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May 29, 2007

補助金・交付金

北海道経済の弱さは(経済だけでなく、北海道自治の弱さは)、豊富な補助金を得て、すっかり寄生虫になってしまったことだ。道州制を考えるにしても、すでに貰っている補助金を切れないために、弱腰の案にしかできないでいる。

もっとも、ニワトリと卵で、補助金漬けの状態を一気に自立化しようとしたら、北海道経済は成り立たないのだろうが(これも本当は、ちゃんと検討する必要がある)。ビジョンとして、自立する方向性を検討するぐらいはしてもらいたいものだ。

北海道の歴史自体が、「北の守り」、「国策としての石炭採掘」、「引揚者の受入」などなど、国策によって作られてきたために、もともと国からの支援の多い地域であったのだろうが、「エネルギー転換」、「200海里」、「JR民営化」、「拓銀破綻」などなど次々と国策的な機関産業が国策的に潰された(そういう意味では、プラスの時もマイナスの時も北海道人の意志ではなく、国策に翻弄された地域である)こともあり、さまざまな支援が手厚く行われてきた(具体的チェックが必要)。

国策に翻弄されたのは気の毒ではあるが、このため、骨の髄まで、与えられるものを皆で分け合う、抜け駆けはいけない、競争はいけないというような根性になってしまっている。これは、開拓時代に、皆で助け合うという精神が培われた(慣習になっている)という良い面もあるのだろう(冠婚葬祭の割り勘など)。しかし、道民の精神構造が長い補助金漬けで、働かずに補助を仰ぐことを悪いと思わないものにしてしまっている。

だからある意味、人々全体の考え方が社会主義的で、それでいて非常に保守的だ。「革新」というと新しいことに挑戦するということになるが、ここでの「革新」は、社会主義的(皆で分け合う)ということであり、ベンチャーのように新しいことに挑戦するという意味ではない。

新しいことに挑戦すると叩かれる風土だ。だから地元の人は新しいことには挑戦しない。本州から来た人が新しいことをやって、それが上手く行きそうだとついてくるが普通は表面だけ相槌を打って相手にしない。

新しいことに挑戦しない、余所者を信用しない、地元民でパイを分け合うという意味で「保守的」である。もちろんパイをよけい取る人は嫌われる。パイを大きくする人は「革新」なので排除される。「革新」は、既得権益を脅かすからだ。

勝ち組や北海道を食い物にした本州の人を恨んでいる一方、こうした人々にこびへつらうところがある。本州から官僚や著名人を呼ぶと、あご足付きで大接待、講演料は多額である一方、地元での講演料などは割り勘の精神で非常にわずかだ。本州の人は珍味に舌鼓を打ちながら、地元民に対し「こいつら馬鹿だ」と腹の中で思い、一方、地元民も、「こいつらいい気に鳴りやがっているが、金を流す役割だから接待しているだけで人間的には小僧と思っているんだぞ」と負け犬の遠吠えをしている。

クラーク博士が言った「Boy's be anbitious」(少年よ大志を抱け)は、余りにも大志を持たないのであきれ果てて言ったのではないかと言われるほどだ。「道産子」は、根性がある、開拓者精神があるのではなく、ただ黙々と言われたことに従うだけだ。

だから、萩原さんや中田さんのような人がもっと居てくれたらと思う。中央の政財界に夢を与えて、あるいは脅しをかけてその気にさせ、金を出させるだけの力があり、一方で地元の心を一つにまとめられる力を持つ。・・・少数でたまに出るからワンマンとなり、チェック機能が働かないが、こういう人がもっと居てくれたら、世代交代も起きるだろうし、競争も起こるはずなのに。

萩原さんは、実業家だ、血も涙もない、坑夫を人とも思わないところがあったのだろうが、鉄道業へ、海運業へ進出し、ホテルを経営し、テレビ局にも進出しており、実業家としては優れているように思う。中田さんが市長としてではなく、ベンチャー経営者として観光事業をしていたら成功したのだろうか。

夕張市の給与水準は非常に高かったというが、経営者であったら、損益計算をしていただろうに。やはり、労組出身であり、給与や福祉に手厚くしてしまったのだろうか。

★ところで、それにしても、北海道の歴史は凄い。鉄道を敷くにあたっても、石炭を採掘するにあたっても、囚人を使った。伊藤博文や黒田清隆がそう考えて実行したらしい。よく、そんなこと気が付くものだ。当時の囚人は、西南戦争などで負けた側のインテリもいたらしい。明治の頃、監獄の看守をしていた月形潔は、囚人にも信望があったらしい。

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夕張問題と地域を経営することとは

鷲田小弥太『夕張問題』を読んだ。

ネット検索で、萩原吉太郎(北炭の総帥・政商)と中田鉄治(労組出身:炭鉱から観光へを推進した夕張市長24年間在任)という二人の強烈な個性が現在の夕張を作ったことが書かれているとあったので、前記事のように、こうした人材が北海道に居たということに感動したので、二人の凄さをもっと記述してあるのかと思ったからだ。

しかし、少々散漫な出来なのと、二人のことをあっさりしか述べていないので、がっかりした。

もっとも、夕張問題をおさらいするには良い本だと思う。また、夕張メロンがどのように生まれたのかが良く分かった。鷲田さんは、夕張メロン農家のように、自己リスクで自分でやれることをやればよいとのメッセージを発しており、ここは賛成だ。

また、過疎化、高齢化を恐れずに、何もないが綺麗な景色があることをむしろ資源とした方が良い(夕張の場合、不の遺産を撤去するコストがかかる)というのも、LOHASなライフスタイルが求められるなか、うなずける話だ。しかも、彼はそれを実践しているらしいので説得力がある。これくらいのことを考えないと、2050年の日本を語れないのも確かだ。

◆「地域経営」

地域を企業のように経営することを考えるべきであると考えてきた。その場合、ややもすると地方自治体の長が経営者で地方自治体が本社機能を果たすように考えがちであり、そうではない地域経営をどう考えたらよいかと思っていた。

