかに巻き込まれている

インターネットの普及と高度化は、どんな田舎で蝶が羽ばたいても、世界中のいろいろなことと連動する。

2.アメリカの覇権が揺るぎ、世界にはさまざまなプレーヤーが台頭している

ロシアが復権を果たし、EUが基盤を固め、中国やインドが台頭し、イスラムほかいろいろな民族宗派がそれぞれの思惑でいろいろ動きはじめ、世界に影響を及ぼす力をつけはじめた。いわば戦国時代・群雄割拠の時代。

3.2つの世界が共時的に存在

グローバルな金融と情報の動きが世界を嵐のように吹き荒れ、足し算のリアルな世界と掛け算というより幾何級数的な資本・情報の世界とがあるという現実。

こうしたなかで、国の構成要素の一つである企業は、グローバル経済に対応できる力をつけなければならない。

・本社を置く場所も世界のなかで考えつつ、社員にも現地の文化や情報に精通した現地の人々を雇用するようになり、人事制度もグローバルにし、日本の企業というよりも、「企業」としての生き残りをかけなければならない。

かつて長銀は、情報力を武器に、日本の企業を先導しているという自負を持っていたのだが、結局、バブルとバブル崩壊(自らが崩壊)の時期には、真のインテリジェンスを持ちえていなかった。これは、自らの置かれた状況をきちんと認識するとともに、内外の金融筋に政治力を発揮できるだけの情報力を持っていなかったこともそうだが、取引先である企業にバブルの時期に貸し込むにあたって、損失を与えないよう、ポートフォリオを組んだり、いち早くバブル崩壊を見極めて、売り急がせるということもしなかったわけで、本当の意味の情報力を持っていなかった(他行と同じことをただ競ってやっただけだった)。まぁ大きな流れのなかでしかたがなかったにせよ、したたかに売りぬくというリスク回避をしなかったのも確か。

今日では、トヨタにせよ、グローバルに事業を展開している企業は、あちこちの情報をきちんと得ているはずで、もし、長銀が生きていたなら、それ以上の情報力を持っていなければならない。

長銀は、投資銀行になろうとしていたものの、不十分であったらしいのだが(上記本によると)、本来なら、いち早く外国人でそういうことが出来る人材をもっと大量に導入しておくべきだったのだろう。当時は、「優秀」な行員をなかから育てようとしていたはずだ。バブルに走る前から投資銀行化は言われていたのだから、その頃から、外国の銀行ともっと四つに組んでいてもよかったのかもしれない。

別の本で、オランダの女王などが中心となった世界の金融クラブがあるとのことであったが、こうした欧米のクラブにしたたかに入り込んでいたとは思えない。パーティなどで表面的なつきあいは出来ていたにしても。イギリス、オランダのように世界をまたにかけて金融ビジネスをしてきたしたたかな人たち、スイスのように永世中立で世界中の大金持ちのお金を預かってきたしたたかな人たちとどこまで本当につきあっていたか、心もとない。こういう力を持つことが本当の情報力なのだろう。

これからの企業は、少なくとも、こうした世界中の業種別、地域別、宗教別のクラブ的なものの情報を持てるくらいになっていなければならないだろう。

私は、幸いなことに、もう61歳で、こうした企業で働くことは無いが、もし働いていたら、グローバルな企業風土のなかでどのように踊りきれるか、コミュニケーション力がないと無理だろう。もちろん与えられた仕事だけこなすクラークならば、それは可能だろうが。

・そう考えてくると、政治家や行政も、同じように、グローバルな世界で切った張ったができなければならない。

企業と違って、場所を海外に移すことはできないにしても、日本を守るためにも、情報力とそれを活かせるだけの力が必要である。国のインテリジェンス(諜報機関)を強化すべきという議論があるが、これは喫緊の課題であろう。行政マンも、海外留学経験者や海外勤務経験者などが国際部をどうにかやっているという状況ではなく、もっと国際的な人脈や考え方が出来る人を増やす必要があるだろう。

アメリカとの関係は、表面維持しながらも、独自の外交政策・産業政策を、アメリカに潰されないようしたたかに進める、時には、逆にアメリカを巻き込んで日本の戦略に沿って進めていく必要がある。

