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2011年3月31日 (木)

叔父

母方の叔父(一男さん)は、家族のなかでは立派な人と思われていて、実際、還暦の時の写真は、出来上がった人の良い顔だ。

私は、還暦を過ぎたけれど、まだ自分の顔が出来ていない。

母の兄弟は、祖母に似ている系(目鼻がしっかり)と、祖父に似ている系(目も細く鼻も小さい)に分かれていて、前者は、いわゆる美形である。昔のことだから、兄弟は多いのだが、私が子供のうちに亡くなった人もいるので、よく分からないが、この叔父(一男さん)と私の母(ハイちゃん)と伯父(不美男さん)は、美形である。Img_0367 この写真の真ん中にいるお髭をはやしているのが私の祖父(母の父)に当たる。後ろの右側に女の子が二人いて、一番右端が私の母(ハイちゃん)、その隣が母の姉(下枝)さん。左下の一番前にいるのが不美男(不美男子という名前なのだが、ひどく美男子だった)伯父さんである。

 Img_0370

この写真では、後ろに立っている学生服を着ているのが一男さんだ。この頃から、りりしくってしっかりした顔立ちだ。 Img_0371 この写真の後ろ右側が一男さんとその隣がハイちゃんだ。

Kazuotaku これは、世代が変わって、祖母と一男さんを囲んで、堂々と真ん中にいるのが私で、その左側がハイちゃんだ。一男さんの家族と丁度訪ねてきた確か藤井さん一家。

 Manazuru これは、真鶴に一男さんが隠居暮らしをしてからの写真で、母と私が遊びに行った時。こういう赤い毛糸のヘンな帽子をかぶっていた。

 Shinchikuiwai これは、我が家を新築した時に奥さんと一緒に来てくれた一男さん、随分と年を取ったが、まだ元気だった。Haruewakai ハイチャンの若いころの写真だが、これはたぶん建て替える前の我が家なので、若いといっても、もう私が小中学校くらいの頃だろう。

母の姉(下枝さん)は、美形ではない方で、私に似ているらしい(母は、以前入院した折、私のことを回りの人に姉さんだと紹介していた)。彼女は、この間の戦争の折、空爆で、家族一緒に亡くなってしまった。

この立派な叔父(一男さん)は、私が夏休みや冬休みに遊びに行くと、いつも面白い話をしてくれて、おならとか、しょんべんとか、悪い言葉も使って話すので、そういう愉快な人という印象が強い。

「インドの仙人は、お尻の穴からミルクを飲むんだ」というようなことを教えてくれ、今でも、なんだかそんな気がしている。

誰かがくれたのか、赤い毛糸で編んだ変な帽子(後ろに三つ編みがぶら下がっている)をかぶったりしていた。

一男さんは、何でも良くできる人で、蔵前工業(今の東工大)を出ていて、特許庁に勤めていたが、その後、弁理士として特許事務所に移り、その後、所長になった。まだ、羽田から海外に出かける時代に、アメリカに出張した。洋行するというのがハイカラでもあるが、命がけという時代で、小学生だった私は、めったなことでは学校を休ませない親に休みをとらされて、皆で羽田空港のサロンのようなところで別れを惜しんだ。

タラップに載って、手を振るというよく古い映像で見るあれだ。『日本の特許制度」という本も出している。

一方で、文学青年でもあり、口語俳句というのを推進するリーダーでもあった。叔父の家には、俳句のお仲間が良く遊びに来ていたと記憶する。また、油絵もやっていた。

真鶴に月待小屋という別荘を持ち、隠居してからは、そちらに住んで、本を書いたり、絵を描いたりしていた。

休みの日に母の実家(一男さんの家)に行っているときは、叔父が帰ってくると、おかえりなさいと家族一同でお出迎えをし、ステッキや帽子を受け取ったりしていた。

古き良き時代の中流階級の上くらいの生活振りだったのだろう。

前の記事に書いた『メビウスの帯』は、一男さんがあちこちに書いたもの(新たにかいたものもあるかも)を取りまとめたものだ。

改めて読んでみると、全然、私の知っている愉快な叔父ではない。

また、下枝さんが戦時中になくなり、妹一人であるハイちゃんのことをとってもかわいがっていたのに、日記などには、ハイちゃんのことも、私のこともほとんど出てこない。

だから最初に『メビウスの帯」などを貰った時には、つまんないと思った。

でも、今になって、ざらっと見てみると、一男さんは、内にかなり鬱屈した気持ちを持って暮らしていたようだ。

というのは、父親(私にとっての祖父)が喘息で仕事が出来ず、長男として家族を養わなければならなかったからだ。高校では文学部に所属しており、先生もそういう方向に行くのだろうと思っていたら、蔵前に進学するので、どうしたのかと聞かれ、家の事情を話して納得してもらったなどと書いてある。

