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2011年10月19日 (水)

物故民生委員児童委員追悼式

今日は、風邪もだいぶよくなったので、底冷えする日ではあったが、ハイちゃんの「昭和23年度物故民生委員児童委員追悼式」に参列したきた。

場所は、後楽園近くの礫川公園に隣接した東京都戦没者霊苑。そこに東京都の民生委員や児童委員の顕彰碑(昭和42年)が建っていて、そこで一人ひとり名前を読み上げてくれ、これまで福祉に一生懸命つくしてくれて有難うという趣旨の挨拶をされ、遺族等が献花して終了。

お弁当、お酒、お菓子(カステラ)を頂戴して帰ってきた。

喉鼻も辛いし、知り合いがいる訳でもないので、お弁当はそこでは食べず、自宅に戻って頂き、カステラを関係者である、綾子さん、千代子さんにおすそ分けした5121

(写真は、綾子さん千代子さんと:どこかに行った時の記念写真)

ハイちゃんは、足が悪いのに、私が子供の頃にかかっていた医者(もう廃業した)に頼まれて民生委員となった。ハイちゃんは、「福祉」をやっているなんて理解していなかったのではないかと思うが、真面目に勤めていた。63 6134

(足が悪いので、斜めになっている写真2枚、ヨーロッパと唐津の松林で有名な砂浜で。びっこのハイちゃん:今は差別用語。小学校の頃は、ビッサンと男の子たちに囃されたらしいが、自分でビッサン、ビッサンと言いながら歩いていたので、小学校の先生が安心したという話がある)


口は堅かったし、時代ももう少しのんびりしていたのか、丁寧に対応していたので、地域のお年寄りや生活保護世帯の方々から、ずい分良くしてくれたと思われていたようだ。ハイちゃんも、そのおかげで、研修旅行でいろいろなところに出かけたり、それはそれで良かったのではないかと思う。

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2011年10月13日 (木)

俳句と短歌

父は、前のブログで書いたように、原石鼎が主催していた『鹿火屋』という俳句雑誌に投稿しはじめ、そこの幹部であった市川一男と出会います。一男は、石鼎が昭和16年に病に倒れ、戦後自ら『口語俳句』を主宰するようになります。そして、一男が『定本・市川一男俳句集』を出したおり、『口語俳句』第85号は「市川一男特集」を組みます。

そこには、俳句のお仲間のほか、一男の息子4人や母と結婚して義弟となった父も文章を寄せています。その父の文章のタイトルは、「賢兄愚弟」。一男との出会いや、石鼎の奥さんから母との見合い話をもらったことなどが書かれています。私の知らない時代の一男と父、そして母との出会いが書かれていて興味深かったです。

父は、俳句の大先輩でもあり、リーダーでもあった叔父に、尊敬の念はあるものの、やはり劣等感をずっと抱いていたようです。母の後ろに叔父を見、母をお姫様を授かった家来のような気持ちで接していたのではないかと思います。

言ってしまえば、外に女を作るのは、しかたがないことだったのかもしれません。

自宅に『鹿火屋』の古いのが数年分ありますが、誇りにまみれ、しかも奥の方にあるので、とりあえず、出せた手前のものが昭和12年のものでした(抜書きはこちら「kabiya.doc」をダウンロード)。

大正元年生まれですから、このl頃、父は、25歳くらい。母と結婚するのは昭和16年ですからその4年前くらい。

『鹿火屋』の方針がそうだったのか、父の句も、花鳥風月が対象になっています。昭和12年12月号の句を挙げておきます。

五位なきぬ月うらの世をこがれては

鳥雲や産土神の森あたゝかに

山裏へ廻る道ありて鳥渡る

水すむや殿様蛙流れつく

小松の葉月のひかりにとがりけり

・・・・・・・・・・・

私の中学校1年生の時の受け持ちだった湊嘉晴先生が短歌を教えたいとお母さんたち数人をまとめて、月一回我が家で会合を開いており、母も短歌を始めました。

母が「このみ、このみ」と私のことばかりに感けるので、趣味を持てとの教師ごころから勧めたと記憶します。

毎月提出しなければならないので、一生懸命作っていましたが、それほど上手く(没頭するほどの趣味には)ならなかったと思います。

母も花鳥風月が得意で、いわば柿下人麻呂風で、山上憶良のような人情味は不得意でした。友達のお母さんたちは、日々の日常の家族のことや女心の陰りのようなものを読んでいるのに、母は、そういう人間の機微のようなものを捉えられないといつも思っていました。