地域が地域の計画を実現するために、国の施策を上手に(主体的に)活用したり、法制度を自らの都合が良いように変換を迫るといったしたたかさが必要なのと同じように、日本は、アメリカを上手に使えるくらいにしたたかになる必要がある。

お伺い外交、お願い外交ではなく。大義名分を打ち出し(本当は日本のためなのだが)、だからアメリカも賛同すると世界的にも評価されますよ、といったやり方で。

・では、こうしたなかで、私が考えるべき地域、つまり足し算のリアルな世界は、どのようにしたら良いのだろうか。

地域でイノベーションを起こすにあたっては、地域にとってのメリットを考えた上で、グローバルな視点で動く、必要ならば、国の法制度を変えさせる(国にもそのほうがメリットがあると思わせる)。

具体的には、どのようなことが考えられるだろうか。

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2008年5月26日 (月)

垣花邸での茶会

お茶は、お茶事が本道なのだが、なかなかお料理を作ってやるのは、我々のような初心者には機会がない。

お稽古のお仲間で、お姉さんのお家を貸してくださるという話があり、またとないチャンスなのでやらせてもらうことになった。丁度、お免状?の最後まで貰った友人がおり、彼女が茶会を開くという設定でやることになった。

私は、下っ端の下っ端だが、初めて前日の準備に参加させてもらった。といっても、お掃除と食器を出して揃えることぐらいで、後は、皆さんが懐石の献立を考えるのを側で聞かせてもらっただけなのだけれど。

そして、次の日(5月6日)は、お客になった。

前日夜には、風と雨で、折角庭の掃除をしたのに、また当日掃除をしなければならなかったとのことだけれど、5月の雨上がりのさわやかな日の茶会となった。

3人がやっとという小間での茶事は、本当によかった。窓は閉めなければいけないのかもしれないが、暑いので少しあけてあって、木漏れ日に若葉がきらきらと輝いていたし、名残の赤い椿もきれいだった。薄暗い部屋のなかで、和紙と竹の窓から差し込む明かりがお手前をするご亭主をほのかに照らしていて、色白の彼女がとても美しく見えた。

掛け軸は「炉の後は、一畳青し、時鳥」だった。ホトトギスではないが、小鳥がさえずるのが聞こえ、蹲(つくばい)に流れる水の音と相まって、ゆったりとした時を楽しむことができた。

後座の花は、都忘れと梅花空木。空木は、まだ花が開いていなかったが、楚々としていた。Baikau21

前日お手伝いさせていただいたこともあり、なんだか、お茶の楽しみが分かったような気がした。亭主「chajiorei.doc」をダウンロード と茶室を貸して下さった方「chasekiorei.doc」をダウンロード へのお礼状、備忘録として。亭主への手紙の下にあるのは、茶事における手紙の例が掲載されているURLです。

PS:前日の帰り、広尾の交差点で、天皇の車が通るのに出会った。それはさておき、さらに、昔の同僚の臼杵さんとばったりであった。臼杵さんとは、先日も、市ヶ谷でもばったり出会った。なんだか、不思議なところで出会うもんだ。

PS:当日、帰りがけ、恵比寿駅に向かって歩いて、茶花を売っている店を私も知っておこうと思ったが、日差しがきついので、どうしようかと迷っていたら、ちょうど渋谷区の100円バスが来たので、乗った。いつもお稽古の帰り、恵比寿ガーデンプレイスで乗るコースだったのだが、ガーデンプレイスの一つ手前の停留所が加計塚小学校だった。

なんと、春枝さんの小学校だ。ここは、前も通ったことがあったのだが、名前を知らなかった。春枝さんが子供の頃は、恵比寿に住んでいて、(関東大震災?)下町が焼けるのを見ていたという話を聞いたことがあり、小学校の頃から足が悪かったのでおばあちゃん(春枝さんの母)が心配して先生のところに行った折、男の子が春枝さんのことを「びっさ、びっさ」と囃し立てるのに、春枝さんが一緒になって「びっさ、びっさ」と言うので、先生がお母さん大丈夫ですよと言ったというのがこの小学校のはずだ。HPを見ると、大正8年創立というから、大正3年生まれの春枝さんが5歳なので、出来立ての学校に入ったことになる。HPにも、高台にあるとある。春枝さんは、女学校は、今の目黒高校であり、これも近い。もっとも、この頃には、野沢か三軒茶屋の方に住んでいたのだと思うが。