また、同じ年の友人から「丑年の長男は苦労が多い」と聞かされ、納得したなどという話も載っている。

そうした自分の思うような人生を歩めなかったという鬱屈が、俳句に没頭させたのではないかと自分で分析している文もある。

一男さんにとっての祖父も、幕府側だったため、戊辰戦争後は、良い仕事につけなかったようで、祖父、父(喘息)、自分(総領)と、それぞれ俳句をやってきたのだが、これは皆、自由に人生を送れなかった気持ちからではないかとしたためている。

そして、自分の息子たちが、俳句に興味を持たず、のびのび生きているのを羨ましいといっている。

一男さんは、他の兄弟(忠男、下枝、たまお)には、俳句を進めていたのに、私の母だけは、あっけらかんとした性格で、今を楽しむタイプだったから、おそらく俳句を勧めなかったのだろう。兄弟が皆インテリで、難しい本を読んだり議論しているのに、私の母は、女性誌などを読んでいるので、電車であっても恥ずかしかったなどと言われたという。

だから、一男さんは、一番可愛いがり、結婚してからもずっと生活のことを気にかけていたハイちゃんのことは、文章に書きづらかったんだろうと思う。

一男さんは、私はまったく気がつかなかったのだけど、弟(たぶん忠男)と遊んでいて、空気銃が当たって、どちらかの目が義眼だった。痛かったり、不自由であったのだろうけれど、そのことについても、全く触れていない。

それは、一男さんの美学なのかもしれないが、だから『メビウスの帯』は、言ってみれば、本音は出していない、澄ました本と言えるのではないだろうか。

また、文語ではなく、何故口語にしなければならないかなど、非常に理屈っぽい文章ばかり書いている。一派をなしていて、それへの風当たりが強いのだから、理論武装しなければならなかったのだろうが。

一男さんが会社から戻ると、皆が迎えに出るのは、一男さんが一家を支えていたのだから、当然だったのだろう。そして、一男さんは、エライと、家でも、俳句仲間からも、特許関係からも言われ続け、ずっとおりこうさんでいなければならなかったんだろう。

時に「ワーッと」大声で叫べばよかったのにと思うが、明治の男なので、それが総領というものとして内に込めていたのだろう。

なんだか、ちょっとかわいそうな気もする。

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2011年3月30日 (水)

道都ゼミ生(2期)

私は、先生に慣れていなかったので、一期のゼミ生が卒業してしまって、次の年には、私は1歳年を取り、逆に1歳若い学生が入ってくる。・・・これが永遠に続くというのがなんだか置いてきぼりを食うみたいで凄く悲しくなった。

彼らは、未来に向かって羽ばたいていくのに、私は、取り残されていく。

最初から学校の先生にとって、こんなこと当たりまえのことなんだろうけど、私は凄く嫌だった。

大学がまだ出来立てということもあって大学らしくないし、また、地元の産業界とのネットワークもなかなか作れなくて、現代産業論を教えているうのに、どんどん世の中から取り残されていくようで、私がここに居る意味が見えなくなった。

学生たちは、個人的には、可愛いけれど、朝電話で起こして学校に来させるとか、彼女が出来ると自慢げに紹介しに来るとか、なんだか保母さんになったみたいで、私は何をしているのだろう!という気になった。

そこで、最初の約束が完成年度は最低限学校に居るということだったので、4年目の終了で辞めることにした。

大変申し訳なかったのが、ゼミ2期生を3年の時に受け持っていながら、卒論を書く大切な4年に放り出すことになってしまった。

実は、一人は事件を起こして退学し、もう一人は謹慎中。ちゃんと授業を受けているのは、確か3人だった。

二人目の子供には手をかけないというが、ゼミ生も二期目になると、少し心が楽ではあった。

放り出した学生のうち、新しい受け持ちの先生とウマがあってくれた子もいるが、合わない先生もいた。だから、辞めてからも(札幌で少し働いていたこともあり)、相談に乗ったり、卒論のアドバイスを外でしていた。