夏みかんがあるというだけでなく、夏みかんを剥いた時のあの酸っぱい、しかし清々しい感じを出しているとか、そこに女性の心の機微が見え隠れするというのが良い歌のように思っており、あるお母さんの歌は、そういうのが上手いなぁと子供心に思っていました。

集まるお母さんの人数が減ったり、先生の奥様が母に焼き餅を焼いたりなどいろいろあったようで、この短歌の会も次第に消えてしまったようです。

この先生は、私の成績が下がると「木実の成績が下がった、下がった!」と自転車に乗って住宅に言いふらしたり、「木実は、落っこちるだけで、二葉はこれから(二葉ちゃんという子がクラスにいたような)」とか、随分いじわるなことを言われました。

先生に言わせると、我が家のように、母が私にかかりっきりの家庭と、それができない家庭があり、バランスを取るために、貧しい子や親が働いているとか片親の子を可愛がり、褒めており、私をこき下ろしているのだことでしたが・・。

札幌から戻り、母の介護をするために田無に戻ってから、私も短歌でもやろうかと、先生を訪ねようと思っていましたのに、丁度亡くなられたとのことで残念です。

母の短歌(尾山篤二郎が主宰しており、湊先生がやっていた『芸林』が昭和61年に、合同歌集を出した時の母の短歌(全部の抜書きはこちら「geirin.doc」をダウンロード

裸木の枝に遊べる鳥の声はや春を呼ぶ声にふくらむ

独り参る墓前に昼の陽はたけて小鳥ら遊びいと閑かなり

昼爛けし青葉の庭に風吹きて沙羅の白花しきりに散れり

柿の実の頽れて落ちしを雀二羽尾を振り乍ら仲良く食めり

隣家の媼もこの道好むらし今日も逢ひたり木犀の道

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2011年10月11日 (火)

親父

父のことを少し記しておこうと思います。

1.私が子供の頃

父は、私を可愛がってくれました。写真は私が生後3ケ月の折のものです。Konomi10002


子供の頃には、誕生日の度に、ボストン(昔高田馬場にあった)のシュークリームを買ってきてくれ、子供の手には大きすぎるくらいで、前から食べ始めると、後ろからクリームがはみ出てしまうほどで、とっても美味しかったです。時折、銀座かどこかで買ってきてくれるチョコレートや外国製のアイスクリーム?も美味しく、都会の味でした。

誕生日にお呼びした友達にも、シュークリームは好評だったと思います。

また、印刷会社に勤めていたので、当時(昭和20年代の終わりくらいから30年代に入った頃)は、紙が悪かったのでしょう、軽いけれども、枕ほどもある厚みの童話の本も、良く貰ってきてくれて、友達にもプレゼントしていました。

私の教養は、この頃の父が持ってきてくれる童話がベースになっていると思います。Konomi10019_4  Konomi50013


しかし、まぁ、この頃の父親は、私の父に限らず、だんだん成長していく娘をどのように可愛がったらよいのか分からなかったかもしれません。

2.父の生い立ち

父は、農家の二男(戸籍上は三男)坊、男兄弟は2人で、姉と妹が確か多かった記憶があります。農家の二男なので、畑を貰わない代わりに教育(といっても実業:そろばんとか、習字とか、もしかすると会計とか)を受けて東京に出てきたようです。