PS:お借りした家は、もともとは麹町に住んでいて、ここはおじいさんの代に別荘として作ったとのこと。戦後、疎開から帰ってきて、麹町の家が焼けてしまったので、ここに住むことにしたのだそうだ。ここは、お寺の土地のなかのようで、周りはお寺が多く、大きな大木もあって、閑静なエリアだ。広尾商店街の突き当たりなのだが、今は、オープンカフェになっているところは、友達が子供の頃(おそらく昭和の最初)にはまだ牧場で牛を飼っていたという。

おじいさんが、別荘に、楽しむために茶室を作られたらしい。明治の頃のお金持ちの遊びであり、材木など、かなり本格的に作られたもののようだ。Fushinan_2 Senkechashitsu_2 (写真は、表千家のHPから。垣花邸とは関係ありません。)

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61歳

4月30日が来て、61歳となりました。昨年は、還暦で、碩さんたちが出来立てのミッドタウンでお祝いをしてくれてからあっという間に1年経ってしまいました。

結局オロオロ、ウロウロした1年でした。

1.岡本ゼミ参加

岡本先生のお世話で、法政大学大学院で教えることになりましたが、大学院生にどのように教えるのか、東京の大学院生がどんな感じなのかが分からなかったので、昨年の春から夏にかけては、岡本先生のゼミに参加させてもらいました。

2.文化資産研究会

同じく岡本先生が以前から開催している文化資産研究会に参加していました。札幌の産学連携を整理しようかと思いましたが、まだ生生しく、悪口になってしまうので、止めて、結局、原宿の調査を始め、ヒヤリングや資料収集・読み込みなどをしましたが、方向性が見えず、今休止しています。

これは、文化服装学院での小山田さんのファッション史をまとめるのにも参加させてもらい、それとの関連もあったのですが、夜の会合だし、なんとなく、出なくなってしまいました。これは、きちんと謝っておかなければと思います。

3.繊維自立事業の総括

繊維自立事業のケースの失敗から学ぶ教訓というのもやりたかったのですが、言い出しておいて、これも結局、資料を開けませんでした。

4.大学院での授業

9月から大学院の授業開始で、はらはらしながら資料作成などしていたのですが、最初は受講生が誰もこなくて、あわや開講されないかと思いましたら、小樽から内閣府に来ている木村さんが、なんと受けてくれることになり、ひとりは受講生が居るので、開講となりました。ひとりではなんなので、ちょうど大学院生の白蓋さんが参加してくれ、ケースを中心にゼミ風に進めて、それなりに面白かったです。

木村さんは、地域行政に長いこと携わり、現在もそういうお仕事ですので、どうして私の授業を取ってくれたのか分かりませんが、現場は知っているけれど、本当は+アルファが欲しかったのではないかと思います。そのお役に立てたのかどうかは、分かりませんが。

5.学び直し

白蓋さんが私の授業を受けてくれていた関係もあり、法政大学が提携した3つの地域の学び直し事業のインストラクター向けの講義を手伝うことになりました。私は、出張はできないので、東京でのテレビ授業を2回ほどやりました。これもそれなりに勉強になり、3つのフィールドを得たのはそれなりによかったです。ただ、これも今年はお声も掛かっていませんし、その後どうなったか分かりませんが。

6.その他法政関係

そのほか、岡本先生関係で、文化服装学院の専門職大学院で3回分ベンチャーの授業を受け持ちました。学生が2~3人居ました。新しい学科のための国際シンポジウムのパネラーをさせてもらいました。外国人が自治を自明のこととしていることが日本との違いであると強く感じました。また、オムロンの会長さんが京都商工会議所会頭になったので、その施策の肉付けの手伝いというのをやりました。

