父のことを少し記しておこうと思います。
1.私が子供の頃
父は、私を可愛がってくれました。写真は私が生後3ケ月の折のものです。
子供の頃には、誕生日の度に、ボストン(昔高田馬場にあった)のシュークリームを買ってきてくれ、子供の手には大きすぎるくらいで、前から食べ始めると、後ろからクリームがはみ出てしまうほどで、とっても美味しかったです。時折、銀座かどこかで買ってきてくれるチョコレートや外国製のアイスクリーム?も美味しく、都会の味でした。
誕生日にお呼びした友達にも、シュークリームは好評だったと思います。
また、印刷会社に勤めていたので、当時(昭和20年代の終わりくらいから30年代に入った頃)は、紙が悪かったのでしょう、軽いけれども、枕ほどもある厚みの童話の本も、良く貰ってきてくれて、友達にもプレゼントしていました。
私の教養は、この頃の父が持ってきてくれる童話がベースになっていると思います。
しかし、まぁ、この頃の父親は、私の父に限らず、だんだん成長していく娘をどのように可愛がったらよいのか分からなかったかもしれません。
2.父の生い立ち
父は、農家の二男(戸籍上は三男)坊、男兄弟は2人で、姉と妹が確か多かった記憶があります。農家の二男なので、畑を貰わない代わりに教育(といっても実業:そろばんとか、習字とか、もしかすると会計とか)を受けて東京に出てきたようです。
親父は、何故か俳句をやっていて、その関係で母の兄(市川一男)と知り合い、結婚することになったようです。昔の市川家の写真については、「叔父」のブログにあります。
文具・オフィス用品のオカモトヤ(虎の門)に勤めていたという話も聞いたような。その後は、主に、中小の印刷屋の営業をしていたようです(飯田橋の裏など)。戦争にも三等兵くらいで行ったようですが、その頃、中島飛行機の病院であった荻窪病院の事務をしていたらしい。
今住んでいる家は、中島飛行機の元社宅で、戦後、社員が安く購入したと聞いています。もっと広い土地を買えばという話もあったようですが、今の土地を買うのが父の力では、精一杯だったようです。
二軒長屋で、高度成長期に皆家を建て替えるにあたって、壁を取り壊して一軒家にしていきました。だから、当時は、40坪くらいの家で、恥ずかしい感じだったのですが、今では、この住宅も世代交代が進んでいて、売りに出されると、40坪に二軒家が建ったりしています。
二軒長屋で向かい合った四軒で井戸を共有しており、井戸側に裏口用の道があって、子供たちは、そこを通って、隣の家に行ったり来たりしていました。お月見の時などは、そこを通って、家々の縁側に飾ってあるお餅やお菓子を貰ったり、夏には、井戸に大きなすいかをつって、冷えたのを分け合ったりしていました。
もちろん、お母さんたちは、井戸で洗濯やらお米を研ぎながら井戸端会議をしていました。
3.お酒に飲まれ、女性の家に転がり込む
私が思春期というか、ものごころつくころには、父はなんだか汚らしい、恥ずかしい人に思えるようになりました。
第一には、小さな会社に勤めており、しかも始終会社が変わること。
私は、杉並の高校に越境入学しましたが(当時は学区制で、田無から行ける高校は決まっていました)、その頃は、親の職業も書かれた名簿が全員に配られており、友達のお父さんは、聞いたことのある大企業や大学教授で、聞いたこともない小さな印刷会社なんて、とても恥ずかしいと思っていました。
今から考えれば偏見でしょうが、聞いたこともない会社のしかも口八丁の営業マンで、かつ始終職場が変わるなんて、なんだか信用のおけない人のように思っていました。
第二に、母方の長男(一男さん)が余りにも立派で、これと比較してしまった。
母と結婚するきっかけが母の兄と俳句仲間であったと前に書きました。
母の家系も美人と不美人に分かれるのですが、母もその兄も美形の方でした。その兄は、特許庁に勤めていましたが、辞めて、特許事務所の所長をしていました。先のアマゾンのリンクにあるように、特許制度の本も書き、また趣味の俳句では、口語俳句のリーダーで、何をやっても格好良い人でした。
母と兄は、歳も10歳以上離れており、祖父が亡くなってからは、父親代わりでもありましたので、母は、男性とは、兄のような人であると信じていました。
真鶴の別荘で、おこぜのスケッチをする母の兄一男とそれを見る母。
ですから、母は、農家出身で、大学も出ていないで、営業マンですから「エヘラエヘラ」と感情を笑いで誤魔化すような父(美形でもない)を見下しているようなところがありました。
私が子供の頃には、何か失敗をしたりすると、「お父さんに似ている」と言われるのが一番嫌で、傷つきました。でも、私は、そのだらしない父に実は、顔も性格も似てるところがあります。母だって、実は、「美人」なだけで、何かを成し遂げた立派な人という訳ではありません。でも、家では、父はダメ人間、母(母の実家)は立派という雰囲気になっていました。