地域経営といった場合、江戸時代の藩を思い浮かべることが多く、殖産振興として、山形の紅花→織物とか、赤穂の塩田とか富山の薬売りなどをイメージしてしまう。

そうなると、藩主が経営者のように思えるが、実際には、藩は方向性を出し、ビジネスは商人や農家に任せ、藩はお墨付きを与えたり、税を徴収していたのだと思う(要チェック)。

鷲田さんが夕張は市自らが経営をしていたのがいけない、企業なら辞められるのにやめられなくなったといっているがまさにそうである。市が経営したのでは、社会主義になってしまう。経営能力がないし、職員が親方日の丸で効率を上げるインセンティブが働かないし、ましてや市場独占で競争が働かない(実際には、他地域と競争している。競争に負けても辞められない)。

自治体は、努力している企業をじゃましない、もし手助けする必要があれば枠組み整備などで支援する・・それによって税収を増やすというようなやり方をしなければならない。自治体は、地域を経営する視点を持たなければならないが、それは、国が行うのと同様、制度整備によって産業政策・方向性を誘導することを意味している。

地方自治体は、それまで国が決めたことを単に消化するだけの代理店のようなものであったが、それを改め、自分の持つ経営資源を認識し、付加価値を生み出すように考える、他地域よりも競争力を高める・・といった視点を持つことを地域を経営するように考えよということである。

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May 28, 2007

夕張について無知だったこと

せっかく北海道に居たのだから、夕張にも行っておけばよかった。

しかし、無知なことに、炭鉱が閉山されたというのは、ずっと昔、昭和30年代くらいのことと思っていたことだ(自分が産業担当になるよっぽど前、歴史だと思っていた)。ところが、夕張が最終的に閉山(三菱南大夕張炭鉱)となったのは、1990年のことであった!

夕張炭鉱の主要企業である北炭(北海道炭鉱汽船株式会社)は、石炭から石油へとエネルギー転換が進むなか、旧式の炭鉱を閉山し、1975年に新た夕張新炭鉱を始める。ある本では、エネルギー転換が進むなか、会社は、補助金などが得やすいように(枠を拡大するため)古い炭鉱を買いあさったという。1973年にオイルショックがあり、一時的に石炭需要が増えた。ところが、1981年、ここでガス爆発が起こり、93人の犠牲者が出、子会社である北海道夕張炭鉱が倒産する。その後、全ての炭鉱が閉山され、会社自体も1995年に会社更生法の適用を受ける。

会社は、2005年、更正会社から株式会社に復帰し、現在では、石炭や板ガラスの輸入販売を行っている。

私は、オイルショックの頃に、繊維担当であり、その後、オイルショックで世界的に力をつけることになった自動車担当をした。また1993年頃には、札幌支店の依頼で北海道調査を実施していた。2001年から北広島市にある大学で仕事をしていた。

つまり、自分が産業担当や北海道にかかわっていた時期と夕張の炭鉱が閉山に向かい、観光事業に邁進していた頃が重なるにも係わらず、ほとんど関心を払ってこなかったといううかつさであった。

札幌に出かけた折には、札幌グランドホテルで食事をしたり、ケーキを買って帰ったりしていたし、幾度も中ノ島公園近くのパークホテルも宴会ほかイベントで利用していたのに、これが北炭の関連会社とはまったく知らなかった。さらに、東京では、銀座の三井アーバンホテルも時折利用していたのに(三井観光開発が北炭の不動産部門とは知らなかった)。札幌テレビも作った会社であったとは。

つまり、北炭は、多くの北海道産業の基盤を作った企業だったのだ。

ここの経営者として有名な(これも知らなかったのだが)萩原吉太郎は、政界にも働きかけ政商と呼ばれていたそうだが、彼が亡くなったのは2001年8月というから、私が北海道で働きはじめた頃ということになる。

鷲田小弥太『夕張問題』によれば、炭鉱から観光へと観光事業を推進した中田前市長は、萩原氏のやり方をそのまま真似たようだとのことだ。

コトの良し悪し、その後の結果はさておき、地域活性化に対するプランを持ち、それを推進するために、中央の政財界を動かして制度をつくり、資金を地元に呼び寄せるだけの「政治力」を行使できる人材が北海道に居たんだ!ということも驚きであった。

というのは、私が係わった国家プロジェクトでは、地方が主導できる仕組みなのだが、その地方である道庁の窓口は、ただ中央官庁の官僚を接待し、こびへつらうだけで、自らのプランもなければ、地元をまとめあげる力もなかった。

また、地元産業界にお金を落とそうとプランを練った提唱者も、見栄えのよいプランを作ったものの、地元をまとめることができず、ましてや、中央官庁に根回しし、制度を自らに有利なように作り変えるほどの政商力をもってはいなかった。

結果、制度に振り回され、せっかく得た資金をプラスに使いこなせず、地元につけだけ残すことになった。

萩原さんは、千葉の人だが、中田さんは、夕張の人のようだ(親の代に本州から流れてきたにせよ)。今の北海道には、政治家にせよ、実業家にせよ、彼らのような人材が必要なのに。

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May 23, 2007

夕張に関連して

9月から地域政策論を講義するので、取り急ぎ、自治体について勉強しようと、『夕張 破綻と再生』をざっと読んだ。

この本では、マスコミなどで夕張たたきが行われているが、①産炭地の閉山後処理がまだ不十分なのに産炭法を失効させた国の責任、②リゾート法などで観光開発を煽っておいて、償還時期になって地方交付税を大幅に減らした国の責任、③道は監督して夕張市の財政状況等を知っていて放置していたはずなのにという道の責任についてもきちんと検証すべきであるとしている。