7.お茶のお稽古

5月くらいからお茶のお稽古に復帰したのですが、上記のゼミを覗かせてもらったり、文化資産の研究会や学び直しが土曜日だったので、お茶も休み休みでした。でも、足を手術し、もう着物も着られないし、お茶も出来ないと思っていたのですが、しびれて転ばなければ良いと医者に言われたことや、体育館で筋肉を鍛えたり、体重を少し減らしたこともあり、復帰できたのは、嬉しいです。

週に一度、着物を着て、茶の空間に身を置くことは、気分転換になり、癒しの効果もあり、まぁ、おしゃべりもできるし、助かっています。母のこともあり、仕事がフルでないこともあり、田無に居るだけでは、腐ってしまいそうですが、お茶のお稽古だけでも外に出られ、お友達とおしゃべりして息抜きも出来るのは、本当に良かったです。

今更のように、前の職場の西村さんが、あなたも、そろそろ仕事以外の趣味を持たなければだめよと骨董やお茶の先生を紹介する手立てを作ってくれたことには、感謝感謝です。

8.トレーニング

身障者なので、今のところ体育館利用が無料です。本当は週に2回くらいが良いのですが、結局1回程度ですが、1年続けることができました。お陰で、体重が50キロを切りました(もっとも、0.55キロ洋服分で引いてありますが)。ムリをしないで、続けたいと思っています。

と、まぁ、こんなことが一年の総括です。

9.年金暮らし・やりくり・家事全般

年金の手続きが4~6月くらいまでかかりましたが、一応、かつかつの生活は出来るようになりました。しかし、委員手当てが少々、大学での雑用仕事が少々といった追加収入なので、ついケチケチの生活になってしまいます。おまけに年金暮らしになったとたんにいろいろと値上げラッシュです。

サラリーマン生活は、何も仕事をしなくても、一定程度の収入があるので、何も考えずにお金を使っていましたので、まぁ、やりくりを考えるのも人生の一つの練習としては良いのかもしれません。

家事もそうです。これまでは、掃除洗濯食事の支度と、何もしないで来ましたので、北海道での一人暮らしで少しまともになり、現在、ようやく、普通の人並みになった程度だろうと思います。

せっかく、やりくりや家事をするなら、それなりに上手にならなければと思いますが、まだまだです。野菜の保存方法や冷凍の方法などを少し覚えましたし、油で揚げるものもだいぶできるようになりましたが。お茶の先生に鰹節を削る箱を頂戴したので、これもやっていますし、ぬかみそも1年持ちました。

10.今年度目標:ブログ開始・本出版

今年度になってから、あまり法政大学での雑用がないので、少しさびしい気もしますが、家にずっと居るという生活にも少し慣れてきました。

最初は、新しい学部の授業が6月からだと思っていたので、4月ぐらいから、焦って資料づくりをしていたのですが、9月からというのでちょっと拍子抜けしています。本当は、早く本かなにかをまとめたいと思っているのですが、上記のように、一年間は、雑雑しく終わってしまいました。本にまとめるか、ブログで町田さんのように、定期的にやろうと思っているのですが、コアができていないので、どちらも出来ずにいます。

来年の誕生日までに、少し形をまとめたいと思っているところです。

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携帯電話のプラットフォーム

4月25日、紛争処理の勉強で、依田先生の弟さんで京都大学教授のレクを受ける。弟は生意気だからとお姉さんが言われていたが、賢そうで、自信もありそうで学者らしかったです。「携帯電話市場とプラットフォーム機能」と「ブロードバンド、マイグレーション(移行)、そしてロックイン」というご報告でした。

忘れないためのメモです。

前者は、番号ポータビリティが導入されたけれど、制度導入後わずか3%しか利用されていない。その理由を探ったもので、プラットフォームのオープン化がなされていないために、携帯電話番号は継続利用できても、電話会社を変更すると、メールアドレスや音楽コンテンツなどをそのまま持って行けないから(スイッチング費用が高い)とのこと。

これを証明するために、「コンジョイント分析」というのをやりましたとのこと。コンジョイント分析というのは、アンケートで、仮想の質問をすることで、潜在的ニーズを探り出す方法らしい。

