メモ
一揆やストライキは何故起きなくなったのか。
長州の撫育方、薩摩の調所改革、肥前の均田制、土佐のおこぜ組などの改革が成功して藩財政を豊かなものにしていました。以下ネット検索による。
長州の撫育方:「 光市室積港は、天然の良港として室町時代から栄えた。江戸時代、萩(毛利本家)藩は、上関を公式の接待場所と決め上関に御茶屋(迎賓館)を作って、使節を接待した。
江戸時代の中期1763年、藩の財政改革の一環として、室積港を商業港として整備し、北国や九州の廻船を迎え入れ、港の建設、町並みの整備に力を入れた。毛利藩が瀬戸内海側の年貢米を売りさばくためと、越荷商い(他国の商品の売買)を行う役所(長州藩撫育方(ぶいくがた)会所をここ室積に置き、北前船を初め藩内外の多くの船が出入りして、商取引が盛んに行われた。1842年には室積には廻船持ちが76軒、船大工が24軒もあったと記録されている。室積の廻船は、塩を売っていたそうです。幕末には南奇兵隊がここで結成され、鳥羽伏見の戦の物資は室積の廻船が運搬した。1893(明治26)年には大阪との定期汽船の航路が開かれ、繁栄を誇った。しかし1893(明治30)年山陽鉄道が広島~徳山間開通したが、室積村は鉄道設置に反対し、室積通過を断固反対した。その後、海上交通の時代は終わり、陸上交通の発展と共に衰退していった。」
長州の村田清風:「1840(天保11)年、長州の毛利敬親(22歳)は、多くの者の財政再建の意見の中から、下級武士の村田清風(50歳)を登用します。
村田清風によると、長州藩の年貢収入2万5000両であるのに対し、累積借銀170万両に達していました。紙や鑞は、既に専売を行っていましたが、それに反対する一揆がおこっていました(防長大一揆)。そのために、まず藩債を整理する。これは37年かかって支払うという乱暴なものでした。これを37ケ年賦皆済仕法といいます。この提案に債権者は大反対をしました。村田清風は、摩の先駆者である調所広郷の話を聞いていて、同じように説得します。債務の完済には、もう専売を使えません。村田清風が提案したのは、専売制を廃止して商人による自由な取引を許し、その代わり、商人に対しては運上銀を課税するということです。2つめは、越荷方を設置し、豪商の白石正一郎らを登用しました。越荷方とは長州藩が下関で運営する金融兼倉庫業をいいます。他国船の越荷(他国から、越えてきた荷物)を担保に資金を貸し付けたり、越荷を買っては委託販売をしました。
その利益は膨大で、軍艦の購入にも使われました。」
薩摩の調所改革:「 1827(文政10)年、薩摩の島津重豪は、多くの者の財政再建の意見の中から、下級武士の調所広郷(50歳)を登用します。
調所広郷によると、薩摩藩の年貢収入73万石(73万両)であるのに対し、累積借銀500万両に達していました。そのために、まず藩債を整理する。これは250年かかって支払うという乱暴なものでした。これを250年賦といいます。この提案に債権者は大反対をしました。調所広郷は、「藩が倒れては、1両も支払えない」と説得しました。現実的な債権者は、「どのような方法で支払うのか」と詰問しました。調所広郷は、砂糖を専売にし、琉球との貿易(密貿易)を提案し、債権者の協力を要請しました。下級武士だから提案できた内容です。
その結果、債務を完済し、藩財政は黒字に転化しました。調所広郷は、蓄財に励みましたが、次代の島津斎彬の時には、西郷隆盛らによって、造兵工場(集成館)や洋式機械工場(鹿児島紡績工場)が建設されました。まさに、殖産興業の時代に突入しました。」
肥前の均田制:「肥前藩の鍋島直正は、18歳の時、自ら改革を実施しました。肥前藩は、年貢収入9万両であるのに対し、累積借銀33万両に達していました。
寄生地主(町人地主)の所有地の一部を藩に返上させ、本百姓体制の再建をはかりました。これが均田制です。均とは、平均の均で、「ひとし」とか「ならす」といいます。つまり、江戸初期のように同じ面積の土地を持つ百姓(本百姓)に戻すというアナクロ政策です。これでは、幕府の改革と同じです。
鍋島直正が非凡であったのは、藩主自ら有田焼・伊万里焼の専売制に踏み切ったということです。」
一揆:もともとは、暴動という意味ではなく、同志的な集団のことであったらしい。同じやり方の人々の集まりというような意味。訴訟行動であったと言われている。自治意識から生まれたもの。
辞書を引くと、以下のようになっている。
揆:やり方
一揆:揆を一にする(軌を一にする):同じやり方をする
「郡上一揆」、秩父困民党の事件、一向一揆
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