価値総研(元長銀総研)が創立25周年で、記念の特集号を出すとのこと。それにあたって、原稿依頼が来た。
テーマは何でも良いというので、却って何を書いたらよいものか迷ってしまった。
1.長銀調査部で学んだこと、お世話になった人などについてお礼を述べようか。
2.ゲタを履いていた当時の生活についての自己批判を述べようか。
3.最近考えている世の中のことを述べようか。
1.も書いて起きたかったのだが、思い出を美化して述べるのは、なんだか嫌だった。
2.については、実は、長銀が崩壊したときには、自分がここまでゲタを履いていたとは理解していないで、組織が崩壊したら、組織で生きてきた本流の人たちはオロオロするだろうが自分は傍流で下層階級なので強く生きれると自負していたのだ。
それが今になってゲタを履いていたことに気づき、顔から火が出るほど、穴があったら入りたいほど恥ずかしいと思っている。これを引きずっているうちは、前に進めない。そこで、自虐も含め、ゲタを履いていたことを告白し、そこから這い上がることの辛さ、難しさをさらけ出そうと思ったのだ。裸一貫で自分になにができるのか。
若い頃に組織や人脈もなく、裸一貫で這い上がった同世代が、今日では、ある分野で一流となっている。これに対し、私は、還暦になってから、裸一貫であることを痛いほど知らされて途方に暮れている。体力的にもかなり苦しいけれど、人生80年で残り20年はあるのだからやらなければならない。
しかし、どうしても自虐的なのに誰かに助けを求めているような、誰かのせいにしているような嫌な文章になってしまう。そこで、3.でお茶を濁した。
3.についても、実は、こんなことを書いてレベルが低いと思われるのではないかと自信がないのだ。このところ、世間に何も発していないのだから。立ち位置が明確ではない私が、蟷螂の斧のような文章を書いている。締め切りだったので一応出したが、自信もなく、嫌な気分だ(出稿したもの)「zakkan.doc」をダウンロード 。
以下は、2.について書いたもの、これもまだ消化しきれていないのだが。
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汗顔の至り
長銀調査部(産業調査部とか総研とかを全て含めて)での生活は、組織や周りの優れた方々のお陰で、ずいぶんとゲタを履いた暮らしをさせて頂きました。当時は、自分では「仕事」をしていると認識しており、それなりに一生懸命やり、忙しいとか大変だと感じたこともあるのですが、今から思えば、とても仕事とは言えない、まるで貴族のような優雅な暮らしでした。
英語もできないのにさまざまな地域に海外出張に行かせて頂いたり、公務員試験に受かってもいないのに中央官庁の行政の仕事をさせて頂いたり、本来の私の力ではとても適わない贅沢な体験をさせて頂きました。また、つたない調査レポートなのに、自動的に有識者の目に留まるよう配布してもらえたため、出版の機会を得たりマスコミに登場することもでき、世論の真ん中に居るような錯覚を得ることもできました。
無知だからこそやれた勢いのようなものがあったのだと思いますが、真に教養のある方々は、どのように私を見ていたものかと恥ずかしくなります。おそらく、呆れつつも、寛容な心で苦笑いされていたのでしょう。
舞台を用意してもらった
私が贅沢な体験をすることができた背景には、次のようなメカニズムが働いていました。それは、男性行員たちが何かしら業績を残したいと思って仕掛けを作り、その仕掛けの弾としてたまたま私が起用されるという、なんとも有難い役回りでした。
たとえば、ある人は、女性の書き手を育ててマスコミに注目され、如いては役員に自分の存在をアピールしたい。ある人は、上司がそのように女性を活用したいなら、当時社会的にも珍しかった女性の海外出張を実現させようとする。ある人は、海外の著名なシンクタンクと連携して国際規模の調査研究を実施する(日欧産業協力というテーマでたまたま私が自動車担当)。ある人は、通信の自由化でこれから伸び盛りの旧郵政省向けに産業調査が分かる人材を派遣する・・・といった具合です。
実力もないのに良い舞台を得られた私のことを、「上司に贔屓されている」とワイドショー的な見方をする人もいました。こんなことを書く機会はもう無いでしょうから、敢えて書いておきますと、良い舞台を得られたのは、私という個人が可愛がられたというより、上に述べたような、いろいろな人の思惑の結果なのです。個人的な感情といったドロドロしたものではなかったことは、私にとってクールで心地良いものでした。