3人のうち、一人は自動車販売会社に就職が決まったというので、とりあえずお祝いに食事をごちそうしたのだけれど、結局自衛隊に行ったらしい。その後は、連絡が取れなくなってしまった。

残りの2人のうち一人は、子供たちにサッカーを教えるのが好きなので、教員になるといっていたが、就職希望などがいろいろ変って、結局、どこも決まらないままだった。

今では、故郷の方に帰って(青森出身だが、今は盛岡に住んでいるようだ)、薬の営業マンをしているらしい。

要領の良い子で人とのコミュニケーション能力もあるから、適職なんじゃないかと思う。今回の震災でもとりあえず無事だったらしい。

もう一人の子は、父親の知り合いの会社で数年修行し、現在は、父親の会社(兄が継いでいる)を手伝っているらしい。

前から付き合っていた彼女と昨年結婚した。

学校にいた時、青森の子は、お母さんが作って送ってくれたという馬肉の炒め物を分けてくれた。馬肉なんて食べたことなくて、気持ち悪いなぁと思ったけど、美味しかった。

前は、時々メールをくれていたが、仕事が落ち着いた頃からくれなくなった。これもそんなもんだろう。

父親の会社に入社した子は、彼女を紹介しに、一度東京に遊びにきたことがあった。仕事の関係で時折東京に来ているらしい。そのうち会おうよと言っているが、どうなるか分からない。

皆、ちゃんと羽ばたいてくれていっている。

まずは、ほっとだ。

自分の生活が不安定な時は、私を思い出すのだろうが、落ち着いてくれば忘れていくのだろう。これも、そんなもんだと思う。

私には、子供がいないので分からないが、子供が大人になっていくって、親にとっては、どんなもんなんだろう。

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道都のゼミ生(第一期)

3月25日に道都のゼミ生(第一期)の一人(一応ゼミ長)から4月1日に結婚するよとのメールが入る。

Ssotsugyo

卒業時に就職できなかった子だけど、結婚するというのだから、何か仕事を見つけたのか、親父さんの仕事を手伝うことになったのか。いずれにしても、フラフラしていたようだったのが身を固める決心をしたというのだから嬉しい。

母親が亡くなってすぐというので、目をかけた子は、メールアドレスを変えたのか連絡が届かなくなってしまったが、友人たちの話では、数年前に結婚してもう子供がいるとのことで、最初に決まった不動産管理の会社で働いているようだから、これも良い。

ガソリンスタンドでずっとバイトをしている子は、そのままらしが、彼女もいるそうだし、まぁ、相変わらずらしい。

一人大企業(といっても消費者金融)に就職した子は、東京に転勤になっていた折、二度ほどあって食事をおごったりしていたのだが、札幌に転勤するかもしれないといいながら、その後連絡がなかった。

消費者金融の限界も感じているけど、簡単に別の就職先がある訳でもないし、でも何があっても良いように、資格を取るんだといっていて、一応フィナンシャルアドバイザーの一番下の資格だけは取ったと話していた。何はともあれ、自分から資格の必要性などを思い、一応取ったということは、学生時代の彼からは、想像もできない進歩なので、随分大人になったなぁと思えたものだ。

一方、こちらは、当時、介護で仕事が出来ず、おしゃれもせずにあったから、彼にしてみると情けなそうに見えたのかもしれない。そういうことは、若い時代には、あること。輝いて見えた先生(なんでも知っている、大人の入り口としてみていた)が小さく見えたりするんだろう。まぁ、それはそれで仕方ないと思っていた。

でも、先のメールを受けて懐かしくなり、メールしてみたら、札幌で元気らしい、彼女はいるがまだ結婚しないとのこと。

当時20歳から22歳で「女」のことしか頭になかった子たちが、それぞれ大人になるのは、嬉しいし、忘れずに連絡くれたというのも嬉しかった。

前に落語の件で述べたけど、私なんか、お世話になった人たちのことをすっかり忘れている。それに比べたら、彼らは「良い子」だ。

見た目は、ぐれているような感じだし、勉強は嫌いだし、「女」のことで頭がいっぱでちゃらんぽらんにみえる彼らには、全くどう扱おうかと悩んだのだけれど、彼らが皆、自分の父親のことを尊敬しているのが分かって、なんだかほっとしたことを覚えている。

Szemi

みんな、普通にいいやつらなんだ。

2004年ころに22歳くらいだったので、もう29歳くらいになるんだ!

