2006年10月30日 (月)

教養

文化人とか知識人なら必ず読んでいなければ恥ずかしい本というのがある。

また、専門分野であれば必ず読んでいなければ専門家として認められない本というのがあるらしい。

私は、恥ずかしながら、この両方が欠けている。

子供の頃に、必ず読まなければならない本の何冊かは読んだと思うが、読んだというだけで、そこから何も得ていなければ読んだことにはならない。多くの「難しい本」は、途中で投げ出すか、頭を通り過ぎてしまった。

昭和一桁くらい生まれの人は教養ごっこが好きで、自分達が青春時代に興奮して読んだ本や受験勉強で覚えたことなどを知っているかどうか探り、私が知らないと馬鹿にする。「あんたたちの時代は、遊ぶことが少なかったし、やっと手に入れられた本だから印象深いのであって、私たち豊かな時代に育った世代は、もっといろいろなことを楽しんだんだヨ」と腹の中では言い訳するが、いい歳になるとちょっと恥ずかしくもなる。

望月照彦さんは、私より数歳年上なだけだが、文化人であり、私の苦手なカタカナの哲学者などの名前や著作を例に出す。前に書いた94年の小田急学会でご一緒したことがあるが、「この人たちはマルチメディア時代に何を感じるだろうか」といったようなテーマで、ベンヤミンやプルーストを取り上げていた。

昨日、このレジュメは捨ててしまったのだけれど、気になったので、ネット検索して俄か教養をつけようとした。ネット検索すると、Wikipedia松岡正剛の千夜千冊が良くヒットし、概要をつかむのに便利だった。

ところが、今日、ある人からのメールに返信するにあたって、「私の記憶はだいたい食べ物と結びついている」と書いて、折角俄かに得た教養(ブルーストの『失われた時を求めて』というのがマドレーヌを紅茶に浸して食べたら子供の頃の記憶が蘇った・・時間と記憶を取り扱っている)を披露しようと思ったら、もうこのカタカナの名前を思い出せなくて困った。

そこで、ここにメモ代わりに記しておくことにした。

ついでに、イタリアのことや創造都市について勉強している仲間に、ベンヤミンやウンベルト・エーコを読むように言われ、アマゾンかなにかで購入したのだけれど、まだ読めずにいる。

そうしたなか、同じファイルのなかから、92年の『中央公論』に青木保さんの「今月の言葉:協力の欠如」という1ページもののコラムが出てきた。

エーコのカンパニーレ論(「死の匂う笑い-ユーモアの天才カンパニーレ」和田忠彦訳『新潮』九月号に面白い引用があると書かれている。

Park1 カンパニーレとは鐘楼のことで、イタリア人は、故郷の鐘の音が聞こえるところに住んでいたいと考えると昔聞いたことがある(カンパリニズモ)。ピアニストのフジ子・ヘミングの十八番「カンパネラ」も鐘の音を表現したものだ。

ところで、このカンパニーレ(1899-1977)は鐘楼ではなく大衆小説家とのこと。エーコは、カンパニーレの次の文章を「暗黙の要請に対する協力の欠如」の例として引用しているという。

「失礼? わたくしペリクレ・フィスキエッティです。あなたは?」
「わたしはちがいます」

青木さんは、この話を取り上げて、国際社会における日本の態度を「意識のズレ」として懸念するといったことを書いている。

他の事例が浮かばないが、落語で魚屋が与太郎に猫を見張っていろと言われて、猫が魚をさらっていくのを見張っていたというのに似た笑いだろうか。与太郎の話は笑えるが、カンパニーレの話は、滑稽さよりコミュニケーションできない寒さを感じる。

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