第三に、酒に飲まれる。
父は、お酒が好きだったのか、営業という仕事柄なのか、良くお酒を飲みましたが、お酒に飲まれるタイプでした。お酒を飲むと、気持ちが大きくなり、なんでもできるというような錯覚を起したり、最後はぐでんぐでんに正体なく、太ったナメクジのようになってしまいます。
タクシーで帰ってきても、どこかでしばらく寝ていたのか、泥だらけのこともありました。もちろん、タクシー代があって乗ってくるのではなく、家まで帰れば、支払ってもらえると踏んでのことです。
第四には、女性の家に転がり込む。
私がものごころついたころから、父は、毎日家に帰ってくる人ではありませんでした。間接的に聞いている話ですが、いろいろな女性の家に転がり込んで(同棲)いたようです。
飲み屋の女の人や、ご近所の髪結いさんだったこともあります。最期の人は亭主持ちの飲み屋の人で、亭主が乱暴するので逃げてきて?父と暮らしているとのことでした。
今から考えると、狭い六畳で川の字になって寝ていたので、自宅では夫婦生活がやりにくかったのかもしれません。もともと、母は、淡泊な人のようで、ちょっと女学生がそのまま大人になったようなところもありました。結婚がどのようなものか、本当に分かって結婚したのかなぁと思う時もあるほどでした。
しかし、結婚してから私が生まれるまでは二人で暮らしていた訳ですし、私も生まれたのですから、それなりの夫婦生活はあったのだろうと思います。
ところが、昔の人だからなのか(本妻さんとお妾さんという観念があった)、母は焼き餅を焼いたり、自分の身を憐れんで泣くなどということは、全然ありませんでした。
母に言わせると「飲み屋の女」(自分より下の人)だから、焼き餅なんか焼きようがないとのことです。私だったら、浮気相手と比べて、自分に不足していることを思い悩んだりしそうなものですが、スパッと切れていました。
一方で、平気で父の下着を洗濯したり、帰ってくれば、夕食をつくっていました。
私は、思春期ということもあり、父に触ったり、同じお風呂に入るのも嫌でした。実際、お酒の匂いやら、中年の匂いやらで、父は臭かったのです。
夜遅くにお酒をのんでぐでんぐでんで帰ってくると、「ハサミであそこを切ってやろうか」と幾度も思いました。その度に、こんな価値のない親父のために、犯罪者になるなんてバカバカしいと思い直していましたが、いつ、かっとなるか自分でも心配でした。にも拘わらず、朝になれば、ニヤニヤと何事もなかったように「おはよう」などと言うのです。
第六に、家の暮らしが成り立たない。
父は、そんな具合でしたから、家は貧乏でした。貧乏はそれほど苦に感じませんでしたが、それは、母が明るい性格であったことと、母の実家から仕送りを受けていたからと思います。確か、結核だかで入院した折とか、おそらくそれ以外にも、お金を母の実家から貰っていたと思います。
そんなこともあって、離婚の話は、時折浮かび上がったようです。しかし、さすがに営業マンである父は、そういう折には、泣いて謝ります。もう二度としないと大の男が泣いて謝るので、父方の兄も、母方の兄も、男が泣くのだからと、離婚は見送られます。しかし、もう次の日からは、ケロッとした父の人生が始まります。
第七に、大言壮語を吐く。
父は、自分だって、何かがやれると思っていたようです。何時だったかは、数人で会社を興したこともありました。しかし、倒産?したというので、慌てて不動産の名義を変えたりしました。
夢(目的)のために着実に努力もしないで、「私だって、できるはず」と思うところは、実は、父に似ているんだなぁとつくづく思うこの頃ですが・・。
私は、会社のお蔭で、当時、テレビや雑誌にも名前が出るようになり、役所に出向もしていましたが、父がどこかで信用を失い、それが自分に及ぶのが怖いと思うようになりました。
大手町の地下鉄の駅で電車を待っている折、「へへへ」と笑う親父に出会ったこともあります。
4.家裁に離婚調停を依頼
父と母の離婚に、実家の兄さん達が親代わりに立ち会うという時代を経て、私自身が父母の離婚について動ける歳になりました。
そこで、知人に弁護士を紹介してもらい、当時は、父は女性と暮らしていたので、離婚を進めることにしました。
父がそれほど金持ちでもないことが感じられたので、慰謝料は要らないから、ともかく離婚したいと願いました。
不勉強だったので、離婚した母に年金を貰えたようなのですが、それも要らない、母は私が面倒みるからと言ってしまいました。
当時、私は、給料も上がり、マスコミに名前も売れるようになり、飛ぶ鳥を落とす勢いがあり、まさか、その会社が無くなり、私も、自分の実力で有名になったのではないことを思い知るとは思ってもみませんでした。