これから、どんな親父になっていくんだろう。きっと普通に、いい親父になっていくんだろう。

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2011年3月27日 (日)

昔の書き物

前記事に書いたように、叔父の昔の本が話題となり、本棚を探していたら、なんと、昔の私の書き物も出てきた。

1.図書館短大時代に、図書館と貸本屋(昭和43年当時は、貸本屋の方が盛んだった)を比較したもの。短大は、卒論の制度がなかったのだが、論文書きに憧れて、自主的に落研のメンバー有志でやったもの。

このうちのエッセンスは、のちに、学者の人が抜書きしていて、論文名だけは、CiNiiでネット検索すると出てきたりするのだが、内容などは、すっかり忘れていたのだ。

青焼きのや、ガリ版刷のが出てきた。

確か、馬籠の貸本屋さんの集まりにも行ったりした記憶がある。

2.落研の時にガリ刷で作った「ごんずい」二号や、『なじみ』1号が出てきた。Sgonzui1

  Sgonzui2

後者は、女性と落語を取り上げ、落語の中の女性を調べたり、女性が落語を演じる難しさを当時出てきたハナシカガール桃乃はな代さんにインタビューしたりしている。

はな代さんをネット検索したら、一応出てましたが、分からない、速記が雑誌に載っていると書いてありました。

また、当時本牧亭で、若旦那の恋煩いの話(崇徳院)を女性版に書き換えて演じたのだが(プロの前座で)、その時の原稿やアンケート(これは学園祭で取ったのだろうか)なども出てきた。Sanketo1   Sanketo2

 ・もとの崇徳院の良さを壊している

 ・女性が女をやると観ている方がはずかしい

 ・もっと女性の憎めない点、馬鹿さ、突飛さを出した方がよい

 ・女性の主体性がはっきり認められるようになた現代を扱った方がよい

 ・現代センスで新作をやり題材を広めてほしい  などなどの意見が寄せられている

本牧亭は、確か宝井馬琴(当時琴鶴きんかく)さんの前座の前座だったように記憶する。

この人は、清水の人で、その後、上司だった竹内さん(清水の人)の関係で確か場違いなところで出会った。これも世間は狭い話に通じる。

4月に、落研のメンバーと合うことになっているので、見せてあげよう。

まぁ、昔のことを言うようになったらおしまいだが。

この頃は、青春もあって、東大落研と都立大落研と一緒に勉強会をしたりした。

このほか、いとこの知り合いが落語を習っているので、そこにも出かけていき、馬琴さんとは、そこで知り合ったのだと思う。馬琴さんは、講談なので、落語は、おなじ同好会でやっていた落語家さんだかに教わったのだが、名前が浮かばない。

こうしてみると、いろいろとお世話になった人がたくさんいて、名前も忘れているくらいだからいい加減なもんだと思う。

3.明治学院大学で作成した卒論「今日における日本の家族制度-婦人問題を中心として』

表紙に黒い板のようなものをつけた原稿用紙に書いたもの。

先生が、丁寧に、コメントを紙のしおりのようなもので書いてくれている。

結局、たいした出来ではなかったのだが。

一度読んでみようと思う。

結局、今も博士論文かけずにいるけれど、この辺りから、ちっとも進歩してないみたいな気がして嫌になる。

図書館短大当時、社会学の先生だった柿崎先生のご紹介で、明治学院大学に編入させてもらった、その先生が川本先生。確か、川本先生の現地調査にもついて行って、大学院生の女性と男性の先輩たちに出来が悪くて笑われたのがトラウマになっているように記憶する。

千葉での調査は面白かったのだけれど、どこの農家でも、スイカやジュースを出してくれるので、頂かないと、汚いと思っていると思われるのではないかと、無理して飲んだりするのだが、おしっこがしたくて困った記憶だけある。