また、小泉内閣のもとで開催された地方分権21世紀ビジョン懇談会と「自治体再建法制」構想についての説明(①自由と責任、②小さな政府、③個性の競争がキーワード)がなされ、それへの批判・代案が書かれている。ビジョン懇が提案している「競争的分権」ではなく、「協調的分権」をめざすべきこととしている。そうでないと、自治体間格差が生まれ、ナショナル・スタンダードを満たせない自治体が増えてしまうとしている。

また、ビジョン懇は、夕張を根拠として新しい法制度を導入しようとしているが、夕張の問題は、制度の問題ではなく、不適切な財務処理と監査機能不全の問題であるとしている。

この本では、夕張市にも不透明な財務処理や情報公開してこなかったという問題があるが、そもそもこうした自体に追い込んだ国と道にも責任があり、それを明確にしないで、競争的分権を導入するために、自治体の甘えという見せしめ的に夕張を叩くのは、事態を見誤らせると主張している。そして、少なくとも、住民サービスの水準を維持するうえで、道がもっと担うべきであるとしている。

一つ疑問なのは、道も財政赤字がものすごいはずで、道自体、夕張を助ければ、他にもいくつも助けなければならなくなることを恐れているはずで、このところをどう考えるのだろうということ。

もう一つは、とりあえずの応急措置をし、計画にのっとって財政再建をするにしても、企業をはげたかが切り売りするように、自治体を切り売りすることはできないであろうから、どのようにその自治体の価値を高めることができるのであろうかということだ。

それとも、自治体を廃止にする、切り売りする、住んでいる人を移転させるということまでやれるものなのだろうか。本当は、それが一番良いはずなのだが。シンガポールやそのほか途上国だと、こうした白地図に線を引くようなことができるが、どうなのだろう。

高度成長期には、ムラがダムに沈んで、移転した部落は多い。

国策で炭鉱のために出来た村が、炭鉱が閉山になったら、ムリをしてその自治体を継続させるのではなく、その時に統廃合することも可能であったはずだ。住民には、移転費用を負担して、故郷を捨ててもらう。原野に戻すもよし、国策や道策で歴史博物館運営のみしてもよいはずだ。

交通の便が悪く、山間の土地であることを考えると、いったいどんな産業振興が可能なのだろうか(夕張メロンは成功)。

この本の主張についての検討や、この本が提示しているデータを検討するのは、今後の課題として、私が北海道について知らなさ過ぎたことを以下示す。

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May 22, 2007

小樽の職人大学2

小樽の職人大学については、前に記事を書いたことがある。ブログで紹介もした

法政大学大学院の岡本ゼミにオブザーバーで参加したおり、元小樽市役所に勤務していて、現在ゼミ生である木村氏からこれについての報告があった。木村氏は、小樽職人大学の仕掛け人で、これを修論にしようと思っているようだ。

木村さんが仕掛け人であることは知っていたが、良くここまでやれたと思うし、これが全国に広がって毎年実行されているのも凄いと思う。

たまたまCAN-FORUMのMLで花火屋の榊原氏より、愛知で今年開催される全国職人大会のお知らせが来ていた。

町おこしの実績としては面白いし、木村さんの思い入れも凄いのだが、ゼミでは、それを論文にするには、どうしたらよいかというようなことが議論されていた。これについては、私も、シンクタンク育ちなので、分からないところで、この事例を論文としてどう料理するのかを見てみたいと思う。

人づくりが大切というなら、どのような人が必要なのか、それにはどのような育て方が必要なのか。ネットワークが大切というなら、どのようなネットワークが必要で、それが他とはどう違うのかを明らかにする。ただ人間関係があるのか、酒を飲んで信頼関係を構築しているのか。信頼というが、どこまで信頼されているのか。お金を貸せるのか、一緒に債務保証をする関係か。

地域の課題は何か何が問題でどうしたいのか。これは、他地域に汎用的なのか。小樽の人口や経済が縮小している要因はなんなのか、小樽職人大学が経済活性化に役立ったのか・・などなどが議論されていた。

++++++++++++++

○小樽は、北海道のなかでは、めずらしく製造業が集積している地域である(室蘭もそうだが)。これは、鉄道が最初に敷かれた地域であるなど金属加工業があったことなどによる。また、もっともハイカラな町であったため、洋服とかアイスクリームなどが最初に入った地域でもある。しかしながら、今日において、それほど、全国的にみて、あるいは世界的にみて優れた技術であるというわけではない。

○職人大学を建物を建てるのではなく、各職人が見習いを受け入れるという形で技術伝承をしているのは面白いのだが、前にヒヤリングした限りでは、受け入れても、昔のように無給で丁稚奉公というわけにはいかないので、それでなくても経営が苦しいのに大変だ。技術を教えても、需要が拡大しているわけではないので、仕事を分け与えられない。そうかといって、全国で通用するような優れた技術というわけでもない。

○小中学生などに体験工房をさせている。街中で、時折お祭りをしている。これによって、職人達に誇りが生まれ、また町の人々がそういう仕事があることが分かるようになった。特に体験工房は、修学旅行などでも人気で小樽に観光客が集まっている。木村さんの話では、台湾、韓国などのアジアの観光客も増えているのだという。

○木村さんによれば、小樽を観光の町にすることについては、運河論争などもあり、そうした位置づけがなされないできた。しかし、小樽の産業のなかに観光をきちんと位置づける必要があり、観光基本計画も作成した。

○私の印象では、運河を残すことに賛成した人たちも、観光客が増えて、落ち着きの無い町になることを嫌っていたように思う。職人と山の手との温度差もあるようだった。職人大学をやっている旗屋の伊藤さんは、薬屋の秋野さん(山の手)がやっている「もったいない美術館」のことは知らなかった。観光客にとっては両方とも面白いはずなのに、町の中では両者は分断されているようだ。

○木村さんによれば、利尻屋みのや(蓑谷修社長)が土地を買ってガラスなどの工房にして、成功して山の方に住めるようにという名前(出世前広場)でやっているという。小樽は、もともと一攫千金を狙った人が成功した町なので、そういう軋轢は無いように言っていたが・・?富岡町(山の手)の人たちは、浅原さん(北一硝子)やオルゴール館などに観光客が押し寄せることに眉をひそめていた。

○なお、利尻屋みのやは、「7日食べたら鏡をごらん」のキャッチフレーズで昆布を売っているというユニークな店らしい。商品もユニークだ。北海道に居る間、知らなかった!

