都市とカミサマ(その7)
むすび
・西洋の都市は、芯が一つのりんごの都市であるのに対し、日本の都市は、ぶどうの都市で、中心がたくさんあり、権力は多元的である。
・形がそうなっているだけでなく、運営のされ方がそうである。西洋では、市長は、公約を掲げて当選したら、市長は、その公約の実現に向かう。仕事を妨害したり、協力しない職員は首にする。公約のなかに選挙民の最大公約数の意思がこめられており、市民は、市長が公約を実現するかどうかを監視している。
これに対し、日本では、市長が当選しても、公約が実現するとは限らない。市会議員と職員がスクラムを組んで従前どおりの行政を進めるからだ。だからといって議員や職員が悪いわけではなく、その背後に中央政界や官界、地方政界や産業界、社会団体、地域団体などの思惑や行動が渦巻いているからだ。
そこで、どこの市役所も「ヤマタノオロチ」だと言われる。
現在の日本の都市は、ぶどうの都市の態勢が崩れ、そこに西洋民主主義の枠組みをかぶせてはみたものの、上手く機能せず、ブドウの皮がはがれてりんごの芯ができないどろどろの状態、腐ったりんごだ。
・・これは、ちょうど宮崎県知事の話や夕張市の話があるため、思わずフフと笑ってしまうところだが、とても重要なことだと思う。私もなんとなく感じていることだ。木に竹を接いだという感じは、相撲八百長問題にもつながる。神事とルールによるスポーツの違いだ。
そういえば、パチンコは、アメリカでは営業できない。確率論に載らないばくちだかららしい。何か本質の違うものをグローバルスタンダードにあわせることの違い。これは、イスラム教の問題にもつながるのかもしれない。「英知」を働かせないと、地球が小さくなっているなかで、とんでもないことになる。
札幌での仕事は、まさにヤマタノオロチを御すことができないとプロジェクトは崩壊するということを目の当たりにしてきた。頭で理解するのではなく、ヤマタノオロチを現実に見て、地域で実業をするのは、大変なことだと感じた。
明日の日本を考えるうで、リアルな地域政策を考えるうえで、ヤマタノオロチを踏まえた政策論を考える必要がある。これは、多様な価値観がある地球全体の明日を考えることにつながる。
州の独立性が強いアメリカ連邦は、本来多様な価値観を包含する連邦であったはずなのだし、EUもそうした知恵のはずだが。むしろ、日本の方が概略同じ民族ということで多元的価値観ではないはずだが。西洋のルールを決めた元での多元と、日本の多元はどこが違うのだろうか。先の市長の公約の例からみると、ルールを守らない多元だろうか。
・「ムラ社会体質」:この国には、人間の力を超越して人間を支配するような巨大な権力が存在しなかったから。異民族の支配を受け、それを排斥した王が強大な力を持つという歴史がなかった≒国家がなかった。ヒューム「国家というものは外圧が生じたときに生まれる」。だから一時的に国内政治に成果をあげたリーダーは、権力が多元的なのですぐに殺される。蘇我入鹿、長屋王、足利義教、織田信長、井伊直弼、大久保利通、浜口雄幸、犬養毅、これだけリーダーが暗殺された国は世界にない。
・・国が乱れている時期には、強大なリーダーを待望するのだが、一旦それによってある程度落ち着くと、振り子がゆれるように、それを嫌がるのだろうか、バランス感覚なのだろうか。
アメリカだって、いろいろな意見の人・派閥があるはず、民族は雑多だし。でも、最大公約数で大統領や市長が選ばれたら、それを支持する(ルールだから)。日本では、いろいろな力関係のなかで、もみ合いながら、押し競饅頭のなかで少しずつ動いていくのだろうか。建前(ルール:西洋の殻)と本音(根回し:押し合いへし合い)なのだろうか。
札幌の事例のTさんは、根回しというか、ヤマタノオロチのそれぞれが押し合いへし合いして方向性が出るまで動かない(動けないのかも)。リーダーシップを発揮して、流れを引っ張って行くことはしない。そういうなかで、自分の役割を感じるIさんが最終的な組み立て係りをやる。Tさんは、プロデューサーなのだけれど、大まかな配役はするが、脚本がなくて、役者が押し合いへし合いするなかでシナリオが出来て行く。したがって、上手いシナリオになることもあるが、めちゃくちゃになるというシナリオもある。誰も出口を明らかにしようとしない。だから、計画ではない。5年やった結果が結果(出口)なのである。
札幌では、過去に表に出たリーダーは、皆チクラレて消えている。
ムラ社会を前提にして、どのようにしたら、良い方向に流れを作ることが可能なのだろう。ムラ社会を御する方法・・検討課題。カミサマ-巫女(巫女が指し示したようにすると、ご利益があるという実績づくり)。ジャンヌダルクか。フォローミーと旗をなびかせ、方向を指し示し(巫女)→実務家が具体的に実行し、人々(ヤマタノオロチ)がそれに賛同・動く。
小泉さんは、強大な力を持つリーダーではなく、巫女だったのかも。民営化・抵抗勢力といって方向を指し示し、人々になんだか良くなるらしいと思わせた。流れができれば官僚は、きちんと仕事をする。織田信長が好きだったというが、おそらく冷徹さは似ているように思うが、巫女だったので殺されていないのかも。
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