確か、村のお祭りにも呼んでもらった。

当時、君津製鉄所が出来て、漁村が変化するというような内容だった。

ということは、農村社会学なので、川本先生ではなく、柿崎先生の調査だったのだろう。川本先生はたしか家族社会学だった。

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世間は狭い

昭男さんに散骨のことで相談の電話をしたら、一男さん(叔父)が書いた『メビウスの帯』が家族内で話題になっているとのこと。

1.日本に飛行機が就航した最初の頃に一男さんが乗った話が書いてあり、新しい羽田空港にできる飛行機の博物館づくりの手伝いをしている人(昭男さん友人)に上げたら、喜ばれたという話。

たぶん、新し物好きというか、好奇心旺盛だったのだろう、別の交通手段があるのに、わざわざ飛行機を利用したらしい。

2.『メビウスの帯』のなかに、島崎藤村の弟を明治学院の頃にいじめた話があり、その後、島崎藤村に講演をしてもらってお礼を届けに行った話や、長野県の藤村ゆかりの旅館に宿泊した話が載っていて、いじめた子については、その後書かれていないのだが、なんと、飛行機の件で差し上げた友人が、このいじめられた子は、母の父ですとのこと。

島崎藤村が明治学院(高校)の出身とは知らなかった(叔父、一男もそこ出身、私は、夜学が明治学院だった)。

また、いじめっ子の話は、まさに世間は狭いものという感じだ。

私も、札幌にいた時、北海道郵政局に提案したりする経営者の会のようなものに入っていたのだけど、その会長さんが年配の女性の方で(元どこかの女学校長さんかなにか)、錚々たる経営者を前に、会議を仕切っているので凄いなぁと思っていたら、ある時、御嬢さんと私が知り合いだったことが分かった。

私が総務省(旧郵政省)に出向している頃、アメリカに視察団を組んだのだが、その折、NTTから会議の委員のほかに女性を一人参加させてくれていた。長銀からもお付き合いで女性を一人参加させてくれていたので二人は、年齢も同じくらいで友人になったりしていた。

先の女性の会長さんは、そのNTTから参加していた彼女のお母さんだったのだ。

世間は、狭く、本当に悪いことはできないものである。

今は、FACEBOOKに登録すると、昔の知り合いから声がかかったりする。また、知らない人から、昔の著作物関係で声がかかったりする。私のように、世の中から消えていた人が、FACEBOOKで見つかるというような感じだ。

もっと、世間は狭くなるのだろう。

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昨日は久しぶりに長銀調査部の仲間と合う

昨日は、久しぶりに長銀調査部の仲間と合う。

長銀調査部には、長~く勤めたので、自分は、結構いろいろな人を知っているのだけど、AさんとBさんは知り合いかというと必ずしもそうではなく、たまたまある時期一緒だった遊び仲間の会です。

私が一人さびしく北海道で勤務することになった時、励ましの意味で開催してくれたのが、続いているという感じです。

当初、私の冬休みの間ということで、1月の10日頃にやっていたのですが、それだと、大学の先生になった人が忙しい時期ということもあって、今回は、少しずらしたのですが、それがまた、震災後となり、出れる人が限られました。

お互い年をとり、いろいろな体の不具合や、親の介護などあり、一方で、結婚が遅く、まだ小中学生を抱えている人もおりという具合ですが、いつまでも元気で馬鹿話ができるといいなぁと思っています。

仕事の上下関係ではなく、一緒にスキーに行ったり、催し物をやったり、彼女に振られたのをやじったりなどした仲間です。

いつも、神保町の源来酒家でやっています。ここは、私が神保町に勤務していた折、一人で昼ごはんや残業ごはんを食べにいったところです。ホテルオークラだかニューオータニだかで仕事をしていたという人がいろいろ工夫した料理を出してくれます。

うんと美味しい訳ではないのですが、ビルの一番上の部屋で10人前後で貸切できて、お酒を入れて5000円くらいでやれるので(男性人が少しよけい出してくれてるのかな?トイレに行っていたので分担方法を知らないのだけど)手頃です。

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それぞれ寿命や原発事後でいつ会えなくなるかもしれないからと、写真を撮りました。アップしておきます。

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そういえば、昨日は、いつものオーナーが見当たらなかったけど、オーナーが変わったのかなぁ、それとも風邪でしょうか。







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2011年3月20日 (日)