しかし、余りにも人が作ってくれた舞台に恵まれてしまったため、自分が企画をし、関係各所に根回しをするといったプロデューサー的な能力が身に付かないままになりました。これが組織から離れ、自分の力で何か始めなければならない現在、私の大きな課題です。
グリコのおまけ
調査部は、それ以外の銀行員から「グリコのおまけ」と言われていました。取引先を訪問した時に、手土産代わりに持っていく調査レポートをつくる程度の仕事をしているという意味です。内心「そうだなぁ」とは思いながらも、調査部員としては、羅針盤とか風見鶏(日和見主義という意味ではなく、風が吹く方向をいち早く察知する)たらんと思っていました。長銀本体も他行に比べ、情報力とか先見性、洞察力などを売りにしていたと記憶します。
しかし、あっという間に本体が沈没した時、何もすることができなかったし、どのようなメカニズムが働いているのか本当のところを把握することもできませんでした。私のような小者が思うことではないのでしょうが、情報力を標榜していた長銀マン、そして調査部員としては完敗です。本当の情報力、判断力を持ちえていなかったと恥を知り、蟄居すべきだと思っています。
安保闘争が盛んであった20代の頃、親に向かって、「何で太平洋戦争に反対しなかったのか」と問い、「普通の人にはわからないうちに戦争になっちゃったのよ」という答えを聞いて、馬鹿みたいと思いました。しかし、歴史の真っ只中に居るのに、何が起こったか分からない、自分が何もすることができないということが起こるのだということを知りました。
情報発信の立ち位置
長銀調査部で私がやってきた仕事は、世の中の一般的な論調が気づいていない事実や論点を「ほらね」と見せてあげることだったと思っています。
世の中が気づいていない事実や論点を提供する手法として、学者が良くやるのは、理論に当てはめて風説とは違う視点を提供する、あるいは海外の優れた事例を紹介する(いわゆる出羽の守)というものでした。これに対し、竹内さんの「路地裏の経済学」は、大通りばかり見ている人たちに、路地裏の優れものを紹介し、その意味することを解説する手法でした。私もこの真似事をさせてもらってきました。
しかしながら、この頃は、マスコミも路地裏的な情報を多く提供するようになりましたし、日本の学者も、象牙の塔に籠らず、現場に入り込んで研究する傾向にあります。また、昔は、実業(まち起こしなどの活動を含む)をする人は多くを語らず、それをライターや評論家が書くというのが一般的でしたが、いつの頃からか、実業をしながら自ら情報を発信する人も多くなりました。彼らが書いたものは、やはり説得力があります。
そこで私も、実業をしながら情報を発信したいと、札幌のIT業界が取り組んでいた産学連携プロジェクトの事務局に入れてもらいました。ところが実業の世界に飛び込んでみると、第三者としての発言は許されず、利害関係者として必要であれば嘘を言い続けなければなりませんでした。考えてみればこれは当り前のことですが、単細胞の私には全身に蕁麻疹が出るような心地でした。
現在、失業し、年金を貰いながら生まれ育った町(東京郊外の住宅地)で生活をしています。せっかく生活者となったのだから、生活上の課題から地域の問題に取り組んでみようかとも思いますが、実生活上大きな問題も見当たりません。面倒なことから逃げているのかもしれないし、前述のように自分で活動の場所をつくれない弱さなのかもしれませんが。
こうして、足で稼ぐ情報発信ではマスコミに適わない、理論では学者に適わない、語学が堪能ではないので出羽の守にはなれない、実業をしながらの情報発信も出来ない、地域の課題に取り組むなかから本質的な問題について考えていくことも出来ない状況です。
しかし、人生80年としてあと20年あります。そこで、とりあえず巷の研究者としてさまざまな情報を整理し、自分なりに考えるところから再出発することにしました。テーマは「地域イノベーション」。自分が地域の問題に取り組んでいないという負い目はあるのですが、地域で暮らしているという感覚を大事にしながら、本質的な問題について想像力を働かせて考えて行きたいと思っているところです。
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