○誇りを持たせ、職人たちが意欲を取り戻したことは素晴らしい、体験工房も良いだろう、観光客がそれでなくても減少しているなかでは良い結果に結びついている。職人→体験工房という観光イベントの担い手ということなら分かる。

○出世前広場も新しい観光スポットになっている。職人→技術を活かした新産業開発ではなく、職人→観光開発と捉えるなら成功だろう。利尻屋さんも脱サラで成功した人らしい。昔の町並み再現で観光客が増えるのは、創造都市なのだろうか。

○しかしながら、行政マンで木村さんのような前向きでネットワーカーであるプロデュース機能を持つ人は町にとっては重要だろう。彼が居ると居ないとでは、小樽の目に見えないノウハウの蓄積が異なったはずだ。

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立花隆の21世紀社会デザイン研究

パラダイムのことを考えていたら、文春6月号に、立花隆が立教大学大学院で「21世紀社会デザイン研究科」の特任教授になったことが書かれていた。

「21世紀に入っているが、これからの21世紀社会がどのような社会として展開していくか、誰も明確なイメージを持っていない。・・20世紀社会と21世紀社会のつなぎ目部分には、大きな近く変動が存在している。だがそれがどのような地殻変動なのか、まだその全体像はつかめていない。しかし、すでにボンヤリとではあるが、その輪郭というか、方向性のようなものが見えてきている。その方向性を見定め、新しい社会の理念を構築し、そのモデルをデザインしていこうというのが、この研究科の基本コンセプトなのである。」とある。

家に帰ってURLを探すと、立教のこの研究科のホームページがあった。「非営利組織」「危機管理」「ネットワーク」の3つをキーワードとしており、興味深い。これから、私なりに考えていくにあたって、ここの先生名を検索すると、有益な考え方を得ることができそうだ。

立花氏自体は、「そもそも社会デザインとは何なのか」という原理論を教えるとのことで、「ことばの力」(構想力なのか、夢想ないし幻想の喚起力なのか)・・歴史から何を学ぶことができるのか、「社会革命の夢」と「破綻と再生」について考え直そうと思っているとのことで、なかでも、20世紀は「戦争と革命の世紀」だったが、21世紀はどうなのだろうかとある。

こちらも、興味深い。私なりにも考えてみようとおもう。

ゼミのホームページは、こちら

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May 12, 2007

パラダイム雑

1.多くの人が気がつかなかった多くの人が依拠しているパラダイムを気付かせる→そのままで良いのだという安心感、誇りを取り戻す。

・日本の品格、柔構造、路地裏、新職人

2.時代が変わったことによる新しいパラダイムを示す、説明する→危機感を煽る、おれが新しい時代の指南役であるとPRし売り込む。

・年功序列ではなく競争社会だ、グローバルだ、地球環境だ、地方分権だ、NPOだ

・新しいパラダイムで勝ち残る方向を提示する

・新しい時代に必要なデータ、根拠を示す

・何故、何時、パラダイムが変わったかの分析(どうしてバブルが起きたのか、どうしてこんなにも財政赤字になったのか・・そのこと自体ではなくその背景にあることを探る)

3.2のように言われているが、それでは日本は負ける。日本にとっての現環境下での取るべきパラダイムを検討する。

4.検討すべきパラダイム

(1)少子高齢化

○結婚感・事実が変化している(パラダイムの変化)のに法律が追いついていない

・女性の働く場所がない折に、離婚後300日以内の子供は前の夫の子供、夜這いで生まれた子供は、自分に似ていなくても、今の夫が自分の子供とする。

・女性が働く時代、次の結婚が自由な時代、結婚という形態から事実婚の時代における生まれた子供の保育の問題。

○人生が80年になったとき(パラダイムシフト)のライフスタイル・働き方の問題

○血縁の家族(お父さん・お母さんと子供)が現実に難しくなっているなかで、これを「正」とする価値観が親も子供も苦しめていないか

・家族が大切であるということを教える(親が子供を子供が親を愛し、尊敬する、それを通して愛を理解させる・・というのはよい)のは良いが、日本の歴史は、養子縁組の歴史でもある。これは家業を守る、家を守るという意味で、昔のパラダイムではある。

しかし、夫婦を核に、子供が居る世帯を標準世帯とすることがついこれまでのパラダイムなのかもしれない。夫婦は離婚するし、もしかすると事実婚かもしれない、次々とパートナーは変わって行くかもしれない(それを可能にする経済環境がある→社会意識も変わる、そのなかにはあてが外れて育てられなくなることもある)。

しかし、子供は産まれる。その子供に教えるのは、人を愛することである。実の父母に愛されたい、育ての父母に愛されたい・・ということは自然の摂理として。新しい家族の形態を認めないと、常識とのギャップで親も子供も負い目、誇りをなくす、生きている意味を見つけられなくなることはある。・・安倍さんは間違っているのではないか(自分に子供がいないので、必要以上に理念だけで言っているのではないか)。

○子供の地域社会、子供同志の世界の喪失をどうする

・学校を競争性にし、越境の子供を増やすことは、子供の地域社会とのつながりを無くす。エリートの子供、そういうのが良い子供が少人数なら良いが、皆がそうなるのは問題ではないか。あるいは大都市だけならよいが。

・一方で共同体がなくなり、子供の社会もなくなり、子供と大人社会の暗黙の契約・教育もなくなっている。そういうなかで、どうやって子供同士の社会をつくるのか。

・今の子供は、学校(それも競争性による学校)、塾、スポーツ教室、自宅の個室でゲームで育つ。人間関係が築けないのはもっとも。一人っ子で親の傘の下にいた私はそれでも公立小中学校に行ったものの、自分で遊びましょと人間関係を構築することができない(誘われたら遊ぶ・誰かがお膳立てをしてくれたら遊ぶ)。親分肌、子分、おちゃめなどなど人間を掌握する、どういう人にどう付き合う、どう謝る、どうものごとを纏め上げる、実行するなどをどこで学ぶのか・・MBAとして紙で学ぶ?

