○戦国時代の乱世と今の乱世
橋本さんのこの本で一番ハッと思ったのは、次のところだ。
・中国の戦国時代は、まだ統一的な王朝がなくて、各地の王様が戦う、一番強い者が勝ちで覇者となる。
・これに対し日本の戦国時代は、統一的な室町幕府があるが、力が弱って、群雄割拠が起こる。
・バブル崩壊後の乱世は、もう高度に資本主義体制を確立していた国→バブルが崩壊しても、なんとかなるんじゃないかという思考放棄が起こる(もう充分に安定していた≒守護大名。バブル経済に蝕まれて不良債権を作り出してしまった経営者たち)室町幕府が衰弱し、それに連なる守護大名も衰弱する。そこに戦国大名が登場する(展望のない現状のなかから未来を開いた勝ち組≒戦国大名)。
・室町時代には、幕府に政治の実権を委譲していた天皇を頂点とする「朝廷」が居た。つまり、朝廷があり、幕府と守護大名があり、戦国大名が出てきたという三重構造であった。(守護は、朝廷=律令国家における国司という地方行政長官を無効にするための存在。朝廷-国司のところに幕府-守護大名があり、朝廷の地方基盤:当時の経済基盤をかっさらい、朝廷はあるが、その存立基盤が失われた)。
・室町幕府≒自民党政権とすると、守護大名≒抵抗勢力(古い政治家、官僚)となる。小泉さんは織田信長。小泉さんが放った刺客は、国司に対し守護大名を置いたのに似ている。
では、戦国時代にあった、「朝廷」に対応する要素はナンでしょうというところだ。私はここを読みながら、う~ん、今でも朝廷はあるしなぁ、とその前に読んでいた上田さんの本も頭にあって、やはり皇室≒巫女≒空だよなぁと思ってしまいました。
ところが、橋本さんは、”政治的権限のほとんどを室町幕府に委譲してしまって、実質的な力がなにもない朝廷-その頂点に立つ天皇は、当時のあり方に従えば「日本の主権者」です。では、「日本の主権者でありながら、実質的な力を発揮出来ないでいるものはなんだ?」と考えれば、・・それは、「日本の国民」なのです”というのだ。
言われてみればそうなのだけれど、橋本さんが後述するように、我々は「主権者」であるはずなのですが、私はすっかり「戦火に踏みにじられる農民」の気分でいたのです。
戦国時代のその後の展開は、やがて信長が出て秀吉が出て、天下統一するので、誰かが天下を統一してくれると思い勝ちです。無党派層が東国原知事を生み出したように、英雄を求めるのですが、知事はスーパーマンではないので、可哀想です。
○我々が「民主主義」というものをまだちゃんと自分のもににしていないから、「自分はどこにいて、自分のポジションはなんなのか」ということが良く分からないのです。
・「地方」は、かつては朝廷が統括していた行政単位であり、それを横取りした守護大名のものである、戦国大名は、それを奪いとる。「地方」という日本の基本単位らしきものは、常にある支配体制に組み込まれている。その支配権は「地方住民の外側」で勝手に受け継がれていく。乱世とは、そういう地方の支配権が移行する時代でもある。
・我々は、勝ち組の戦国大名でも、負け組みの守護大名でもない、我々のポジションは「朝廷」のはず。そう考えられないと、一方的な支配を他人から受ける「地方」に住んでいる「戦火に踏みにじられる農民」になってしまう。
・しかし、「我々は主権者である」という考え方に慣れていないのです。この乱世は、知的な乱世なのです。20世紀のある時期まで、「我々=戦火に踏みにじられる農民」ごする考え方が主流を占めていました。≒社会主義的な考え方です。・・政治家が我々の代行者である以前に、我々の支配者であった歴史が長かったから「我々は政治家に政治を代行させている」ということがどこかでまだピンとこない。
・昔の人は民主主義=善と考えていました。まだ細かいところまで良く分からなかったから。しかし、民主主義というのは、主権者の一人ひとりがああだこうだと考えなくちゃいけない・・とても面倒くさいもの。誰かが支配者になって、そういうめんどうなことを肩代わりしてくれることはありえない。
日本人にとって、「お上」というのは、恐れ多いけれども、便利なものであり、甘えの関係にあったと思う。泣くこと地頭には勝てないという辛さも言われるけれども、おおむね、これまでの「お上」は、そこそこに人民の暮らしをより良くしてくれてきた。良い舵取りをしてくれていた。日本人は、大臣をうさんくさいと思い、官僚を冷徹で嫌だと思いながら、先生と呼んでおだてたり、国がすることには安心感を持っているようなところがある。徳政令を出したり(借金棒引き、保険料引き下げが突然なされる)、戦時中にいろいろな物資を取られてしまったにせよ、お上がやることに不思議なほど信頼感を持っている。
お上は、人気取りのようなところがあって、国民に支持されないと不味いので、人気取りをする。国民が企業なのか、特定個人なのか、庶民なのかはその時時によって異なるが。水戸黄門のドラマのように、悪い代官や悪徳商人はいつもいて、それは、浄化されると思っている。実際には、水戸黄門は居ないので、誰が浄化してきたのかはしらないが、本当に悪徳がはびこれば浄化作用が自ずと働くように思っている。一人の独裁者が変えるのではなく、お上のなかのいろいろな力作用が働いて、やじろべえのようにバランスを取る。