親父は、何故か俳句をやっていて、その関係で母の兄(市川一男)と知り合い、結婚することになったようです。昔の市川家の写真については、「叔父」のブログにあります。

文具・オフィス用品のオカモトヤ(虎の門)に勤めていたという話も聞いたような。その後は、主に、中小の印刷屋の営業をしていたようです(飯田橋の裏など)。戦争にも三等兵くらいで行ったようですが、その頃、中島飛行機の病院であった荻窪病院の事務をしていたらしい。

今住んでいる家は、中島飛行機の元社宅で、戦後、社員が安く購入したと聞いています。もっと広い土地を買えばという話もあったようですが、今の土地を買うのが父の力では、精一杯だったようです。
Konomi10021

二軒長屋で、高度成長期に皆家を建て替えるにあたって、壁を取り壊して一軒家にしていきました。だから、当時は、40坪くらいの家で、恥ずかしい感じだったのですが、今では、この住宅も世代交代が進んでいて、売りに出されると、40坪に二軒家が建ったりしています。

二軒長屋で向かい合った四軒で井戸を共有しており、井戸側に裏口用の道があって、子供たちは、そこを通って、隣の家に行ったり来たりしていました。お月見の時などは、そこを通って、家々の縁側に飾ってあるお餅やお菓子を貰ったり、夏には、井戸に大きなすいかをつって、冷えたのを分け合ったりしていました。

もちろん、お母さんたちは、井戸で洗濯やらお米を研ぎながら井戸端会議をしていました。

3.お酒に飲まれ、女性の家に転がり込む

私が思春期というか、ものごころつくころには、父はなんだか汚らしい、恥ずかしい人に思えるようになりました。

第一には、小さな会社に勤めており、しかも始終会社が変わること。

私は、杉並の高校に越境入学しましたが(当時は学区制で、田無から行ける高校は決まっていました)、その頃は、親の職業も書かれた名簿が全員に配られており、友達のお父さんは、聞いたことのある大企業や大学教授で、聞いたこともない小さな印刷会社なんて、とても恥ずかしいと思っていました。

今から考えれば偏見でしょうが、聞いたこともない会社のしかも口八丁の営業マンで、かつ始終職場が変わるなんて、なんだか信用のおけない人のように思っていました。

第二に、母方の長男(一男さん)が余りにも立派で、これと比較してしまった。

母と結婚するきっかけが母の兄と俳句仲間であったと前に書きました。

母の家系も美人と不美人に分かれるのですが、母もその兄も美形の方でした。その兄は、特許庁に勤めていましたが、辞めて、特許事務所の所長をしていました。先のアマゾンのリンクにあるように、特許制度の本も書き、また趣味の俳句では、口語俳句のリーダーで、何をやっても格好良い人でした。

母と兄は、歳も10歳以上離れており、祖父が亡くなってからは、父親代わりでもありましたので、母は、男性とは、兄のような人であると信じていました。

真鶴の別荘で、おこぜのスケッチをする母の兄一男とそれを見る母。4091

ですから、母は、農家出身で、大学も出ていないで、営業マンですから「エヘラエヘラ」と感情を笑いで誤魔化すような父(美形でもない)を見下しているようなところがありました。

私が子供の頃には、何か失敗をしたりすると、「お父さんに似ている」と言われるのが一番嫌で、傷つきました。でも、私は、そのだらしない父に実は、顔も性格も似てるところがあります。母だって、実は、「美人」なだけで、何かを成し遂げた立派な人という訳ではありません。でも、家では、父はダメ人間、母(母の実家)は立派という雰囲気になっていました。

第三に、酒に飲まれる。

父は、お酒が好きだったのか、営業という仕事柄なのか、良くお酒を飲みましたが、お酒に飲まれるタイプでした。お酒を飲むと、気持ちが大きくなり、なんでもできるというような錯覚を起したり、最後はぐでんぐでんに正体なく、太ったナメクジのようになってしまいます。

タクシーで帰ってきても、どこかでしばらく寝ていたのか、泥だらけのこともありました。もちろん、タクシー代があって乗ってくるのではなく、家まで帰れば、支払ってもらえると踏んでのことです。