前述のように、母は、父が女性の家から帰ってきても、洗濯をし、風呂を平気で使っていたのですが、私には、耐えられませんでした。
ちょうど、家を建て替えた(私がお金を出して)のですが、父の部屋など作りませんでしたので、実は、父が帰ってきてもらっても、困るというのもありました。実際、幾度かは帰ってきて、どこかで寝たりはしたのですがどこで寝てもらったか覚えていません。
5.八王子の老人ホーム(病院だったらしい)
離婚してしばらくは、前述の亭主持ちの女性と暮らしていたかと思いますが、その後、八王子の老人ホームに入り、そこで亡くなりました。
離婚後は、父の実家が手続きなどで面倒を見てくれていたようです。
父の妹からは、「兄が可愛がって褒めていたけど、お前は鬼娘だ、将来良いことはないと思い知れ」といった内容の手紙が届きました。この叔母は、母ではなく、私が、離婚させたことを知っていたのでしょう。
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父が本当はどんなことを考えて暮らしていたのか、分かりません。
良くある田舎の農家の三男坊が何の伝手もなく、東京に出てきて、いろいろと苦労や努力しながら、生きてきたのでしょう。小さな土地と家も買って、子供も出来、それなりに幸せな暮らしをしたんだと思います。
母は、私を生んだことが「偉い」ことをしたと思っていました。結婚してからなかなか子供が授からなかったのに、ようやく授かったことや、33歳という当時では高齢出産だったこともあり、実家ぐるみで大切にされ(弟が毎朝、布団の上げ下げに来てくれた)、「春枝はエライ」と言われ続けたため、自分は私を生んだので「偉い」のだと勘違いしていたようです。
生まれてからは、私が可愛いというよりも、着せ替え人形を与えられたかのように、洋裁が得意だった母は、伊勢丹などで生地を買い、中原淳一のスタイルブックを全部作って着替えさせるという状況でした。
当時、田無も田舎でしたから、可愛らしい洋服を着た私は、随分と目立ったようです。
もともと淡泊だった母の頭から、夫はすっかり消えてしまい、妻の義務として淡々と食事や洗濯はしているものの、執着する相手ではなくなっていったのかもしれません。
でも、たぶん父は、母のことが好きだったようだし、自慢でもあったように思います。
子供の頃「お父さんに似ている」と言われるのが心の傷になっており、私は、誰かを好きになることを逃げていました。エッチなことを考えるとお父さんの子だと言われるからです。
でも、私は、父と母と両方の遺伝子で出来ているので、両方のどこかしらを受け継いでいるのだろうと思います。だから、父の良いところを見つけ出さないと、自分を否定したままになってしまいます。
父は、字が上手でした。私は今、お習字を習っていて、ちっとも上手くなりませんが、父の子なのだから、そのうち上達するに違いありません。
父が次々と違う女性の家に転がり込んだのは、一種の能力だろうと思います。女性の悩みを聞いてあげるとか、マメ(世話好き)だったのではないかと思います。
私は一人っ子で大人の中で育ち、会社でも誰かがお膳立てしてくれた上で踊っていました。何も知らない家のドアをノックして「こんにちは」というのは苦手です(自分から何かするのができない)。でも、お父さんの子なのだから、きっと営業マンのように、最初嫌な顔をされても、最後には、受け入れてもらえることも、もしかしたら、出来るのかもしれません。
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死んでしまうと終わりです。
その人が生きた証って何でしょう。
誰かの記憶に残っているうちは、それでも、生きた証になるでしょうが、記憶してくれている人もそのうち死ぬでしょう。
福島原発を作った人は、お父さんは、地図に残る、あるいは歴史に残る仕事をしたと子供に胸を張ったかもしれません。「歴史に残る仕事」をしたいと考えるのは、傲慢なのかもしれません。
母の兄(一男)は、前述ように、書き物を残しました。彼の子供たちは、立派な親に敵わないことが苦しみになっているようにも見えます。一男さん自身も、長男として家を守るために本当に進みたい道に行けなかったことが悔しかったようです。
ゲラさん(良く笑う)と呼ばれた母と、なんだか分からない父。
母には、死ぬまでの写真も残り、母方の従兄たちも楽しいおばさんとして記憶してくれています。
せめてもと思い、父のことを記すことにしました。
(写真は、一男の長男の結婚式に参列した折の、父、母、私、いとこの文男。三人で写っている最期の写真かも)
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