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February 12, 2007

都市とカミサマ(その2)

2.都城と宮城

・西洋では、都市の周辺に囲い(城壁)を作って、都市全体を囲う。農民などを外的から守るため。ところが日本では、都市に囲いはなくて、天皇が住む周りに城壁がある。

・中国では、都のなかに、宗廟(先祖の霊を祭った)と社禝(土地の神と五穀の神)とがあるが、日本の場合、平城京のなかにはなくて、前者は伊勢神宮内宮であり、土地の神(国土鎮護の神)は、全国各地にあり、五穀の神は、伊勢神宮外宮と外にある。

・中国の皇帝は、人民を保護することによって地位が約束されるが、日本の天皇は、人民のカミサマで、隠され、人民の代わりに神事を行っている。→東京のど真ん中は真空である。

・・この本の別のところで触れられているのだが、日本はヤマタノオロチ(ムラがいろいろある)であり、絶対権力者は皆殺されている。天皇がカミサマで直接は見えないが神事を行い(空)、絶対権力者でないというのは、すごく重要なことかもしれない。おまけに、ムラムラに神がいる。多民族(多様なカミサマ)が共存できる仕組み。

・・富国強兵の時代に、大東亜共栄圏を打ち出した折に、苗字も日本的に改めるなどの愚かなことをしたのは、考えの浅い人々が指導者であったからではないか。本当は、空のカミサマによって心根だけ統一し、それぞれの土地神さまをそのまま生かせることが出来たはずなのに。アメリカのような軍事力・民主主義の押し売りではなく。もっとも、アイヌを支配した頃から和人は、上記教養が無かったワケで、大東亜共栄圏もその延長かもしれない。

・・また、国づくりの初期にこれができても、今から天皇(カミサマ)では相手国が受け入れないだろうが。また、森林が豊かな土地でないと駄目だろうし、一度民族が蹂躙された地域では、これができないかもしれない。縄文人と弥生人も一度は戦い、そのなかで上手なすみわけをしたのかもしれず、一度は戦いのなかでルール化されるものなのかもしれない。

・・しかし、皇室が国王ではなく、また一神教の神ではなく、五穀豊穣と国土安寧を祈る巫女の一種と考えると、これは世界的にも受け入れられるように思う(不幸な戦争の記憶があるので難しいが・考え方として)。五穀豊穣と地球環境保全と考えれば良い。もちろん、個人を律する別の宗教も、ムラムラの鎮守様も居て構わない。

・・五穀豊穣と国土安寧を祈る:これは、他国の人にはわかり辛いだろうか。西洋なら、ルールを作って取り決めるとか努力目標などをつくり、守らない人への罰則が必要なのだろうか。

・・江戸時代も、幕府が行政を握っていたものの、地方分権であって、かつ地域ごとにカミサマがいたのだろう。キリスト教は、排除されたが仏教や神社はいろいろあったままだ。キリスト教を禁止したのは、スペイン等が宣教師を尖兵としてアジア地域を征服しようとの魂胆が露見したからと言われる。そうした政治な問題が明らかでない前は、「わが国には、いろいろな宗教があるのを是」として認めていた。

・土地とムラ

日本では、西洋の意味での民族紛争がなかった。縄文人と弥生人も折り合いを見つけて共存した。西洋での戦いは、敗れると男性は皆殺しにされ、女性は奴隷にされた。

イギリスでは、土地は、女王のものであるが、日本では、自分の土地が永遠に続くと思って暮らしてきた。

日本の戦争は土地争いではなく、人民が巻き添えになることもなく、権力者間の争いであった。「徳政令」は、土地などを担保に借りた金を返さなくてよいというもの(室町時代)→金を借りるために差し出した土地を取り戻す?→土地の所有が続く。自ら開拓して肥沃にした土地を自らのものにする、一所懸命。

・・バブルの頃に土地神話(土地を財産と思う、また値上がりすると思う)がいけないといわれたが、国土が出来た頃からの発想であると、なかなか無くならないだろう。但し、徳政令も歴史である。

西洋では、異民族との衝突、暮らしのなかで、集団の統一をするために神を作り出す。一人ひとりの身体にしみこんだ生活スタイルを神として形成し、それが生活様式を守るとりでとなり、民族や部族の統一を守る強烈な紐帯となる。偶像崇拝を禁止するのは、それを奪われたらこまるから。→生活スタイルが神という形式(文化)を作り出し、出来た文化が人々を縛る。

これに対し、日本では、見える神様(代理である巫女)がご利益をもたらすものとして登場し、神様が移動しても、そこに奉納品を持って行く。神様が肥沃な土地や収穫物をもたらしてくれるから。

・・産業構造が変わって一次産業が無くなったため、カミサマを重視しなくなった。が、しかし、地球環境重視や食の安全などを契機に、カミサマの存在意義が新たになっているのではないか。その場合、昔は、その土地を開拓し、その土地から恩恵を受けていた人々のカミサマであったものが新興団地などが出来て直接的な存在意義と結びつかなくなっている。これを人々の日々の生活とどう結びつけるかが課題である。

たとえば、武蔵野の水を考えるなかで、山や鎮守の森の意味付けをして(学者がきちんと、その市町村の神経、血流、である伏流水などの意義付けを行う)祭りを意義付けるのか。トトロの森?

・・今日の巫女が現世的なご利益をくれるとしたら、ナンだろうか。豊かな暮らし、高い所得、心安らか、健康、彼氏・彼女ができる、一人ぼっちではない、役立っていると思われること、出世、有名になること・・・・昔の巫女は、言うとおりにすると豊作になるなどのご利益があった。歌垣(楽しい場、氏族を維持するのに大切な場・・)を提供してくれた。・・・都市を提供してくれた。

・・市長・知事・総理大臣は本来巫女が望ましい?言われたようにやると皆の暮らしが豊かに、心豊かに暮らせる。地球環境にも良い暮らし。そのための都市整備と山見の聖軸と祭り(ソフト)づくり。

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