2007年11月 4日 (日)

大徳川展

法政大学大学院のパンフ用写真撮影のため市ヶ谷に出向いたが、実際の用事は、5分で終了。せっかく外出したので、もったいないため、先日行かなかった大徳川展に行く。

雨が降りそうなのと、もともと集合時間が14:30ということもあり、展覧会に行くと言って出なかったので時間的に少々心配だったのだが。市ヶ谷から中央線で秋葉原が意外に近い、山手線に乗り換えて上野まで15分くらいで着いた。

もっとも、公園口から博物館までがちょっと遠いのだが、上野は、ゆっくり時間を取ってくれば、もったいないような空間だ。紅葉は、これから見ごろのようなので、もし時間があったら、またゆっくり来たいものだ。

海外に行くと、美術館や博物館に行き、その充実振りに驚くけれども、日本だって結構立派である。日本だと、日々の日常に追われて、何かのイベントで来るだけなのだ。お金をかけて木々やお庭が整備されており、この空間を自分のものとして使わないのは、もったいないと思った。

時間が存分に出来たのだから、本当は、もっとこうした場所を利用したら良いはずなのに。

ところで、徳川展だが、時間もないので、甲冑などはさらっと見ようと思っていたのだが、これがどっこい、ため息をつくような素晴らしさだった。実際には、時間もないし、ゆっくりみたからといって自分のものに出来る内容でもないので、全体的にさらっと駆け足で見ただけなのだが。

甲冑も、刀も、おそらく、本当にこれで戦ったものではないのだろうが、見事な装飾品であった。これらは、皆手作りであろうから、こんな細密なものを丹念に作る職人がおそらくそれなりの層居た日本は、実にものづくりな国であったといえるだろう。

書は、殿様の大振りなのびのびとした書き物が良いなぁと思い。これで終わりかと思ったら、別の部屋に、茶道具やら能面や衣装、嫁入り道具、雛人形、お姫様の着物などなどが続いた。葵のご紋と菊のご紋が競ったことが文化面では良かったのかもしれない。

能は、ムンク展を見た後だからか、なんだか勉強したくなった。お茶の友達には、能に詳しい人が3人もいるのだが、これまでは別世界のことと思っていたけれど、ムンクの生命・喜怒哀楽のようなテーマは、能でも当然扱っているのだろうから。

ところで、茶道具は、さすがに素晴らしかった。男手のどっしりした茶入れは、姿も美しかったし存在感があった。ほとんど、唐物だ。鉄が枯れた釜も良い。利休の虫食いの茶杓のうち節が二つあるのは、珍しいけど、なんだか小ざかしくて利休らしくない。

う~ん、昔の男は教養があったなぁと思うけれども、今、若者が音楽や詩を自分のものとし、お洒落を楽しんでいるのも、同じようなものなのかもしれない。

もちろんお姫様や殿様のものだからだけれども、手作りの品々は見事であり、心を落ち着かせる。

茶道では、道具を手で触って味わうので、飾ってある道具も身体で感じられる(本当は、実際に触って使わせてもらいたいけれど)。難しい作法や所作は覚えられないけれど、私は茶道は、身体で好きみたいだ。ときどき、茶碗や茶入れを見たくなる。枯れた陶器を触ると気持ちが落ち着くのだ。

そうだ、葵の印籠は、思ったより細身で、とても素晴らしいものだった。同じ、葵のご紋でも、御三家で違うのだろうか。水戸のこのご紋は美しかった。

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ムンク展

紛争処理委員会が昼に掛かってあり、今回は弁当が出たので1時には役所を出られた。せっかく外出したのでもったいないしと、思い立って上野に出かけた。

本当は、大徳川展でもみようかと思ったのだが、日比谷線で上野まで行ったら、駅から公園口までも結構歩いたし、余り時間もなかったので、大徳川展をやっている博物館まで行くのを辞め、西洋美術館のムンク展に急遽変更した。

まぁ、本当はどこでも良かったのだ。気分としては、「叫び!」の方が合っていたし。

ということでムンク展を見たのだけれど、叫びなどの印象が強く、狂気の画家のイメージがあったのだが、展覧会を見た印象は、「生命」であった。

展覧会の開催趣旨かなにかにも書かれていたが、今回は、これまでのムンクとは違う、装飾(学校、家などの)画家としての部分に光を当てたということのようだ。

「生命のフリーズ」という説明があり、「フリーズ」って、少し前にアメリカで、「フリーズ」=固まる=手を上げろという意味が分からなくて殺されてしまった日本人留学生の銃撃事件の連想から、生命が凍結されたというような意味なのかと思ったら、そうではなく、壁に絵をずらりと並べる装飾のことらしい。

いずれにしても、生命の木の絵に代表されるように、死んで骸になって、そこから木が生えて、男と女が居て、木が繁るというようないのちの連鎖のようなものが描かれている。恋愛とか愛の営みとかが描かれているのだけれど、それもそうした自然の営みの一連の行為の一つであるというように見える。ダンスをしているのだが、よく見ると、相手が死神みたいだったり、老婆が虚ろな目でたたずんでいたり、一方で綺麗な花に手をのばす美人の若い女性が描かれているなど。

i 」の字のような月の明かりが海に映っているのが多くの絵に描かれているのだけど、月明かりのなかでは、死んだ人も霊も生きている人も砂浜で一緒にダンスをしたり、コミュニケーションが出来る、そんな神秘を表しているようだ。

生き生きとした生命を描いている場面では、緑も鮮やかだし、人物に使われている黄色もとても輝いて見える。こんな明るい色の絵も書いていたのだ!と驚いた。

絵画は、やはり、現物を見なければ、エネルギーが伝わってこない。構図などは、プリントもので分かるけれども、色の感じは、現物を見ないと分からない。昔ルノアールを見たときもそう感じた。とても綺麗なブルーの目や、女の子や女性の健康な肌の色は、現物でないとダメだ。

三岸節子の絵を見たときもそう感じたのだが、ムンクの絵を見ても、譲らない(右顧左眄しない)絵を描いている強さに惹かれる。私も、こうした絵のように自分を殴り書きしたような生き方、描き方をしたい(と、しばらくは、そう思う)。

画家というのは、自分を表現するエネルギーが強いらしく、結構長生きの人が多い。三岸節子もそうだった。エネルギーが枯れつつあることを感じるこの頃だが、100歳に向けて、こうなりたいものだ。

余談だけれど、三岸節子も先天性股関節脱臼だったみたいだ、だからって、私も同じ凄さを得られるわけではないけれど。しかも、今と昔とでは、この病への対応が雲泥の差だったろうし。

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