・今の子供は、詰め込み、ルールブックでならう?→自ら疑問を持ち、考え、調べ、判断し、それが正しかったか検証するというようなことを訓練できているのだろうか。

(2)安全保障

○冷戦が終了し、民族自決、宗教戦争下になっているなかで、世界の警察を自負するアメリカでは世界を守りきれないなかでの世界の安全保障の問題

○国と国(名乗りあう戦争)ではなくなっている環境下→国ではなくNGOか、戦争ではなく理念(ことばの力)や政治力か、文化力か

(3)グローバル競争時代

○年功序列、社内教育体制は古い→労働のJIT化、グローバル基準への対応

・資格提供会社にプラス(会計士、弁護士、税理士・・:個人が勉強する:イーラーニング、大学院大学)

・お墨付き会社にプラス(ISOなど)

・人材派遣会社にプラス

・コンサル会社にプラス

・はげたか、会社切り売り、買収(企業の外科手術)

・すり合わせものづくりにマイナス(企業のメンタル:社員のモチベーション、精神科療養・内科手術)

・人材の質的レベルにマイナス

・下請け、産地、地域産業にマイナス

・格差社会の固定化→治安の悪化

(4)地方分権

○地域産業振興

・工場誘致から創造都市(クリエーティブシティ、ファッションタウン)へ

・知的クラスター創成(世界と競争できる地域を作る:日本の場合、人材と情報の多い地域でなければ無理:田舎でできる世界水準のクラスター創成とは:落下傘か、文化か、自然・観光・健康リゾートか)

・田舎の産地を創造都市にするにはどうしたらよいか(暮らしを豊かに:アートシーンは良いとして、金を稼ぐ方法として優れたものづくり企業がクリエーティブ企業になるにはどうしたらよいのか、クリエーティブ企業に必要な要素、C企業に必要な産業集積とは→はじめて政策が可能に)

・そのための仕掛けは何か(←メカニズム分析)

○地域で何かをやるときの政治力とガバナンス

・どことどこに根回しするのか、どのセクターと組むのか

・プロデューサー人材か、昔からの人的友達、親戚縁か

・言葉が優れていれば人は賛同する←どうすれば、地域全体(65%か88%か)の変革につながるのか

・行政(規制)、資金、動く人、賛同する人、見守る人

・べき論で動く、情動で賛同する、大きなうねりになる

・エリート集団が付きぬけ、真似が始まり、競争が起きてレベルが上がる(といった順序か)

・プロジェクト遂行能力(ガバナンス)、プロジェクトマネジメントの考え方

5.新しいパラダイムにおけるリスクとは何か、それを回避するには、何をなすべきか

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May 10, 2007

国を守る3 徴兵制と日米同盟

国を守る・・愛する人や国土を守らなければならない場合、誰しも身体を張って戦うことには納得するだろう。

しかし、武士という職業軍人が出てきたように、それを家業とする、あるいはそれをプロとして仕事を請け負う人がいて、彼らに委託するということも歴史的には一般的なことである。

政治も国民主権で国民による政治もあるが、一握りの政治家という家業、あるいはプロが政治を行い、国民は、それに委託することも可能である。委託も現在のように国民が選んで委託する場合ではなく、税金を払うだけで生活の安全を守ってもらうというような委託もある。

国を守るために、職業軍人である自衛隊(自衛隊が軍隊かどうかは別として)に税金を払うこと、さらに言えば、米軍に便宜を払って守ってもらうことは、国として別におかしなことではない。

問題は、徴兵制度を敷くかどうかである。愛する人を守りたいとは思っても、自分が死ぬのは嫌なのは誰しも普通のことだ。平等に徴兵制度に順じなければならないとなると逃げれば卑怯者となる。

それでも、まだ守る人が本当に直接的に愛する人であるなら、臆病者でも身体を張るかもしれない。

しかし、愛する人ではなく、国を守るとなった場合、さらには、国の大儀のために他国を守るとなった場合(米国のように民主主義を守る、世界の警察である・・)、さらには、国の利益のために他国を侵略するとなった場合、身体を張ることに気持ちがついていかないのが庶民感情である。

国の形が整った1890年代以降、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦へと戦争が続く。当時は、世界の列強が帝国主義をむき出しにしてあちこちで戦い続けており、合従連衡しているなか、遅れて近代化に邁進している日本としてもこの土俵に乗らざるを得なかったのであろうが・・。

・・GNPに占める軍事費用の比率や徴兵によるものがどれくらいだったのかの推移なども含め、きちんと抑えないと分からないが。日本は、これらの戦争に参戦しないで近代化を乗り切れたのか、悪いといわれる第二次世界大戦を辞めることが出来たのかどうか。軍部だけの問題なのか、政治の問題なのかをもっとチェックしなければならない。

普通選挙獲得運動、官憲の弾圧、満州事変、国家総動員法成立・・そして敗戦。

日本の国民は、敗戦なのだけれども、焼け野原のなかで真っ青な青空を見て、戦争が終結したことを心から喜んだ。

戦前からの教育効果もあって、天皇に対する崇拝の心を持ち続けている人は多いものの、敗戦と同時に自害した人もいるだろうが、多くの国民は、もう戦争はこりごりだと命の尊さを実感し、お国のために(天皇のために)死ぬのは嫌だと思ったはずである。

