なんかヘン(その3)
○20世紀は、イデオロギーの時代であり、進歩を前提とする理論の時代だった。「自分の現実をなんとかしてくれる”正解”がどこかにある」→学習好きになり、次から次へと「理論」を漁る。
○ところが「有効な理論」が存在する時代が終わり、「バブル経済」という混沌が訪れ、混沌がなくなると(バブルがはじけると)「どうしたら良いか分からない」状態になった。→どう生きたらよいか分からなくなり、「勝ち組・負け組」の二分法が登場した(これでしか判断できなくなった)。
○現在は、知的な乱世である。全国一律の価値観が崩れて機能しなくなった。価値体系のゆらぎ。
なぜ、「進歩を前提とし、全国一律の価値観」が無くなってしまったのだろう。
○橋本さんは、日本経済が成熟し、フロンティアが無くなってしまったからだという。もう右上がりの発展は国内ではムリなのに、それをしようとして、自動車産業は、国の枠を超え、スーパーは、限界を超えてしまって飽きられた。しかし、一般的なものとして存在し続けなければならず儲からない。バブル崩壊後、もう投資先がないのに、お金が集められた、だから低金利だ。必要ではなく、欲望を世界経済があやつっている経済になっている。確かに中国などがしばらくは、昔の日本のように経済成長するので、そこがフロンティアではあるが、地球全部が欲望のとりこになったら地球が破滅する。昔は我慢というものがあったが、我慢が押し付けられたもの、貧乏と我慢が一体化して捉えられたので、我慢は嫌だ、貧乏から脱したいとなってしまい、我慢が消えてしまった。
橋本さんは、「世界経済」という言葉を使うとものごとが分からなくなってしまうというが、世界経済が数十年でフロンティアを無くすとしよう(中国やインドやアフリカがそれなりの経済発展をする)。おそらく、その時には、日本は相対的に小さな人口になっているだろうが。世界経済がフロンティアを無くすときには、滅亡か革新かが起こる。マンモスのように滅びるか、農業革命、産業革命に続く○○革命によって多くの人口を賄って、かつ地球を滅ぼさなくてよいようになるか、あるいは、縄文人のように暮らし方を変えて1万年のクライマックスを生きるようになるかだろう。おそらく、意識できる限りでは、人類は○○革命を目指して研究するに違いない。
では、日本はどうなるのだろうか。
人口が半減するなかで(移民を考えない場合)、なおかつ心豊かにそれなりの命を全うし、それなりの子孫を残して行く場合、しかも、一方では世界経済に占める地位が低下するもののグローバル経済と接触せざるをえないなかで。
1.世界を舞台に活躍するいわゆる勝ち組とそうではない多くの人々。
2.勝ち組を狙ったが負け組で、焦ったり再チャレンジする人々は、経済を支えてくれるかもしれない。ぶつぶつ言いながらも、勉強すれば、大学等の教育サービスのお客になるし、背伸びした生活をするので、それなりの品物やマンションが売れるだろう。
3.そうではない、別の価値観の人々も現れるかもしれない。投資でお金を儲け(専門家に任せるだけの資金がある)、悠々自適な暮らしをする人もいるだろう(勝ち組の引退組み:貴族)、こういう人は自然を守ろうなどの運動をしたり(あるいは支援したり)、茶の湯(新しい茶の湯に代わる趣味はなんだろう)を楽しむかもしれない。あるいは、自然の中で暮らすこと・その自然を守ることに生きがいを持つ人もいるかもしれない。自然のなかの再生産に依存する暮らし。
4.社会的に問題となるのは、上記のどれでもない、意識しないが生命が脅かされるほどの負け組の人々だ。高齢化や格差社会?のなかで、本当の意味の落ちこぼれの比率が高まるかもしれない。あるいは時代のハザマで流されてしまった人たちだ(若いうちフリーターで楽しんでいたのだが、気がついたら、技なくして生き延びられないことに気付いたが、蓄えもないような人々:自業自得とは言え)。この人たちを見殺しにできないとして、では誰がどう負担するのか。
昔の社会なら、弱者は、自然淘汰されて、それで社会の容量・能力に合う人口水準になるのは当たり前のことだった。今は、それを政策でなんとかしようということになっている。
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