戦後
第二次世界大戦で敗れた日本は、今思うと玉音放送で涙したものの、なんだか明るかったような気がする。暗くて息を詰めていた戦時体制が終了し、負けたものの、焼け野原の上に広がる青空の下、顔は輝いていたように思えるのは、後から文献や映像でそういう絵を見ているからなのだろうか。少なくとも、生きていくエネルギーに満ちていたように思える。
服飾史を勉強していたときに、戦後すぐに女性がスカートと半そでの洋装になり、二の腕がまぶしかったと書いてあったように記憶する。女性たちが自由・平等・民主主義などをどこまで理解していたかは分からないが、戦時体制からの解放と、全ての秩序が崩壊したことによる桎梏からの解放が虚無につながるのではなく、自由を楽しむ前向きな姿勢につながっていたようだ。
これに対し、今回の敗戦では、全ての秩序が崩壊したことが虚無につながり、途方に暮れているように思えるのは何故だろうか。
あまりにも、第二次大戦後の成功が国民の多くに安泰と幸せを感じさせてしまったが故に、その崩壊に呆然としてしまっているのだろうか。第二次大戦では、文字通り国敗れて山河ありだったのに、皆が明るかったのは、その前の戦時体制が余りにも国民にとって辛く、厳しいものだったからなのだろうか。
明治の無血革命のときはどうだったのだろうか。京都の人たちは、天皇が東京に行ってしまった喪失感から、逆に産業振興や教育振興に力を入れた。江戸の人たちは、野暮な田舎者が政治を牛耳るのを馬鹿にしながらも、新しい時代の文化を面白がって吸収し、自分のものにしていった。諸外国で起きた産業革命を起業家は、積極的に日本に取り入れていった。
明治まで入れるとさらに分からなくなるので、とりあえず、この間の第二次大戦での敗戦から復興にかけて(45年-65年)とバブル崩壊(90年-2010年)からの復興にかけてを考えてみよう。当時生まれた子供が20歳になるまで、10歳の子供が30歳になるまで、20歳の子供が40歳になるまでだ。
・女性は、それまでの家と結婚するから、個人の結婚となりマイホーム。農家の大家族の嫁から都会のサラリーマンの妻へ。当時はキャリアウーマンは少ないが、勉強して良い大学・就職先に入れば、良い伴侶を見つけられる。自分で働いたお金で、洋服など好きなものを買える。アメリカの映画に出てくる庭付き一戸建ての家で、テレビ、洗濯機などが揃った夢のような暮らし。
・男性は、長男は田舎に残るも、東京に集団就職、一生懸命働いて、マイホームを持つ。あるいは、勉強をして良い大学に行き、大企業に勤めて、これまで経験したことも無い仕事をし、都会のきれいな女性と知り合い、夜の街で遊ぶ。一生懸命仕事をすると、会社のなかで出世をし、給与も地位も仕事の面白さも高まる。
・古い田舎のしがらみが無くなる一方、勉強したり、一生懸命働くと目に見えて生活が良くなり、夢のマイホームが手に入る。危険なことはすっかり無くなり、自分の生活も、日本の社会も一直線に右上がりに上昇していった。
・これを可能にしたのが、野口悠紀雄さんが分析した「40年体制」(日本的経営、間接金融、官僚制度、生産優先主義、競争否定の共存政策、財政、土地制度・・)なのだろう。野口さんによれば、戦時体制下でこそできた緊急の中央集権的な仕組みが戦後も生き延び、これが高度成長期に適合したという。
戦後も生き延びたことにも興味があるが、野口さんは、環境が変わったので、この戦時体制とは決別すべきである(この体制の欠陥を指摘)ことをこの本では述べている。95年に出されており、バブル(敗戦)後のあるべき政策提言をしている。
読み直してみないと分からないが、おそらく、95年当時に野口さんが感じていた以上にグローバルな環境変化は進んでおり、無策も続いているので、彼は敗戦とは言っていないが、敗戦の後遺症は大きくなっているはずである。
・彼の指摘した政策提言の精査と、あるべき政策を実現するための方策の検討をする必要がある。
・政策が上手く変換した場合、人々は、どのような夢を描き、そのためにどのような努力をしたらよいのかを示唆する必要がある。
焼け跡から這い上がるうえで、人々の強い意志があったからこそ、40年体制は上手く機能した。政策が正しい方向に変わったとしても、人々が生き抜くための強い意志を持てるようにしないと、魂が入らない。以前のような単線右上がりの姿は描けないにしても、何をしたら、尊敬されるのか、何をしたら、食べていけるのか、何をしたら、心が豊かになるのかのイメージを描けるようにすることが必要だ。これは、国が決めるのではないかもしれない。智恵者が方向づけるのかもしれないが政策の方向性は出せるはずだ。
これなしでは、教育再生もムリだし、若者がニートから脱するのも、子供を生むようにするのもムリである。
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