この気持ちが非常に強かったため、新しい憲法第九条は、国民の多くに支持されたと思われる。憲法発布は1947年5月。

朝鮮戦争勃発により、アメリカは、日本に再軍備を求める「逆コース」がはじまった。

WIKIPEDIAによる逆コースの歴史の一部;

  • 1948年:ロイヤル・米陸軍長官、フォレスタル国防長官の“日独の再軍備の方針について研究”指示を受け、答申「日本の限定的再軍備」を提出)
  • 1949年~51年:A級戦犯の刑期短縮・釈放、公職追放者の追放解除
  • 1950年警察予備隊の創設(再軍備)、レッドパージの開始
  • 吉田茂は、1951年(署名)サンフランシスコ平和条約(第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国の諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結。この条約によって正式に、連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認した。)を締結・同時に(旧)日米安保条約を結ぶにあたって、再軍備は、国内世論からムリであるとして、苦肉の策で自衛隊(警察予備隊)を設けたという(先日のNHK「その時歴史は動いた」による)。

    以下は、WIKIPEDIAによる自衛隊の歴史;

    1950年朝鮮戦争勃発時、GHQの指令に基づくポツダム政令により警察予備隊総理府の機関として組織された。さらに1952年海上警備隊海上保安庁に組織され、同年8月1日に警察予備隊(10月15日保安隊に改組)と海上警備隊(8月1日に警備隊に改組)を管理運営する総理府外局として保安庁が設置された。そして1954年7月1日防衛庁設置法と「自衛隊の任務、自衛隊の部隊の組織及び編成、自衛隊の行動及び権限、隊員の身分取扱等を定める」(自衛隊法第1条)自衛隊法(昭和29年6月9日法律第165号)が施行され、これらをもとに自衛隊(防衛庁)が成立した。

    その後、岸信介は、憲法を改正して軍隊を持つ自立化を目指したが、国内世論に負けて、憲法改正ができず、次の手として日米安保条約を締結する。

    以下は、安倍晋三『美しい国へ』から;

    吉田茂が締結した(旧)日米安保条約は、アメリカが日本を守るとはっきりした防衛義務を定めた条項がなかった。事前協議の約束もなく、アメリカは自由に日本に基地をつくれることになっていた。日本に内乱が起きた時には、米軍が出動できることになっていた。アメリカ人が日本で犯罪を犯しても、日本には裁判権がなかった。条約の期限は無期限であった。

    サンフランシスコ講和条約では「自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する」と日本の努力目標が明記されているが、実際には、自衛隊は、外国からの侵略など有事の際に対処するのは米国で、自衛隊は、国内の治安維持に当るという役割しか与えられていなかった。

    ドイツは戦争に負けたが、1955年主権回復と同時に国防軍を創設し、NATOに加盟した。憲法を改正し、徴兵制の採用や非常事態に対処するための法整備を実施している。・・ドイツに徴兵制があるのは、職業軍人による暴走を防ぐため、軍隊を「制服を着た市民」からなるものにしておく。

    60年の安保改定は、片務的な条約を対等に近い条約にし(占領軍から同盟軍に)、独立国家の要件を満たす。日米関係を強化しながら、日本の自立を実現した。・・自国の安全のための最大限の自助努力+核抑止力や極東安全を考えるなら米国との同盟は不可欠である(米国の国際社会への影響力、経済力、最強の軍事力)。

    日本の自衛隊は専守防衛を基本としている(交戦権がない)。日本が攻められても、攻撃にはいけない。また、米軍基地が攻撃されても、集団的自衛権は認められていないので自衛隊は米軍を守れない。一方、米軍は日本が攻撃されたら集団的自衛権で守ってくれる。・・米国の市民の賛成が得られればの話。

    ++++++++++++++

    勉強用メモ書きを兼ねているので論旨の見えない書き方になってしまった。

    1.第二次大戦後(敗戦後)日本の国民は戦争はもうこりごりであると心から思った。だから押し付けであれ、憲法第九条は多くの国民から心から支持された。

    2.冷戦構造下で、共産主義のとりでとして日本も軍備を持つようにと米国(戦勝国)の態度が180度変わった。

    しかし、国民は、軍隊を持つことへのアレルギーが強かった。

    米国との圧力と国民の思いとの折衷案で自衛隊が作られた。

    3.憲法九条を変更せず、解釈で自衛隊を作くるとともに、日米安保条約によりアメリカが日本を守る形になった。

    4.丸腰の日本に軍事力で攻めてくる国などあるだろうか・・という思いがあったものの、拉致問題のように、あるいは北朝鮮のミサイルのように、国家主権を侵される事件が起きている。

    5.日米同盟はあるものの、アメリカにとって極東のなかで、日本が攻められても、防衛する気持ちがどこまであるものかは分からない。

    今、アメリカが日米同盟をやっているのは、日本を守るためではなく、世界の警察と自負しているアメリカにとって、日本が地勢上重要なだけ。

    日米同盟が重要で(守ってもらう)、同じ自由と民主主義を重んじる国々の仲間のなかで、応分の役割を担わないと一人前と見なされない、信頼関係を築けない・・だから同じように身体を張るために軍隊を持つ必要がある・・という意見がある。

    独立国家であり、平和(自由と民主主義)を自ら守るのは、当然であるという論調。

    6.非武装中立を維持するなら、それに変わりうるくらいの諜報網と政治力(知恵:権謀術数)が必要である。

    7.冷戦下では、アメリカの傘は重要であった。また、世界の警察としてアメリカの役割は大きかった。

    しかしながら、冷戦が終了し、世界が多極化し、国と国の戦争ではなく、宗教戦争、民族戦争など、誰が正しいのか分からないような報復の連鎖のような時代に、アメリカのような単純の理想主義的(ある意味子供のように純粋)な国家が警察の役割を担いきれるのだろうか。

