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2010年6月25日 (金)

ハイちゃん自宅に戻る

夜の11時半頃に病院から電話があり、血圧が下ってきたとの連絡あり。

そもそも、人が死ぬとは、どういうことなのか分からず、田無の医者に聞いていた。次第に血圧が下るとのこと。また、ある記事で、足がすぅっと冷たくなるとも書いてあった。昼間見舞った折にも、手が冷たくなっており、暖房器具のある毛布をかけていても、温まらないようだったので、危ないかなぁとは思っていた。

慌ててタクシーで駆けつけると12時、それから次第に血圧が低下、呼吸が穏やかになり、手や身体が冷たくなる。26分に臨終。ふぅん、死ぬってこんな風なんだと思う。

看護士が身体を綺麗にしてくれる。爪も切ってある。手を拝ませて数珠を持たせてある。葬儀屋を呼び、自宅に到着。水ぶくれしているので、玄関に入れるのが重そうだ。

先日、カエルのお守りを購入し、ハイちゃんが帰りますようにと拝んでから、あぁそうだ、死んでから戻ることもあるのでと、わざわざ「元気で戻りますように」と拝んでいたのだが、結局、死んでから戻ることになった。

座敷に安置し、その夜は、隣で眠った。

水ふくれで顔が2倍になったが、看護士がしてくれたのだろうか、口が笑っているようで、まるで、円空仏のような顔になった。Enkubutsu

いろいろな段取りがスムーズに進み、12日朝死亡だが、その夕方7時から8時に通夜、次の日の夕方3時出棺ということになった。

自宅での花葬としたので、ご近所の方々も結構来てくれた。昭男さん一家ほかがいろいろと手伝ってくれた。会葬者への礼状は自分の今の気持ちを綴った。「chouji.doc」をダウンロードHaruesougi20100612_025s

火葬場で、結構骨がしっかりしている方ですねと言われ、骨壷に一杯だった。そんなことを聞くと、まだまだ元気で生きるはずだったのではないかと、またちょっと可哀相になる。

ハイちゃんは、散骨してといっていたので、そのつもりでいたが、余りにも骨がしっかりしているので、粉々にするのも可哀相な気がする。係累は私しかいないので、海に撒き、残りをペンダントで持つのと、小さな壺にでも入れておけばよいと思っていたのだが。

まぁ、当分、自宅に置いておけばよいかと思う。

いつも、和室のベッドで寝ていて、私は、行ってくるよとか、二階にいるよなどと断って、勝手に動いていたので、なんだか、生活スタイルは余り変らない。

昨日、昼間は、玄関にヤモリが居て、夜新聞を取ろうと外灯をつけたら、カエルが居た。これはハイちゃんなんだろうか。

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ハイちゃんは死んでしまいました

ブログはご無沙汰でした。

この間の闘病と私の気持ちは、別に記しました。一覧表はこれ「toubyouki.xls」をダウンロード 、詳しいのも別途作成しました。

結局、このブログに記していた入院から10日間くらいは、意識もしっかりしていて、反応、対話があったのですが、その後は、昏睡状態が続いてしまいました。時折、しっかりして、目も開け、誰を見ているかを区別しているようだし、手を握り返してくれることもあったのですが、結局、寝てしまったからか、心臓機能、腎臓機能が弱り、最後は、尿が出ないで顔も身体もパンパンに腫れ上がってしまいいました。

苦しそうだと、延命治療するのは、却って可哀相にもなりました。でも一方で、できることは他にないだろうかと、人工透析の可能性なども田無の医者に相談もしてみましたが、高齢なのでとても難しいということもあり、もうやりようが無いとそれなりに納得しました。

それでも、顔のつやも良く、頭もしっかりしていたので、なんだか不意に死ぬことになり、それが可哀相です。最後に食べたいものを食べるとか、何か言うとか、そういう区切りをさせてあげられなかったのが残念です。

でも、当人も、それまでも漠然とは死ぬことを考えていたでしょうし、入院してからも、何考えているのと聞いたとき、「死ぬこと」と言ったこともあり、それなりの覚悟はしたのかもしれません。

私も、毎日見ているし、髪も染め、顔色も良かったので、母が弱っているということを実感していなかったのですが、考えてみれば、96歳ですし、自宅に居た時も寝ている時間が増え、前は必ず見ていたテレビ番組も見なくなるなど、いろいろと弱っていたのだろうと思います。

後は、気力で(おそらく母親として私が心配でなど)生きていたように思います。

ということで、ある意味では突然だったのですが、それなりの大往生だったのかと思います。

入院している折には、意識があるうちは、なんとかボケないよう、意識を保つようにと、話しかけたり、紙に書いて意思疎通を図りました。その後も、昏睡状態ながら、何か分かっているかもしれないと、歌をうたったり、話しかけたり、手を握ったり、頭をさすったりしました。

最初は、病院の言うままにお任せにしていたのですが、人工呼吸から自呼吸に変るのに一度失敗してからは、モンスターだと嫌われるので、文句は言わないけれど、ちゃんと見ているからネと、主治医の処置や、看護士の対応などをできるだけチェックし、記録に止めていることを知らしめてヘンなことはさせないゾという態度を示しました。

また、もう一つの意見として、医療のことは分からないので、田無のかかりつけ医にこういうことになっているが、どうかという意見を聞くようにしました。

何か私に落ち度があって、ハイちゃんがこんな目にあってしまったのではないか、という思いもあったからです。ご近所や親戚に、私のせいだと言われないようにという気持ちもありました。

「脳出血が治まっているので、体力を快復させるために、最初に鼻から栄養剤を入れたら、心臓・腎臓機能が弱っていて、上手く循環しないで昏睡に」・・・という最初の段階(この頃はお任せで、後からそうだったことを知った)が問題だったのではないかというのが少し気にかかります。

しかし、この最初の段階で、すでに循環が上手くいかなかったわけで、これが結局、その後、強心剤や利尿剤を投与して快復を待つも、最後の段階で上手く機能しなかったのにつながるのだろうと思います。高齢で、循環が上手く機能しない、というのが結局の死因であり、しょうがなかったのかなぁと思います。

こうして、2ヶ月半、いろいろ格闘し、亡くなることにそれなりに納得しましたので、ハイちゃんが死ぬことを受け入れることができました。

意識があるうちに、頭をなでてくれたことや、昏睡ながら手を握り締めてくれたことが、身体に残っています。

結局、「うんと可愛がってもらった」という記憶があるので、なんだか心は安定しています。

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