100歳の祝い
7月6日(日)に伯母が100歳になり、彼女が入居している特別養護老人ホームで近い親戚一族が集まってお祝い会をやった。
彼女は、今日は、自分が主役であり、自分のために皆が集まり、食事をし、楽器演奏や写真・ビデオ撮りが行われていることは理解しているようだ。「有難う、嬉しいヨ」といってニコニコし、ひ孫にチューをしようとする。
いつもは刻み食とのことだが、我々が食べたうなぎのお重を細かく刻んで食べさせると「美味しい」と言う。バースデーケーキも食べて「美味しい」と言う。
ひ孫が歌を演奏し、知っている曲だと良い声をはりあげて歌う。皆が上手だと拍手をするとおどけて、拍手をわざと外して手を叩く。車椅子だが、顔色は良い。
しかし、誰が誰なのか、私が誰の子供かなどは、どうやら全く分かっていないようだ。
身体としては元気なので、おそらく、1年、2年、ひょっとすれば5年は生きそうだ。この老人ホームには、すでに100歳を超えた人が4人も居るとこのこと。
一番上の息子は77歳だ。乾杯のときに誰かが、伯母が今後も元気で長生きして・・と挨拶したら、彼は「もう止めて欲しい」と叫んでいたが、そうなりそうだ。長男のほうがくたばってしまいそうだ。
でも、嬉しいことも、悔しいことも全て含めて思い出も忘れ、誰が誰かも分からなくなり、ただ生物として(かなり元気に)生きているというのは、なんだか悲しい気もする。それとも、生物として元気で、心楽しく毎日を送れるなら、それはそれで当人としては、良いことなのだろうか。
ベットで寝たきりになり、チューブだらけなら、延命治療を止めて、死なせてあげたらよいと思うけれど、伯母のように、ともかく元気で、こうしたイベントがあれば楽しくてしょうがないのなら、死なせるわけにはいかない。
第三者のヘルパーさんなら彼女のような人が毎日を健やかに過ごせたら、それはそれで良いと思えるのだろうが、息子とか思い出やつながりで介護をしている人にとって、砂に水を撒くような徒労感を覚えるのではないだろうか。
私の場合、母は、足は悪いし、気力も薄れているものの、まだ意識がはっきりしているのは、喧嘩もするけど有難いのかもしれない。
従姉の美江子ちゃんのお母さんは、認知症で、身体は元気なのだが、最近では、トイレに連れて行っても、そこで何をどうしたらよいのか分からなくなってしまったという。
母の場合、足が悪いので、トイレが間に合わず、時には一日に何度も下の面倒を見るので、彼女も悲しそうだが、私も、良いのよといいながらも、続くとさすがに嫌になってしまうのだけれど、美江子ちゃんのお母さんのほうは、分からないで下の問題が起こるという。
100歳の伯母は、ホームに入る前までは、長男の嫁が面倒を見ていたので互いに精神的に大変だったみたいだ。
実の娘で、喧嘩するほどまだ意識があって、寝たきりではない・・・という今の状況は、まだまだ有難いことなんだろう。
伯母のお祝いとしては、少々虚しかったけれど、美江子ちゃんも同じようなことをやっているのを知っただけでも、心が少し軽くなれた。
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