2011年庭の春

昨日、今日と、4月並の温かさで、風もなく、良いお天気だ。

この二日間は、計画停電も中止なので、何時までに何をしておかなければ、という焦りもなく、ゆったり過ごせて嬉しい。

昨日は、それで張り切り過ぎて、久しぶりの体操、吉祥寺へ買い物、風呂、洗濯とやりすぎてくたびれてしまった。

そこで、今日は、一日家でゆったり過ごそうという気分。

福寿草は撮り損ねたのだが、我が家の庭も随分と春めいてきたので、久しぶりにデジカメで撮ってみた。

1.あじさいが芽吹いている。Sajisai

2.昨日までつぼみだった水仙(八重)がほころんできた。Syaesuisen

3.ヒヤシンスの芽が出てきた。福寿草の脇のは、もう伸びきっているので、春の息吹を感じさせる茶道の心としては?芽吹き始めの方の写真を撮った。Shuiyashinsu

4.遅咲きの赤い椿が咲きだした。木の上の方なので、なかなか切って活けられない。芯が黄色く大きいのが特徴だ。側に、もうそろそろ終盤の白い侘助が残っていた。侘助は、ひよどりが蜜を吸うのか、すぐにつついて落としてしまうのだ。Stsubaki Swabisuke_2

5.姫サラの木も随分と芽吹いている。Shimesara

6.道路側でも、小さなたぶん水仙がつぼみを膨らませ始めた。Ssuisen

7.去年植えた、小さな菊の新芽だろうか、枯れた葉の間から緑の塊が出てきた。Skiku

8.赤いバラを窓から見えるようにと昨年冬に植えてもらったので、植木屋さんもいい加減だが、どんなバラか分からないという。そのバラも沢山芽が出てきている。Sbenibara

・・・さて、これから草むしりが大仕事となる。

毎回、草むしりをしながら思うこと。

1.冬の間に目には見えない土のなかで、ちゃくちゃくと春の準備をしてきていて、偉いなぁ(それにひきかえ私は・・・・)と思って、自分の怠け者を棚に上げて憎たらしくなるのだ。

2.雑草を一生懸命抜くのだけど、雑草は、むしろこの土に合っているからこれだけ元気なのであって、なにを根拠に私は、雑草をむしっているのだろうと疑問に思うのだ。雑草が増えると、芝生が痛むとか、見栄えが悪い、お花が見えないなどの理由で抜くのだけれど、なんで差別してしまうのだろうと・・・われながら道理がないことをするのに嫌気がさす(草むしりに疲れるからなのかもしれないが)

ともかく、植物はエライ。着々と自分のやるべきことをやっている!

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ハイちゃんの分骨入れ

昨日吉祥寺に行き、何か良い分骨入れはないか探した。

前にリビンの菊屋で、招き猫や手毬猫があって、貯金箱のようにお尻をゴムで開けられるのがあったので、これも面白いと思ったのだが、同じ猫でも、もっとハイちゃんらしいのはないものかと思ったのだ。

愛嬌のあるものやいじわるそうな猫、トラもあったのだが、やはり陶器だといざという時に壊れるのではないかと思った(地震の後だから思うのだろうけど)。

そうしたら、コベントガーデンという店のアウトレットで、シンガーミシンを模した木の箱があった。

ハイちゃんのシンガーミシンを処分してしまった申し訳なさもあり、一応これを購入してきた。これに今どきは真綿を手に入れられないので、羽二重でくるみ、できれば、ハイちゃんの着物の残り切れなどで袋を作ってのどぼとけくらいを入れられないかと思う。

もっと良いものも見つかるかもしれないので、一応第一候補。Ssinger

TVが公共広告ばかりやっていて、オシムが出てきて、「スピードが命なんだよ」という、言葉が出にくくなったら、すぐに救急車をって。

だから、すぐに救急車を呼び、先生が脳の出血は小さく収まっているって言ったから、素早い対応で褒められると思ったのに、結局、おしっこなどが出なくなって死んでしまった!

