2009年4月 5日 (日)

どれも中途半端

5日(土)は、着物を着てお茶のお稽古に。

このところ、着物を上手に着れるようになったと先生たちに言われ、嬉しくなって、チャラコンチャラコン、チャラチャラチャラコンと着物を着て出かけるのが唯一の楽しみになっていたのだけれど。

たまたま、寄り付きで待っている時間が長かったので、唐物という手前の袱紗を復習していたこともあり、唐物のお手前をやらせてもらった。ところが、めっちゃくちゃ。唐物の手前自体が分からないのはさておき、「姿勢」が悪い、「茶筅通し」が悪いなど、基本的な動作がどうもめっちゃくちゃだったみたいだ。

北海道に行っている間お稽古をお休みし、しかも、股関節手術をしたこともあり、7-8年のブランクがあるし、座れないというハンデがあったので、どうやら、先生方は、私の作法がとてつもなく悪くても、見て見ぬ振りをしてくれていたようだ。

ともかく、復帰し、しばらくは、雰囲気に慣れ、すこしづつお手前を思い出すようにと思って寛大に見てくれていたのだろう。

お手前の間は、座椅子なしに正座していられるようにもなり、「ずいぶん良くなりましたね」などと復帰を褒められていたので、お手前もちゃんと出来ているのだろうとうぬぼれていたのだが。

こういうお稽古の先生は、良いところを見て褒めてくれるようで、そういうレベルの褒め方だったようだ。至らなさに顔が赤くなる(気持ちとして)と同時に凹んでしまった!

今は、主婦なのだが、主婦としてみると、お料理もお掃除も半人前だし、本当は、まだ仕事もしていたいのに、こちらも主婦業に逃げている。教えて頂いていて北海道では結局やれなくて、とっても失礼をしている書道もそうだ。電子ピアノも友達に便宜を図ってもらった購入したのに、すこしも弾いていない。

スケッチもやりたいと本も何冊も購入し、絵の具も用意したのに。

う~ん、どれも中途半端で嫌になってしまう。もう直ぐ誕生日ということもあり、焦る。

今日、NHKで先輩が母校を訪問するという番組をやっていて、郷ひろみが後輩たちに、将来の夢(目標)と現実とのギャップを書かせ、まずは3日間、夢に近づくために1歩から始めるという授業をやっていた。

郷ひろみなんてバカかと思っていたが、自分が単なるアイドルで歌も踊りもできないことに気づき、歌や踊りのレッスンをNYで受けようと英会話からはじめたとのこと。いろいろな言い訳で逃げないで目標に向かってきちんとするというのは、今の私にとって本当に必要なことだ。

母のせいにしているけれど、考えてみれば、一人で暮らしても、掃除・洗濯・買物・料理はしなければならない訳で、家事に逃げてはいけない。まぁ、ゼロからはじめたのだから、ここまでは、主婦業の勉強中(留学中)と考え、本当は、何をしたいのか決めて、一歩づつでもやらなければダメになる。

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2008年5月26日 (月)

垣花邸での茶会

お茶は、お茶事が本道なのだが、なかなかお料理を作ってやるのは、我々のような初心者には機会がない。

お稽古のお仲間で、お姉さんのお家を貸してくださるという話があり、またとないチャンスなのでやらせてもらうことになった。丁度、お免状?の最後まで貰った友人がおり、彼女が茶会を開くという設定でやることになった。

私は、下っ端の下っ端だが、初めて前日の準備に参加させてもらった。といっても、お掃除と食器を出して揃えることぐらいで、後は、皆さんが懐石の献立を考えるのを側で聞かせてもらっただけなのだけれど。

そして、次の日(5月6日)は、お客になった。

前日夜には、風と雨で、折角庭の掃除をしたのに、また当日掃除をしなければならなかったとのことだけれど、5月の雨上がりのさわやかな日の茶会となった。

3人がやっとという小間での茶事は、本当によかった。窓は閉めなければいけないのかもしれないが、暑いので少しあけてあって、木漏れ日に若葉がきらきらと輝いていたし、名残の赤い椿もきれいだった。薄暗い部屋のなかで、和紙と竹の窓から差し込む明かりがお手前をするご亭主をほのかに照らしていて、色白の彼女がとても美しく見えた。

掛け軸は「炉の後は、一畳青し、時鳥」だった。ホトトギスではないが、小鳥がさえずるのが聞こえ、蹲(つくばい)に流れる水の音と相まって、ゆったりとした時を楽しむことができた。

後座の花は、都忘れと梅花空木。空木は、まだ花が開いていなかったが、楚々としていた。Baikau21

前日お手伝いさせていただいたこともあり、なんだか、お茶の楽しみが分かったような気がした。亭主「chajiorei.doc」をダウンロード と茶室を貸して下さった方「chasekiorei.doc」をダウンロード へのお礼状、備忘録として。亭主への手紙の下にあるのは、茶事における手紙の例が掲載されているURLです。

PS:前日の帰り、広尾の交差点で、天皇の車が通るのに出会った。それはさておき、さらに、昔の同僚の臼杵さんとばったりであった。臼杵さんとは、先日も、市ヶ谷でもばったり出会った。なんだか、不思議なところで出会うもんだ。

PS:当日、帰りがけ、恵比寿駅に向かって歩いて、茶花を売っている店を私も知っておこうと思ったが、日差しがきついので、どうしようかと迷っていたら、ちょうど渋谷区の100円バスが来たので、乗った。いつもお稽古の帰り、恵比寿ガーデンプレイスで乗るコースだったのだが、ガーデンプレイスの一つ手前の停留所が加計塚小学校だった。

