垣花邸での茶会
お茶は、お茶事が本道なのだが、なかなかお料理を作ってやるのは、我々のような初心者には機会がない。
お稽古のお仲間で、お姉さんのお家を貸してくださるという話があり、またとないチャンスなのでやらせてもらうことになった。丁度、お免状?の最後まで貰った友人がおり、彼女が茶会を開くという設定でやることになった。
私は、下っ端の下っ端だが、初めて前日の準備に参加させてもらった。といっても、お掃除と食器を出して揃えることぐらいで、後は、皆さんが懐石の献立を考えるのを側で聞かせてもらっただけなのだけれど。
そして、次の日(5月6日)は、お客になった。
前日夜には、風と雨で、折角庭の掃除をしたのに、また当日掃除をしなければならなかったとのことだけれど、5月の雨上がりのさわやかな日の茶会となった。
3人がやっとという小間での茶事は、本当によかった。窓は閉めなければいけないのかもしれないが、暑いので少しあけてあって、木漏れ日に若葉がきらきらと輝いていたし、名残の赤い椿もきれいだった。薄暗い部屋のなかで、和紙と竹の窓から差し込む明かりがお手前をするご亭主をほのかに照らしていて、色白の彼女がとても美しく見えた。
掛け軸は「炉の後は、一畳青し、時鳥」だった。ホトトギスではないが、小鳥がさえずるのが聞こえ、蹲(つくばい)に流れる水の音と相まって、ゆったりとした時を楽しむことができた。
後座の花は、都忘れと梅花空木。空木は、まだ花が開いていなかったが、楚々としていた。
前日お手伝いさせていただいたこともあり、なんだか、お茶の楽しみが分かったような気がした。亭主「chajiorei.doc」をダウンロード と茶室を貸して下さった方「chasekiorei.doc」をダウンロード へのお礼状、備忘録として。亭主への手紙の下にあるのは、茶事における手紙の例が掲載されているURLです。
PS:前日の帰り、広尾の交差点で、天皇の車が通るのに出会った。それはさておき、さらに、昔の同僚の臼杵さんとばったりであった。臼杵さんとは、先日も、市ヶ谷でもばったり出会った。なんだか、不思議なところで出会うもんだ。
PS:当日、帰りがけ、恵比寿駅に向かって歩いて、茶花を売っている店を私も知っておこうと思ったが、日差しがきついので、どうしようかと迷っていたら、ちょうど渋谷区の100円バスが来たので、乗った。いつもお稽古の帰り、恵比寿ガーデンプレイスで乗るコースだったのだが、ガーデンプレイスの一つ手前の停留所が加計塚小学校だった。
なんと、春枝さんの小学校だ。ここは、前も通ったことがあったのだが、名前を知らなかった。春枝さんが子供の頃は、恵比寿に住んでいて、(関東大震災?)下町が焼けるのを見ていたという話を聞いたことがあり、小学校の頃から足が悪かったのでおばあちゃん(春枝さんの母)が心配して先生のところに行った折、男の子が春枝さんのことを「びっさ、びっさ」と囃し立てるのに、春枝さんが一緒になって「びっさ、びっさ」と言うので、先生がお母さん大丈夫ですよと言ったというのがこの小学校のはずだ。HPを見ると、大正8年創立というから、大正3年生まれの春枝さんが5歳なので、出来立ての学校に入ったことになる。HPにも、高台にあるとある。春枝さんは、女学校は、今の目黒高校であり、これも近い。もっとも、この頃には、野沢か三軒茶屋の方に住んでいたのだと思うが。
PS:お借りした家は、もともとは麹町に住んでいて、ここはおじいさんの代に別荘として作ったとのこと。戦後、疎開から帰ってきて、麹町の家が焼けてしまったので、ここに住むことにしたのだそうだ。ここは、お寺の土地のなかのようで、周りはお寺が多く、大きな大木もあって、閑静なエリアだ。広尾商店街の突き当たりなのだが、今は、オープンカフェになっているところは、友達が子供の頃(おそらく昭和の最初)にはまだ牧場で牛を飼っていたという。
おじいさんが、別荘に、楽しむために茶室を作られたらしい。明治の頃のお金持ちの遊びであり、材木など、かなり本格的に作られたもののようだ。
(写真は、表千家のHPから。垣花邸とは関係ありません。)
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