第四には、女性の家に転がり込む。

私がものごころついたころから、父は、毎日家に帰ってくる人ではありませんでした。間接的に聞いている話ですが、いろいろな女性の家に転がり込んで(同棲)いたようです。

飲み屋の女の人や、ご近所の髪結いさんだったこともあります。最期の人は亭主持ちの飲み屋の人で、亭主が乱暴するので逃げてきて?父と暮らしているとのことでした。

今から考えると、狭い六畳で川の字になって寝ていたので、自宅では夫婦生活がやりにくかったのかもしれません。もともと、母は、淡泊な人のようで、ちょっと女学生がそのまま大人になったようなところもありました。結婚がどのようなものか、本当に分かって結婚したのかなぁと思う時もあるほどでした。

しかし、結婚してから私が生まれるまでは二人で暮らしていた訳ですし、私も生まれたのですから、それなりの夫婦生活はあったのだろうと思います。

ところが、昔の人だからなのか(本妻さんとお妾さんという観念があった)、母は焼き餅を焼いたり、自分の身を憐れんで泣くなどということは、全然ありませんでした。

母に言わせると「飲み屋の女」(自分より下の人)だから、焼き餅なんか焼きようがないとのことです。私だったら、浮気相手と比べて、自分に不足していることを思い悩んだりしそうなものですが、スパッと切れていました。

一方で、平気で父の下着を洗濯したり、帰ってくれば、夕食をつくっていました。

私は、思春期ということもあり、父に触ったり、同じお風呂に入るのも嫌でした。実際、お酒の匂いやら、中年の匂いやらで、父は臭かったのです。

夜遅くにお酒をのんでぐでんぐでんで帰ってくると、「ハサミであそこを切ってやろうか」と幾度も思いました。その度に、こんな価値のない親父のために、犯罪者になるなんてバカバカしいと思い直していましたが、いつ、かっとなるか自分でも心配でした。にも拘わらず、朝になれば、ニヤニヤと何事もなかったように「おはよう」などと言うのです。

第六に、家の暮らしが成り立たない。

父は、そんな具合でしたから、家は貧乏でした。貧乏はそれほど苦に感じませんでしたが、それは、母が明るい性格であったことと、母の実家から仕送りを受けていたからと思います。確か、結核だかで入院した折とか、おそらくそれ以外にも、お金を母の実家から貰っていたと思います。

そんなこともあって、離婚の話は、時折浮かび上がったようです。しかし、さすがに営業マンである父は、そういう折には、泣いて謝ります。もう二度としないと大の男が泣いて謝るので、父方の兄も、母方の兄も、男が泣くのだからと、離婚は見送られます。しかし、もう次の日からは、ケロッとした父の人生が始まります。

第七に、大言壮語を吐く。

父は、自分だって、何かがやれると思っていたようです。何時だったかは、数人で会社を興したこともありました。しかし、倒産?したというので、慌てて不動産の名義を変えたりしました。

夢(目的)のために着実に努力もしないで、「私だって、できるはず」と思うところは、実は、父に似ているんだなぁとつくづく思うこの頃ですが・・。

私は、会社のお蔭で、当時、テレビや雑誌にも名前が出るようになり、役所に出向もしていましたが、父がどこかで信用を失い、それが自分に及ぶのが怖いと思うようになりました。

大手町の地下鉄の駅で電車を待っている折、「へへへ」と笑う親父に出会ったこともあります。

4.家裁に離婚調停を依頼

父と母の離婚に、実家の兄さん達が親代わりに立ち会うという時代を経て、私自身が父母の離婚について動ける歳になりました。

そこで、知人に弁護士を紹介してもらい、当時は、父は女性と暮らしていたので、離婚を進めることにしました。

父がそれほど金持ちでもないことが感じられたので、慰謝料は要らないから、ともかく離婚したいと願いました。

不勉強だったので、離婚した母に年金を貰えたようなのですが、それも要らない、母は私が面倒みるからと言ってしまいました。

当時、私は、給料も上がり、マスコミに名前も売れるようになり、飛ぶ鳥を落とす勢いがあり、まさか、その会社が無くなり、私も、自分の実力で有名になったのではないことを思い知るとは思ってもみませんでした。

