シリコンバレーとサッポロバレー
チョン・ムーン・リーほか編著『シリコンバレー-なぜ変り続けるのか』をもう一度読み直している。前に読んだときには、気が付かなかったことが気になるところがある。
その一つ。
シリコンバレーにも歴史があり、その過程で大企業が生まれており、それがその後のベンチャー企業群誕生にとって大きな役割を果たしたことである(第三章)。
1.軍需産業(~1950S)
ヒューレット・パッカード(以下HP)が生まれたのは1939年で、スタンフォード大学の学生2人がガレージで始めた。確かに、HPは、学生ベンチャーであったが、HPが大きくなったきっかけは、第二次世界大戦とそれに続く朝鮮戦争による軍事産業であった。
2.集積回路(60S~70S)
続いて、1959年の集積回路の発明により、フェアチャイルドを生んだショックリー半導体研究所、そしてフェアチャイルドから生まれたインテル、アドバンスト・マイクロ・デバイシズ(AMD)、ナショナル・セミコンダクターなどの半導体会社が誕生した。
フェアチャイルドやAMDも軍事・宇宙向けの仕事をしていた。
70年代には、計算機や腕時計のすべての機能を持ち合わせたシングルチップが生まれ、この業界が否定的だったので、自ら計算機や腕時計に乗り出した。これは10年ほどで止めるが、このことによって、組み立て部品とテスト装置だけの供給者から消費財生産者にもなった。
3.パソコン(70S~80S)
国防と集積回路の波が技術基盤を確立し、それが次の波を生んだ。自分達でコンピュータを作ろうと集まった若者のなかから、アップルが生まれ、パソコンへの関心の高まりのなかから、サン・マイクロシステムズのようなワークステーションの開発が進んだ。
4.インターネット(90S~2000)
冷戦後の国防支出の縮小や半導体・コンピュータの世界的な競争激化でシリコンバレーは衰退したが、そこにインターネットが登場し、再び、ネットスケープ、シスコシステムズ、ヤフーなどが生まれた。
つまり、シリコンバレーは、技術の波に上手くのって、ベンチャーが誕生・成長し大企業になっていったのであり、①次々に波に乗るうまさ、②ベンチャーが誕生する風土、③ベンチャーが発展する風土・・などがある、あるいはそうしたインフラが波を通して厚みを増したという面では、確かにすごい。
しかし、今からシリコンバレーを作ろうと考えた時に、①軍需産業という巨大で先端的なものに資金が出るような市場があったこと、②波の発展過程で、「シリコン」バレーと呼ばれるように、製造業が育っていたことを無視できない。
つまり、中小企業だけの地域、大きな需要がない地域、製造業が発達したことのない地域・・・これがサッポロバレーなのだが・・・とは、歴史、つまり技術や産業のバックグラウンドが全く違うということを理解しなければならない。
サッポロバレーの物語では、1976年に北大の青木教授のゼミ生がマイコン研究会を始めたのを最初とし、すでに30年目なのだが、70年代当時、この北の大地には、軍需産業のような大きな需要もなければ、HPのような大企業も居なかった。
つまり、たまたまサッポロにマイコン少年が居て、仕事を得てそれがビジネスには成っていったけれども、地域には、それらをめくるめくほど大企業に仕立てるようなお客がいなかった。
その後、日本でも、コンピュータ化が進み、インターネットやケータイが発展するという大波は押し寄せ、その効果でサッポロバレーにも仕事は流れてきたのだが、ほとんどが首都圏企業の下請けの仕事であった。もちろん、なかには、独自技術を持つ企業もあるし、相対的に優れたエンジニアが沢山集積している地域ではあるのだが。
まずは、歴史が違うこと・・・残念ではあるが、これを事実として冷静に認めることが必要である。・・・逆に言えば、サッポロバレーは、サッポロバレーの歴史しかないのであり、ほかに真似がたいはずである。そして、歴史は、今の第一歩から始まるのであり、やるとやらないとでは、後々(それが歴史)大きく違ってくる。これは、今生きているものとしてわずかな希望である。
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第一部シリコンバレーの現在のところに、シリコンバレーのハイテク経済に占めるソフトウエア関連の雇用が92年の7%から98年の14%に成長したとある。しかし、ハードウェアが依然として最も有力であるとしている。もっとも、労働集約的な製造工程はアジアなどに移転された。
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