脳外科の先生がたまたま宿直で、見るだけの受け入れだったけど、受け入れてくれて、その時は、とても順調で運が良いと思ったのに。

松井外科がいけなかったのかなぁ。

最期に、何にも言葉を発することが出来なかったのが、心残りだったかなぁなどと思ってしまう。

公共広告で、「大人の手が子供を手当できる」というのもやっていて、女の子がお母さんの手に触れて「今日幼稚園でお花を作ったの」というようなことを言っている。

ハイちゃんは、最後は、目と手で表情を表していて、お手手で私の頭をさすってくれたり、強く握り返したりした。

前に入院した時は、ハイちゃん死にたくないようなどと言っていたけど、今度は、たぶん覚悟していたのだろう。

まだ、意識がしっかりしている頃に、斜め前のベッドのおばさんがお昼を食べているのを見て、ハイちゃんにはないと不満そうだったけど、それでも、その頃は、ノートに、ハイちゃんは、栄養剤を管で入れているからだよ、もう少ししたら、ケーキ食べれるからねと言ったら納得して良い子になっていたのだから。

ハイちゃんとは、面白い絵本を見せたら(次のページに面白い絵になる)、わぁっと言って喜んだのだけど、あれが意思を交換できた最期だった。

去年の22日に少し寒いなか、ニトリまで冒険で遠出をしたのが悪かったのだろうか。

でも、車椅子で一緒に散歩をし、いつもと違うところに行くのは嬉しかったみたいだし、わがままを言う(美味しくない!など)は、甘えの表れだったし、たぶん幸せだったと思う。

地震でいろいろ行事がなくなり、すっかり予定が空いてみると、丁度入院から1年目くらいということもあり、ちょっぴり、いろいろ思い出してしまう。

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2011年3月17日 (木)

計画停電と夜空

昨日は、夜の6時20分から10時まで計画停電という。

それまでに、買ってきた野菜をゆでたり、漬物にしたりしたので、くたびれたらしく、横になったら眠ってしまった。

そこで、困った。実際の停電は7時からで、準備しているころは外もうす明るかったから、何かできるかと思ったけれど、トイレに行くときぐらいのつもりで用意していた懐中電灯では、ほとんど何もできない。

最初は、ハーモニカを久しぶりに取り出し、新し楽曲を吹いてみたけど、予想外に息が続かない。

そこで、数独を1つやった。

でも目が疲れるので、外を見ると、月は見えないのだが、月明かりで庭が明るい。隣の家の白い壁にも光が当たっているので明るい。

オリオン座が良く見えるし、ピカピカしながら飛行機が数台飛んでいる。

ひゅーっと黒いものが窓の外を飛んでいる。きっと蝙蝠だ。前に家に入ってきてしまったことがあるので用心している(意識している)から。

こんなにゆっくり夜空を眺めるのも久しぶりだ。

でも、だんだん寒くなってきた。計画停電なので、それまではエアコンをつけておいたのだが。そこで、セーターを二枚着込み、それでもだんだん寒いので、ホカロンをつけ、さらに寒くなって薄いヤッケを羽織った。

やることもないし、寒いので、しかたがないので、食事をすることにした。

幸いガスは大丈夫みたいなので、ナべに汲み置いておいたお水で湯煎で食べられる豚の角煮を温めた。冷凍ごはんは大丈夫かと思ったが、ラップで二重にくるんで一緒に入れたら、ちゃんと食べれた。ごはんが泳ぎだしたらどうしようと思ったのだが大丈夫だった。

計画より1時間早く明かりがついたので、ほっとして、残りのお湯でやはり湯煎で食べられる栗ぜんざいとお茶を飲みながら娯楽番組を見てほっとした。

ほんの2時間で、自宅にいてさえ、こんな騒ぎなのだから、被災地の方々はさぞかし大変だろうと体で理解した。

今度は静岡と山梨の間で地震とのことだ。富士山が爆発したら、この辺りはどうしようもないだろう。

ハイちゃんを守る必要がないものの、ぜんそく、めまい、人工関節・・・・生き抜ける自信がない。

ネットの多様なMLでみると、皆、それぞれに自分のやれることをやろうと頑張っている。知恵のある人、体力のある人。MLによって、自分たちの被害のことを嘆きあうものもあれば、前向きに、何かをしようというMLもあれば、遠くの人を気遣うMLもあって、レベル(お里)が知れて面白い。

私は、さらに小市民であることを知らされる。日々の食べ物を確保しようとしたり、いろいろな人たちに大丈夫と励まされるばかりで・・・・せいぜい募金くらいだ。

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