前述のように、母は、父が女性の家から帰ってきても、洗濯をし、風呂を平気で使っていたのですが、私には、耐えられませんでした。

ちょうど、家を建て替えた(私がお金を出して)のですが、父の部屋など作りませんでしたので、実は、父が帰ってきてもらっても、困るというのもありました。実際、幾度かは帰ってきて、どこかで寝たりはしたのですがどこで寝てもらったか覚えていません。

5.八王子の老人ホーム(病院だったらしい)

離婚してしばらくは、前述の亭主持ちの女性と暮らしていたかと思いますが、その後、八王子の老人ホームに入り、そこで亡くなりました。

離婚後は、父の実家が手続きなどで面倒を見てくれていたようです。

父の妹からは、「兄が可愛がって褒めていたけど、お前は鬼娘だ、将来良いことはないと思い知れ」といった内容の手紙が届きました。この叔母は、母ではなく、私が、離婚させたことを知っていたのでしょう。

・・・・・・・・・・

父が本当はどんなことを考えて暮らしていたのか、分かりません。

良くある田舎の農家の三男坊が何の伝手もなく、東京に出てきて、いろいろと苦労や努力しながら、生きてきたのでしょう。小さな土地と家も買って、子供も出来、それなりに幸せな暮らしをしたんだと思います。

母は、私を生んだことが「偉い」ことをしたと思っていました。結婚してからなかなか子供が授からなかったのに、ようやく授かったことや、33歳という当時では高齢出産だったこともあり、実家ぐるみで大切にされ(弟が毎朝、布団の上げ下げに来てくれた)、「春枝はエライ」と言われ続けたため、自分は私を生んだので「偉い」のだと勘違いしていたようです。

生まれてからは、私が可愛いというよりも、着せ替え人形を与えられたかのように、洋裁が得意だった母は、伊勢丹などで生地を買い、中原淳一のスタイルブックを全部作って着替えさせるという状況でした。

当時、田無も田舎でしたから、可愛らしい洋服を着た私は、随分と目立ったようです。

もともと淡泊だった母の頭から、夫はすっかり消えてしまい、妻の義務として淡々と食事や洗濯はしているものの、執着する相手ではなくなっていったのかもしれません。

でも、たぶん父は、母のことが好きだったようだし、自慢でもあったように思います。

子供の頃「お父さんに似ている」と言われるのが心の傷になっており、私は、誰かを好きになることを逃げていました。エッチなことを考えるとお父さんの子だと言われるからです。

でも、私は、父と母と両方の遺伝子で出来ているので、両方のどこかしらを受け継いでいるのだろうと思います。だから、父の良いところを見つけ出さないと、自分を否定したままになってしまいます。

父は、字が上手でした。私は今、お習字を習っていて、ちっとも上手くなりませんが、父の子なのだから、そのうち上達するに違いありません。

父が次々と違う女性の家に転がり込んだのは、一種の能力だろうと思います。女性の悩みを聞いてあげるとか、マメ(世話好き)だったのではないかと思います。

私は一人っ子で大人の中で育ち、会社でも誰かがお膳立てしてくれた上で踊っていました。何も知らない家のドアをノックして「こんにちは」というのは苦手です(自分から何かするのができない)。でも、お父さんの子なのだから、きっと営業マンのように、最初嫌な顔をされても、最後には、受け入れてもらえることも、もしかしたら、出来るのかもしれません。