たとえば、メルアドのポータビリティがある場合で、コストが1000円ならそれを選ぶか、3000円なら選ぶかといった質問をすることで、潜在的な乗り換え率を予想する。

あるいは、音楽コンテンツについて、①1曲当りの価格が100円、200円、300円、②アクセスの容易さ(メニューからリンク、検索エンジンで探す)、③決済の容易さ(電話会社の代金回収代行、クレジットカード利用)などのいくつかのパターンを質問して、どちらを選ぶかを見る。

調査の結論として、たとえば、ユーザは、全てポータビリティが可能な場合、2000円なら支出しても良いと思っているとか、音楽配信サービスの場合、アクセスや決済が容易であることが望まれ、そうなら1曲当り100~200円なら支払っても良いと思っているなどが分かるとのこと。

日本の携帯電話サービスは、電話会社による囲い込みの垂直統合モデルで成長してきた。プラットフォームのオープン化の議論は、8年くらい前から言われてきた議論なのだけれど、これを数字でちゃんと証明したことがポイントのようだ。PCの世界からみると異常なのだけれど、確かにクローズド化によって利便性が増し、高度なコンテンツ提供がされてきたことも確かなのだ。

総務省も、大局的に見れば、オープン化で競争促進によって携帯電話利用の活性化を望んでいる一方、クローズドな世界は、ある意味日本市場に合っているともいえ、これによって携帯電話会社の収益が高いこともあり、難しいところなのだ。クローズドなビジネスモデルは、日本だけなので、世界に広がらないという面もある。

そこで、総務省は、MVNOの促進を図ることで携帯電話市場の競争を促進したいと施策を進めているのだが、今のところ、なかなか進んでいない。

一方で、アップルiPhoneやグーグルのようにPCインターネットの世界の雄がいよいよ携帯電話事業に出てきた。アップルは、アメリカではAT&Tの回線網を使って、使用料を支払っている。アップルのビジネスモデルは、ある意味、アップルとしての垂直統合モデルで、アップルのサイトから携帯電話ソフトをダウンロードし、コンテンツもダウンロードする。グーグルは、自ら電波を取得し、MVNOに貸し出すという仕組みらしい。

携帯電話網では、世界のなかで日本が最もブロードバンド化が進んでおり、欧米の2Gでは、それほどインパクトが出ないかもしれないが、これらが動きだしたことで、世界中が携帯電話の可能性に気づき、日本とは異なるビジネスモデルが出てくる可能性がある。

アップルは、ドコモと交渉中というが、諸刃の剣で、これによって、ドコモのトラフィックは維持されるかもしれないが、ドコモの垂直モデルは相当浸食されることになるはずだ。プラットフォームのオープン化などと叫ぶのではなく、このように競争のなかで、利用者が最も喜ぶモデルが生まれてくれることが望ましい。

だが、一方で、日本のなかで、どうして新しいビジネスモデルを提供する強烈な企業が出てこないのかが口惜しい。強烈なコンテンツを持つ企業・・・Wiiの任天堂が携帯電話のMVNOになる??他には?フーム。

もう一つの報告内容は、ADSLでソフトバンクの価格破壊で日本のブロードバンド化が加速したが、現在、FTTHに移行しつつあり、そうなると、再びNTTグループの独壇場になってしまっているという指摘(これを数量的に明確にしたところに意味があるらしい。それぞれの市場が独立しているか代替性があるかなど。)。

NTTがさらに次世代網などでブロードバンド化を主導していく場合、地方のデジタルデバイドがさらに進む。無理して導入しても利用イメージ(利用するメリットが理解される)が湧かないと、使われなくなってしまうとの指摘(インターネット利用と考えるよりも、遠隔医療など公的需要を政策的に考えるとよいといっているようだ)。また、古い電話網の維持費にお金が掛かるので、企業としても政策的に光化したほうが安いかもしれない(もともとの管路などを利用できるのでそれだけ敷設するよりお金がかからないのではないか)。

別件で一次産業を活かすのに、ネットは欠かせないが、インセンティブが明確でないと、一次産業の人がPCインターネットを使うようにはならないと思った。ここは、いろどりのやり方(ネットには、儲かる情報があることを納得させる)が参考になる。そうなると、地方にも需要は増えるはず(本来、過疎地のほうがネットのメリットはあるのだから)。

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