    ドンキホーテの国と同盟関係を結んでいると、いつ何時、とばっちりを受けないとも限らない。

    イラク戦争の折、アメリカが参戦したから日本も同盟国として参戦するのであれば、アメリカが宣戦布告することを議論する場に参加できる必要がある。アメリカ一国が思い込み(あるいは誰かの思惑)で戦争を始め、単に同盟国だから貢献しなければ村八分ということで闇雲に協力するのあ馬鹿としかいいようがない。

    イラク侵攻を認めるのであれば、それ相応の独自情報網を持ち、判断できるだけの日本の情報力(インテリジェンス)が不可欠である。

    独自の判断でアメリカに意見する、あるいは、協力する場合でも条件を付けるなどの主体性が必要である。

    8.憲法第九条を改正し、軍隊を持ち、交戦権を持ち、国を守るうえでの不備を整備することも重要だが、その前に独自の情報力(諸外国に信頼できる友人を持つ政治家、諜報部員を重層的に持つこと)が不可欠である。また、政治力・交渉力も必要だ。

    9.徴兵制は、ドイツのような意味合いもあるだろうが、イギリスの軍隊のアウトソーシング企業のように、傭兵をやとうのも一つである。

    10.北朝鮮のようなテロ国家から国を守ることはもちろん重要だし、今後、中国やアメリカが敵にならないとも限らない。国内でオウムのようなテロ組織が生まれることもある。つまり、限りなくリスクはあるのだが、一方で、戦争に訴えるのではない、平和をもたらす第二、第三の方法を創造することも重要である。

    政治力、文化力、経済力・・・歴史に学ぶ、新しい環境に対応したイノベーションである。

    11.冷戦が終了した今日における国家リスクを整理しなおす必要があるのではないか。テロ(本当のテロと民族自立、宗教戦争もある:やっている人にとっての大儀)、地球環境、資源もそうだが、国と国の戦いではない、別の機軸で世界を整理しなおす必要がある。・・その場合、武器(解決の方策・ツール)は何か。つまり、安泰な日本を守るにあたって、脅威とは何かを整理する。

    気がつかないので脇の甘いところを思いもかけず突かれるということはある。・・歴史に学ぶなのかも。大局観。

    12.戦国時代に、秀吉が諜報を強化したこと、仲間の外だけでなく、仲間内についても諜報を強化した。それと抜け道づくりなど、山民を使った。現在は、国と国との名を名乗りあう戦いではない。したがって、諜報が大事。敵は身内にあるかもしれないということ。

    つまり、冷戦後と前でパラダイムが変化した。変化したパラダイムに対応できる国を守るツール、理論が出来ていない。

    13.日本は、ずっと憲法九条にこだわってきたが、非武装中立を求めた米国が冷戦下、朝鮮戦争によって日本に軍備を迫ったように、軍備を整備しようと思い始めた日本だが、環境が変化し、もう違うことをしなければならないのかもしれない。米国も気付いていないので、日本に求めていないもの。

    14.金融戦争を仕掛けられて、日本は敗戦した。ゴアの地球環境問題の提示は、もしかすると次の仕掛けかもしれない。載せられるとまた敗戦する可能性がある。冷静に見極めて次の手をこちらから仕掛けるか、地球環境問題に載せられた振りをして、損をしないことを考える。たとえば、地球環境問題だと騒いで、エタノール燃料化して食物価格が高騰して、輸入国である日本が困るなど。騒ぐ必要はないとして、別のこと(水素エンジン)をやる必要があるなど。

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    国を守る2

    国を守るという話に戻すと、農民は、昔から水を巡って隣の村と戦うということもやっており、自分達の共同体を守るために武器を持つことが日常的であってようだ。そういう意味では、国を守るために戦うことは農民の掟にはあったと思われる。

    明治政府が学制をひいて、全国民に同じ価値観を植え付けようとしたわけだが、それにあたって、気になったのが「教育勅語」である。

    ネット検索するともともとの文章や口語訳が載っており、それが作られた経緯も乗っているので、そうしたことはそちらを参照してもらうことにして、今日始めてちゃんと読んだが、特に問題のあるような内容には思えない。以下の口語訳はこのURLによる。

    日本では、これまでも忠孝の道に国民が心を一つにし美しい国をつくってきたのでそれを私たちも守っていきましょう。父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従いましょう。天皇である自分もこうしたことに励むので国民もそうしましょう!というような呼びかけである。

    「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです)」というところも、素直に読めば、国が一大危機に直面したならば国を守れといっているのであって、ごく自然な話だ。

    確かに、現在読むと、天皇と臣民であるとか、天皇の祖先を敬うとか、皇国という言葉があるため、神道≒宗教を押し付けているとか、天皇崇拝であるとかが気になるし、その文脈のなかで国を守るといわれると、天皇のために戦うと読めてしまう。

    ネットで調べると、教育勅語が策定されたのは、自由民権運動が盛んになったことを地方長官たちが危惧し、天皇の命令に従う国民を作るために作られたとのことである。

    一方で、最初の原案は、天皇崇拝(神道)が強すぎるので、当時明治憲法を策定していた井上毅は、天皇ではなく、憲法の下に天皇も位置づけたいとして、教育勅語を作成しなおしたとのことである。「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として修正案が作られたとのことだ。

    憲法発布が89年(明治22年)、教育勅語が90年に下賜されている。90年(明治23年)には、第一回帝国議会が開催されている。

    明治憲法は、第一章天皇の第一条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるが、同じ章の第四条では「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあるので、天皇も憲法に依って国を統治しなければならないとされている。

    立憲君主制という形をとったので、国民は臣民であるし、国は皇国となってしまうので、外国人が日本に住もうとすると違和感を感じる内容になっている。宗教色は排されているとはいっても、「万世一系」などとかかれると宗教っぽく感じ、他の宗教を信じる人にとっては国民になりにくい。

    長い武家社会が続いたなかで、形式上、将軍にお済み付きを与える存在であった天皇が急に表舞台に登場した明治の最初頃、国民の多くは、天皇にどんな感情を持っていたのだろうか。