・・・・・・・・・・・・

死んでしまうと終わりです。

その人が生きた証って何でしょう。

誰かの記憶に残っているうちは、それでも、生きた証になるでしょうが、記憶してくれている人もそのうち死ぬでしょう。

福島原発を作った人は、お父さんは、地図に残る、あるいは歴史に残る仕事をしたと子供に胸を張ったかもしれません。「歴史に残る仕事」をしたいと考えるのは、傲慢なのかもしれません。

母の兄(一男)は、前述ように、書き物を残しました。彼の子供たちは、立派な親に敵わないことが苦しみになっているようにも見えます。一男さん自身も、長男として家を守るために本当に進みたい道に行けなかったことが悔しかったようです。

ゲラさん(良く笑う)と呼ばれた母と、なんだか分からない父。

母には、死ぬまでの写真も残り、母方の従兄たちも楽しいおばさんとして記憶してくれています。

せめてもと思い、父のことを記すことにしました。

(写真は、一男の長男の結婚式に参列した折の、父、母、私、いとこの文男。三人で写っている最期の写真かも)

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親父の墓参り

父と母が離婚し、私は、母の戸籍に入ってから、父とは縁が切れ、老人ホームで亡くなったところまでは風のたよりで聞いていましたが、実際、どのように、どこで葬られているのかは、知りませんでした。

でも、母が亡くなり、散骨も済ませてみますと、少々気になり、父の実家(77歳の従兄が継いでいるはず)の電話番号を探しましたが、ずっと留守電で、FAXを入れても返事もありません。

梨農家なので、忙しいのか、不義理をした娘を無視しているのか、あるいは、当人が入院しているのか・・・分からないので、諦めようかとおもいましたが、天気がよかった6日(木)に、やっぱ行って来ようという気になりました。

住所でネットを検索して場所を探り、ともかく出かけてみました。高崎駅からバスで30分くらいとのことで、上野から高崎は、新幹線に乗れば結構近いので、ダメもとで出かけました。

ここは、3つくらいの時に一度遊びに行ったくらいで、近くに小川があったことは覚えているのですが、それ以外は覚えていないし、現在の当主の顔も分かりません。

離婚成立の折に、父の妹から、「鬼、悪魔・・」といった罵詈雑言の手紙を貰っていることもあり、これまで出かけるのに、躊躇していたということもあります。

実家は、すぐに見つかり、小川もありました。お留守でしたが、長く留守というようでもなかったので、きっと梨山にでも出かけているのだろうと思いました。辺りに人はいないので、道路沿いに、梨などの売店があり、そこに父の実家と同じ苗字の店があった(バスから見えた)ので、そこの店で恐る恐る聞いてみました。

売店の方がとても親切で、私の従兄に当たる方はお元気で、今は繁忙期で朝から晩まで梨山に居ること、また両親が離婚したといっても、親の世代のことだから大丈夫だよと励ましてくれました。でも、梨山までは、車がないととても行かれないとのことでした。

そこで、墓参りがしたいのだけど、その家のお墓がある場所を知らないかと聞いてみたところ、なんと、バス停近くにあるとのことでした。

ここから遠いお寺かもしれないと思っていたので、ラッキーでした。一度家を出た父がそこのお墓に埋葬されているかどうかも分からなかったのですが、ともかく、探して見ました。

田舎のことで、同じ苗字のお墓がいっぱいあるので、無理かなぁと思いつつ、巡っていきましたら、なんと、実家のお墓の脇に、父だけのお墓が出来ていました。

本当に運が良かったというか、父と母が呼んでくれたのか、めぐり合うことができました。

実家が見つかるかどうかも分からないし、お墓も見つかるかどうか分からないので、母の小さ目の遺影と分骨したもの、友達がくれたお線香とマッチ、それに駅で購入したワンカップ大関だけ持って行ったのですが、まぁ、一応墓参りができました。

母が亡くなって散骨したことの報告と離婚してからの娘としての不義理を謝り、これで一応の区切りができました。

従兄に会ったら、お礼をしなくてはいけないかもしれないと思い、一応10万円持って行ったのですが、会わずに帰ってきました。お金も後から送ろうかとも思いましたが、今更かもしれないし、今後も縁を持とうとはお互い思っていないだろうと思い、お手紙で墓を立ててもらったお礼とお参りできてよかったことをお知らせするに留めました。

