叔父
母方の叔父(一男さん)は、家族のなかでは立派な人と思われていて、実際、還暦の時の写真は、出来上がった人の良い顔だ。
私は、還暦を過ぎたけれど、まだ自分の顔が出来ていない。
母の兄弟は、祖母に似ている系(目鼻がしっかり)と、祖父に似ている系(目も細く鼻も小さい)に分かれていて、前者は、いわゆる美形である。昔のことだから、兄弟は多いのだが、私が子供のうちに亡くなった人もいるので、よく分からないが、この叔父(一男さん)と私の母(ハイちゃん)と伯父(不美男さん)は、美形である。 この写真の真ん中にいるお髭をはやしているのが私の祖父(母の父)に当たる。後ろの右側に女の子が二人いて、一番右端が私の母(ハイちゃん)、その隣が母の姉(下枝)さん。左下の一番前にいるのが不美男(不美男子という名前なのだが、ひどく美男子だった)伯父さんである。
この写真では、後ろに立っている学生服を着ているのが一男さんだ。この頃から、りりしくってしっかりした顔立ちだ。 この写真の後ろ右側が一男さんとその隣がハイちゃんだ。
これは、世代が変わって、祖母と一男さんを囲んで、堂々と真ん中にいるのが私で、その左側がハイちゃんだ。一男さんの家族と丁度訪ねてきた確か藤井さん一家。
これは、真鶴に一男さんが隠居暮らしをしてからの写真で、母と私が遊びに行った時。こういう赤い毛糸のヘンな帽子をかぶっていた。
これは、我が家を新築した時に奥さんと一緒に来てくれた一男さん、随分と年を取ったが、まだ元気だった。
ハイチャンの若いころの写真だが、これはたぶん建て替える前の我が家なので、若いといっても、もう私が小中学校くらいの頃だろう。
母の姉(下枝さん)は、美形ではない方で、私に似ているらしい(母は、以前入院した折、私のことを回りの人に姉さんだと紹介していた)。彼女は、この間の戦争の折、空爆で、家族一緒に亡くなってしまった。
この立派な叔父(一男さん)は、私が夏休みや冬休みに遊びに行くと、いつも面白い話をしてくれて、おならとか、しょんべんとか、悪い言葉も使って話すので、そういう愉快な人という印象が強い。
「インドの仙人は、お尻の穴からミルクを飲むんだ」というようなことを教えてくれ、今でも、なんだかそんな気がしている。
誰かがくれたのか、赤い毛糸で編んだ変な帽子(後ろに三つ編みがぶら下がっている)をかぶったりしていた。
一男さんは、何でも良くできる人で、蔵前工業(今の東工大)を出ていて、特許庁に勤めていたが、その後、弁理士として特許事務所に移り、その後、所長になった。まだ、羽田から海外に出かける時代に、アメリカに出張した。洋行するというのがハイカラでもあるが、命がけという時代で、小学生だった私は、めったなことでは学校を休ませない親に休みをとらされて、皆で羽田空港のサロンのようなところで別れを惜しんだ。
タラップに載って、手を振るというよく古い映像で見るあれだ。『日本の特許制度」という本も出している。
一方で、文学青年でもあり、口語俳句というのを推進するリーダーでもあった。叔父の家には、俳句のお仲間が良く遊びに来ていたと記憶する。また、油絵もやっていた。
真鶴に月待小屋という別荘を持ち、隠居してからは、そちらに住んで、本を書いたり、絵を描いたりしていた。
休みの日に母の実家(一男さんの家)に行っているときは、叔父が帰ってくると、おかえりなさいと家族一同でお出迎えをし、ステッキや帽子を受け取ったりしていた。
古き良き時代の中流階級の上くらいの生活振りだったのだろう。
前の記事に書いた『メビウスの帯』は、一男さんがあちこちに書いたもの(新たにかいたものもあるかも)を取りまとめたものだ。
改めて読んでみると、全然、私の知っている愉快な叔父ではない。
また、下枝さんが戦時中になくなり、妹一人であるハイちゃんのことをとってもかわいがっていたのに、日記などには、ハイちゃんのことも、私のこともほとんど出てこない。
だから最初に『メビウスの帯」などを貰った時には、つまんないと思った。
でも、今になって、ざらっと見てみると、一男さんは、内にかなり鬱屈した気持ちを持って暮らしていたようだ。
というのは、父親(私にとっての祖父)が喘息で仕事が出来ず、長男として家族を養わなければならなかったからだ。高校では文学部に所属しており、先生もそういう方向に行くのだろうと思っていたら、蔵前に進学するので、どうしたのかと聞かれ、家の事情を話して納得してもらったなどと書いてある。
また、同じ年の友人から「丑年の長男は苦労が多い」と聞かされ、納得したなどという話も載っている。
そうした自分の思うような人生を歩めなかったという鬱屈が、俳句に没頭させたのではないかと自分で分析している文もある。
一男さんにとっての祖父も、幕府側だったため、戊辰戦争後は、良い仕事につけなかったようで、祖父、父(喘息)、自分(総領)と、それぞれ俳句をやってきたのだが、これは皆、自由に人生を送れなかった気持ちからではないかとしたためている。
そして、自分の息子たちが、俳句に興味を持たず、のびのび生きているのを羨ましいといっている。
一男さんは、他の兄弟(忠男、下枝、たまお)には、俳句を進めていたのに、私の母だけは、あっけらかんとした性格で、今を楽しむタイプだったから、おそらく俳句を勧めなかったのだろう。兄弟が皆インテリで、難しい本を読んだり議論しているのに、私の母は、女性誌などを読んでいるので、電車であっても恥ずかしかったなどと言われたという。
だから、一男さんは、一番可愛いがり、結婚してからもずっと生活のことを気にかけていたハイちゃんのことは、文章に書きづらかったんだろうと思う。
一男さんは、私はまったく気がつかなかったのだけど、弟(たぶん忠男)と遊んでいて、空気銃が当たって、どちらかの目が義眼だった。痛かったり、不自由であったのだろうけれど、そのことについても、全く触れていない。
それは、一男さんの美学なのかもしれないが、だから『メビウスの帯』は、言ってみれば、本音は出していない、澄ました本と言えるのではないだろうか。
また、文語ではなく、何故口語にしなければならないかなど、非常に理屈っぽい文章ばかり書いている。一派をなしていて、それへの風当たりが強いのだから、理論武装しなければならなかったのだろうが。
一男さんが会社から戻ると、皆が迎えに出るのは、一男さんが一家を支えていたのだから、当然だったのだろう。そして、一男さんは、エライと、家でも、俳句仲間からも、特許関係からも言われ続け、ずっとおりこうさんでいなければならなかったんだろう。
時に「ワーッと」大声で叫べばよかったのにと思うが、明治の男なので、それが総領というものとして内に込めていたのだろう。
なんだか、ちょっとかわいそうな気もする。
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