なんと、春枝さんの小学校だ。ここは、前も通ったことがあったのだが、名前を知らなかった。春枝さんが子供の頃は、恵比寿に住んでいて、(関東大震災?)下町が焼けるのを見ていたという話を聞いたことがあり、小学校の頃から足が悪かったのでおばあちゃん(春枝さんの母)が心配して先生のところに行った折、男の子が春枝さんのことを「びっさ、びっさ」と囃し立てるのに、春枝さんが一緒になって「びっさ、びっさ」と言うので、先生がお母さん大丈夫ですよと言ったというのがこの小学校のはずだ。HPを見ると、大正8年創立というから、大正3年生まれの春枝さんが5歳なので、出来立ての学校に入ったことになる。HPにも、高台にあるとある。春枝さんは、女学校は、今の目黒高校であり、これも近い。もっとも、この頃には、野沢か三軒茶屋の方に住んでいたのだと思うが。

PS:お借りした家は、もともとは麹町に住んでいて、ここはおじいさんの代に別荘として作ったとのこと。戦後、疎開から帰ってきて、麹町の家が焼けてしまったので、ここに住むことにしたのだそうだ。ここは、お寺の土地のなかのようで、周りはお寺が多く、大きな大木もあって、閑静なエリアだ。広尾商店街の突き当たりなのだが、今は、オープンカフェになっているところは、友達が子供の頃(おそらく昭和の最初)にはまだ牧場で牛を飼っていたという。

おじいさんが、別荘に、楽しむために茶室を作られたらしい。明治の頃のお金持ちの遊びであり、材木など、かなり本格的に作られたもののようだ。Fushinan_2 Senkechashitsu_2 (写真は、表千家のHPから。垣花邸とは関係ありません。)

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2008年3月17日 (月)

古希の茶碗

お茶を習っている先生が今年古希を迎えられます。お弟子さんのなかに、同じく古希を迎えられる方がおられます。その方がたまたま赤楽の茶碗で、9代の了入が古希の祝いに70個作ったという茶碗と出会い、購入されたとのこと。70歳つながりでなければ買わなかったとのことだが、運命的な出会いに感じたのだそうだ。

先生のお祝いにそれで薄茶を差し上げたいとお稽古に持ってこられた。

本当は、その方は、先生にだけ一服差し上げたかったようなのだが、その場の流れで私たちもお相伴に与った。

了入は、(宝暦6(1756年)-天保5(1834年)) の人というから78歳で亡くなったわけで、その方の70歳の時の作品というから、180年くらい前の茶碗ということになる。しかし、代々の持ち主が大事に使ったか、あるいはほとんど使わなかったのか、新品のようなつやをしている。

見た目は小ぶりだが、持ってみると結構重量がある。切れ味のよい姿をしている。茶碗の底が分厚い感じで、熱いお茶を入れても、手にはほとんど熱さを感じない。

先生によると、楽茶碗は、粗いので、水がしみてしまうから良く乾かさないと水が腐って、くさくなってしまうそうだ。昔は、暖房が今のようではないので、冬には中の水が凍ってしまい茶碗が割れることも多かったとのこと。

また、茶せんの硬いのを普段のようにゴシゴシ茶碗にぶつけるように茶を立てると楽茶碗が削られてしまうので、軽くそそっと立てなければだめとのことだ。

普通は、こんなに大勢で次々にお茶を立てるものではないとのこと。その折には、5人が頂戴してしまった。

おそらく、お値段も結構するのだろうし、貴重なお品なので、持ち主も緊張してお茶を立てられていた。お茶を分かる人に自慢したいようなものの、使わせるのはもったいない気持ちもあったに違いない。

しかし、お陰で、めったにない経験をさせてもらった。

茶道具は、貴重な品を展覧会で見ても、触ったり使ってみたりしないと本当には分からないもので、ありがたいことである。

ちなみに、9代了入は、3代のノンコウに次ぐ名工といわれており、箆(へら)の使い方がうまかったとのこと。文政8年(1825年)に隠棲して悠々自適な暮らしをしたというから、古希の茶碗は、そんな暮らしをしてまもなく生まれたものということになる。妙なへつらいがない。凛としながら楚々とした感じだ。

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お茶のこころ

お茶の心として藤原家隆の次の歌が知られています。知らなかった後輩に教えてあげるついでに、自分の備忘録としてブログ化しておきます。

  花をのみ 待つらん人に 山里の

         雪間の草の 春をみせばや

小倉百人一首には、次の歌が選ばれています。

  風そよぐ ならの小川の 夕暮れは

         みそぎぞ夏の しるしなりけり

藤原家隆

藤原家隆(ふじわら  いえたか、保元3年(1158年)-嘉禎3年4月9日(123755日))は、鎌倉時代初期の公卿、歌人。有職読みで「かりゅう」とも呼ばれる。初名、顕隆。法名、仏性。権中納言藤原光隆の子。藤原兼輔の末裔であり、紫式部の遠縁に当たる。『新古今和歌集』の撰者の一人。

和歌を藤原俊成に学んだ。歌人としては、晩成型であったが、『六百番歌合』、『正治百首』などに参加して、やがて藤原定家と並び称される歌人として評価されるに至った。承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇を慰めた。歌風は平明で幽寂な趣きと評価される。『新勅撰和歌集』には、最高の35首が収められている。歌集の『壬二集(みにしゅう)』は六家集の一つ。

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