会わなかったのも、これも幸いだったかもしれません。おそらく、お目にかかっていたら、イヤミの一つも言われ、嫌な思いをしたかもしれないからです(まぁ、覚悟はしていったのですが)。これも、父母の思いやりだったかもしれません。

(その後の経緯)

私が出した手紙と行き違いに従兄の奥さんからお手紙が届きました。繁忙期にも拘わらず、きれいな文字で丁寧なお手紙でした。私のFAXを見て驚き、今は、梨の繁忙期なので、11月の父の命日の頃にでもお出でくださいとの文面でした。そこで、おそるおそる、梨山の方に昼時にお電話しましたら、奥さんが兄弟姉妹はいろいろ言ったろうが、世代も代わっており、過去のことは別だからとご親切に言って下さいました。

内心は、母は散骨してしまったのでこれで終わりだが、はて、父には墓を建ててもらったとなると、お礼とか、毎年何かするとか、どうするんだろうなどと少々戸惑っていますが(田舎のしきたり・常識が分からない)、お世話になったこともあり、一度11月頃にお邪魔しようと思っています。

売店の方が親切にして下さったので、お礼に梨を注文し、宅急便で届いたので、ご近所のいろいろな義理に活用しました。

こうして、いよいよ、父母私の3人での暮らしは、終わりました。

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3枚目は、母の遺影と分骨を並べ、久し振りのツーショットにしてみたのですが、やっぱ母は嫌なのか、遺影の写真が光って写っていません。

離婚が平成元(1989)年12月14日に成立、平成3(1991)年11月18日死亡、大正元(1912)年9月8日生まれですから、79歳で亡くなったことになるのですが、お墓には81歳とあり、数え歳で書かれていたのでしょうか。





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2011年10月 4日 (火)

こもれびコンサートとまちなかコンサート

9月もあっと言う間に過ぎて、10月となり、夜はぐっと涼しくなりました。金木犀が急に咲いて、街中良い香りが漂っています。

9月25日は、府中の森で行われたこもれびコンサートに、10月2日は、小金井公園で行われたまちなかコンサートに行ってきました。

前者は、いろいろ継続的にやっているようです。後者は、東京都の大きな音楽のイベントの一つらしい。

府中の森では、緑の中で、芝生で子供たちが遊んでいたり、高齢者が散歩をしている途中にコンサートを聞いてくれたりと、まちなかに、こういう雰囲気があるのって良いなぁと思いました。

小金井公園では、子宝湯という千と千尋の神隠しの舞台となったと言われているところで、お風呂の上に木で蓋をし、そこを舞台に歌いました。観客は、脱衣所や洗い場に座布団を敷いて聞きます。Ca390393_2

良く響いてよかったです。

私たちの前の中学生の綺麗なコーラスがとてもよかった。

私たちの後の、男性コーラスは、砕けた感じでよかったです。

私たちは、ちょっとこじんまり固まりすぎていたような気がします。

でも、まぁ、良い体験をしました。

昔、アメリカの中小都市のまちづくりという本で、良い中小都市では、自動車を入れないで、郊外型の暮らしを辞め、まちなかでは、休日には、木立のなかで音楽演奏などがあると書かれていて、羨ましいなぁと思いましたが、なんだ、日本でも結構やってるじゃないとと思いました。

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軽井沢の別荘’sに行ってきました

美江子ちゃんが新しく別荘を建てたというので、ハイちゃんの散骨報告も兼ねてということで、従兄たちが集まりました。

といっても、美恵子ちゃんの弟や従兄4人のうち2人も誘わなかったようで、ハイちゃんの散骨に参列してくれたお兄ちゃんたちの家族だったので、「報告」というニュアンスは減ってしまいました。