戦争や不況で幾度も国に裏切られたにも係わらず、これは不思議といえば不思議だ。思考停止している言い訳なのだろうか。
橋本さんは、ここで何を言いたいのだろう。めんどうくさいし、我々は慣れていないけれども、民主主義でやるしかなくて、主権在民なのだから、我々一人ひとりが考えなくちゃいけないと言っているのだろうか。
前に読んだ上田さんの本に書かれているムラ社会なので、それにあわせた政治制度を考え出さなければいけないということの方にシンパシーを感じる。もっとも、ムラ社会も面倒くさい。なにしろ夜回りはしなくちゃならない、祭りもしなくちゃならないのだから。
政治家だってそうだ。官僚に丸投げしてきた。国民の代理だなんて思っていないのだろう。せいぜい、票田である地域の声の大きい人の利益代表程度で、官僚が作成した政策を地元に持って来ようとする程度だ。
官僚も国や地域を憂いているわけではなく、保身や出世が第一で、出世のために法案を作成したり通したり、制度をつくるけれども、それは、省のためや部署のため(それによって誉められる)であって、必ずしも、国民や地域を考えてのことではない。
夕張だって、国からお金を引き出して立派な施設をつくり、表向きは、地域活性化と言いながら、短期的な手柄を狙った人々の積み重ねでしかないはず。当時の住民も、これで本当に地域活性化につながるかよ、と思いながらも、投資効果もあるし、それ以上知恵を出さずにほったらかしにしておいたに違いない。
国民の多くは、不満は持つが、こうしたらよいという方策を描くまでの力はない。企業は、国民の不満を感じたら、それを解消するサービスを提供して成長する。不満はフロンティアなのだ。昔は、いろいろ無かった時代なので、官僚も方策を出しやすかったのだろう。殖産振興とすれば大方の国民の不満(貧しい、職が無い)は、解消された。今は、ニーズが多様化しているし、官僚や政治家にふつふつとした不安や不満を届ける仕組みがなくなっている。
単純化すれば、昔は、通産省と建設省が頑張ればよかった。通産省が殖産振興しようと思えば、業界団体があり、代表企業は数社だし、その声を実現するようにしていればよかった。建設省は、列島改造で橋やダムを作ればよかった。どこに作るかは、地元の政治家と建設業界が陳情してきてくれた。
現在のような漠然とした不安のようなもの、あるいは、根っこは同じかもしれないのだが、多様なニーズを訴える団体もないし、それらを政治・行政のエリート達が把握しきれていない。また、複雑な問題が多いので、すっきりした解決策を提示できる力がない。
政治ということを考えたら、これらの漠然とした不安や不満をどう声にし、どう形にしていくかの知恵がまだ絞られていない。政治家や官僚が打つべき目標が具体的な形になっていないのだ。これは、政治の仕組みをどう組み立て直すかという問題である。政治家や官僚は、「世界有数のIT先進国になる」といったような具体的な目標を挙げられると小躍りして邁進する。彼らは、邁進する分かりやすい種が見つからなくてこまっているし、おそらく、見つかってもどう解決したらよいのか分からないに違いない。
教育改革とか、憲法改正とか、これは分かりやすいし確かに重要なテーマなのだが、本当に国民が現在不満や不安に感じていることとは違うのではないか。
声を集める仕組みで、唯一成功しているのが創価学会=公明党だ。この女性基盤=生活基盤からの声は、大きい。残念なのは、これがやや摩訶不思議な宗教団体であること。日本社会は、女性を活用してきていないから、創価学会のように、女性のパワーを尊重して活用している場合、彼女らは生き生きと行動している。ただ、もともとが宗教団体なので、女性はヒステリー的でもあり(感化されやすい)、本質的な問題を扱うがゆえに、より一層不安である。
本来、いわば名も無い人々のパワーを結集するようないくつもの団体があって、議論をして論点を明らかにしあって欲しいのだが。団体となると、それはそれで気持ち悪くもある。気持ち悪さはどこから来るのだろう。客観的な利益団体ならまだよいか、何かを信じてしまった人からの勧誘の怖さか。
社会起業家を待望する人たちは、官僚では、感じられないニーズを感じ、それを解消するサービスを組み立てて提供してくれる人々だからだ。フロンティアを見つけ出せる、新しい仕組みを作り出せる人々。政策として打ち出すには、恥ずかしいような小さなニーズに応えながら、これが普遍性を持つことを示しつつ事業が拡大するというやり方。
入院し、介護に携わり、現在プーで日常を町で過ごしてみると、山手線内のごみごみした空間の狭い部屋で24時間戦っている企業戦士(含む官僚)の世界は、何か間違っているような気がする。それはそれで良いが、グローバルに戦ってよいが、そこから離れた平原には、たくさんのフロンティアがあるような気がするのだ。都と鄙という区分をすれば鄙。都の人々は、確かに鄙を市場としているワケだが、その一部だけを開拓しあって過当競争しているような気がする。
では、この鄙には、どんな不安や欲望が渦巻いているのだろうか。それとも、私が感じるものは幻想か。
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