割り勘で簡単にね、なんて電話で話していたので、すっかりその気でいましたら、お兄ちゃんたちは、新築祝を持って行ったようで、私だけ、ロールケーキ1800円くらいので、ちょっと恥ずかしかったけど、しょうがないのでお世話になりました。

美江子ちゃんのご主人が会社社長で、楽器演奏が趣味とのことで、夏の間の土日は、お披露目もかねて、お仲間を呼んで演奏しあって楽しんでいるようです。

新幹線で東京まで1時間なので、月曜日には、ここから通っているようです。

折角作っていったハイちゃんの写真集は、さらっと流されて終わってしまいました。別荘は、彼のおもちゃのようで、いろいろな海外の音楽の映像を見せたり、3Dテレビを見せたかったようです。

チーズやハムの前菜でシャンパンやワインを堪能した後、なんと、京都のたん熊の折が届きました。お腹がいっぱいになりました!

普通軽井沢の別荘は、林の中にあるので、周りの景色は木立だけですが、ここは、目の前に浅間山が見えるところで、ベランダでバーべキューもできるようになっており、ともかく、とても景色が良かったです。Karuizawa

深いお風呂に浸かり、淑子姉さんと同じ部屋のベッドで寝ましたが、いびき、歯ぎしり、寝言、おなら大丈夫だったと言ってくれました。まぁ、いいや。

朝晴れていたので、散歩に行き、私は「茶人」らしく、水引を根っこから取って持ってきました(家に帰って、暗かったですが、植えたところ、根がついたようです)。

次の日は、今度は、淑子姉さんがらみで、淑子姉さんの弟の別荘と、息子が隣でやっているアートプロジェクトに行きました(これは追分)。鉄板を使い、穴をあけてあり、星空のように見えます。

お姉さんが描いた、カツさん(104歳)の絵や、古い着物で作ったアロハやパッチワークなども(弟の別荘に)飾ってありました。弟さんの別荘は、手作りとのこと。普段は、設計士で紙を書いているだけなので、自分で作ってみたかったんだそうです。

近くのイタリアレストランで、昼食をご馳走になりました。Itariarestran

う~ん、いろいろな家族があるもんです。

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コーラスのお仲間(同窓生)亡くなる

コーラスのお仲間の赤穂さんが急に亡くなりました。

同級生なのでショックです。

知らなかったのですが、ずっと前にご両親が亡くなられ、妹さんがご結婚してお近くに住んでらっしゃるものの、一人暮らしだったそうです。

彼女は、普段おとなしい方で、私のヤンチャを上手にたしなめてくれていました。

でも、皆で都立大学駅にあるコンサートホールに行った帰り、確か、生オーケストラで歌いたいとか言われ、あれ、赤穂さんも派手なこと意外に好きなんだと驚いた記憶があります。

今年の5月くらいに確か眩暈がすると言っておられ、私も眩暈に悩んでいた頃なので、同じ一人暮らしだし、明日は我が身だという気がします。

練習中に、ちょっと気持ち悪いといって早引けして、そのまま、入院、お見舞いにもいかない間に、癌が末期だったということで、1ヶ月も経たないくらいに死亡のご連絡を受け、驚いてしまいました。そろそろお手紙でも出そうかなぁと思っていた矢先でした。

癌だというのを本人も気が付いていなかったということで、苦しんだりする時間が短かったのが救いなのかもしれません。

お通夜で、皆で歌を歌いましたら、急に悲しさがこみあげて歌えなくなりました。

ご家族も少ないとのことで、コーラスの仲間がお通夜もお葬式も参列し、お見送りしました。

私の葬式って、どうなるんだろう。たぶん、お兄ちゃん達(といっても従兄)の方が歳が上なので、先に亡くなるだろうし、老人ホームとかヘルパーさんとかにお願いしている頃だろうから、何か簡単にしてもらえば良いのだろう。

同級生が亡くなると、あぁ、折角生きているのだから、充実した人生を送らなくっちゃと思いつつ、まだウロウロ、オロオロしている。

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