    もっとも、徳川将軍が統治機構のトップに居たので、それが天皇に代わっただけで、心理的にはあまり違和感はなかったのかもしれない。

    ・・ところでこうやって近世史をちょっとひもとくと、約20年の間に外国と交渉や戦争をしながら、国の制度を決めて実行してきており、大変な作業であったと思われる。年表を見るだけでいろいろと暗殺などもあるようだし、派閥争い、意見の違いなどありながらともかく前に前にと進んできたわけで、何はともあれ、良くやれたと思う。が、20年はかかっているのも時間のかかるものなんだなぁと思う。敗戦の敗戦とも言える今日(私にはそう思える)、明治維新をもう少し丹念に勉強しよう。

    ・・このあたりは、時代劇の世界と本当の歴史の世界とが重なっていて、ちゃんと勉強しないとまずそうだ。

    国を守るという本題に戻ると、教育勅語は、素直に読めば、自分たちの祖国を守ろうということであり、なんの問題もないが、次第にそれが神格化され、浸透し、国を挙げての戦争へと向かうのに使われることになる。

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    May 06, 2007

    国を守る

    まず、憲法記念日もあったので、憲法9条、国を守る、軍隊を持つということについて考えてみたい。

    江戸時代まで、一応武家社会であったのだから、武士は、いくら太平の世が続き、本当は、すっかり怠け者になっていたとしても、武士の魂のようなものはパラダイムとして持っていたはず。

    それは、お家のためには、体をはって戦うということ。定かではないが、このお家というのは、殿様のことと言うよりも、藩の武士・家族、及び城下を含めて、藩内の人々の生活を守るということがあったのだろうと思われる。何かことあるときには、体をはって戦うという役目を代々仕事にしているのが武士で、そのために、藩の民は税金を支払った。

    明治維新の時には、異国に対し、国を守るということが武士や若者の間にあったのだろうと思われる。

    明治(1868年)になって政府は、富国強兵を進めるために、1872年に陸軍省、海軍省、近衛兵が置かれ、学校制度が導入(太陽暦も)され、73年に徴兵制、地租改正(土地の3%→収穫高に関係なく政府に税金が入る)を実施した。日本男児は20歳になると徴兵検査を受ける義務があった。

    明治になってから、軍隊は、列強に伍して戦い、国を守ると同時に、列強に負けないよう、侵略戦争を実施していった。この時代、日本が侵略戦争をしないで、軍隊を持つが、じっとしていたら、どうだったのだろう。

    近世史はほとんど勉強していないのだが、列強が世界中でしのぎを削るとともに、日本は、幕末に締結したさまざまな不平等条約の改正をしなければならないなどあり、応分の軍事力を持ち、それなりの対応をしなければ独立・自立は難しかった面もあるのだろう。

    当時は、王政復古となり、新しい国づくりを進めていた時期でもあり、列強に負けずに自立・独立を守るために、血気盛んな若者はその心意気に同調したかもしれないし、女性たちも、異人にやられるよりはと富国強兵や徴兵制を受け入れていたのだろう。

    しかし、与謝野晶子(1878~1942)が弟を思って作った「君死にたもうことなかれ」は、明治37年(1904)、『明星』9月号に発表された。副題に「旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて」とあり、日露戦争のまっただなかであった。

    これに庶民は同調したとあるから、やはり庶民感情としては、お国のために自分のわが子が死んで行くのは嫌だったのだろう。

    国体を維持するためのやむをえないという戦争のレベルと日清戦争に勝ち、自信を付けた明治政府が一歩前に出て侵略戦争を進めることに対しては、国民の多くは眉をひそめていたのだろう。

    「お国のため」というのが真に国民(国体)のためであるのか、国と国との面子争いであるのか、あるいは、派閥の面子や軍人の面子であるのかという問題がある。

    晶子の歌は、親は「人を殺せとか、人を殺して死ねとかを教えていない」母や新妻が悲しむといった庶民の心を歌っているだけでなく、(弟は堺の商家を継いでおり)「商家の掟には、旅順を滅ぼすことも滅ぼさないこともない」と商家の掟を取り出している。また、「天皇は、自ら表に出て戦っていない、天皇の心が深ければ獣のように人の血を流したり死ぬのが誉であると言うわけがない」とも言っている。

    1.「お国のため」というが本当に庶民や当時の国の主権である天皇のためなのか。そうではなく、たかが新しくできた政府の思惑(そのなかの力関係での)でしかないのではないかと問うている。国民の多くは、もちろん身内が危ない戦いに出向いて悲しいということもあるが、そうした命令をしている人たちへの疑心があったのではないか。

    2.明治37年は、明治になってから30年以上たち、義務教育のなかで国を守ることなどを教え込むことが行われ、徴兵制度が出来てからも30年経つのだが、また当時は、武士の掟とは異なる商家の掟というのを意識していたということである。

    この歌は、単に庶民の悲哀を歌った歌かと思っていたのだが、ネット検索してみると「商家の掟のことが書かれており」そう思ってよく見ると、二番やその他にちりばめられた「家を守る」「暖簾」という言葉から、商家の掟を強く言っていることを意識できた。

    この頃には、ようやく国の形が出来てきたのだけれど、形が出来てきたが故に、形が心を失いはじめた時期なのかもしれない。

    ともかく、明治政府のパラダイムが庶民のパラダイム、商家のパラダイムと異なっていることを示している。江戸時代には、武士のパラダイムと商家のパラダイムが共存していた。

    明治政府は、列強ひしめくなかで、開国し、新しい国づくりをするにあたって、学制をひいて義務教育をほどこし、近代国家にふさわしい国民を育てるべく一つのパラダイムを国民に植え付けようとしたわけだが、まだこの頃には、それぞれの家庭には別のパラダイムがあって、与謝野晶子が処罰されなかったのは、それが認められていたからではないかと思われる。

    当時はまだ、国民は、出来立てほやほやの政府を客観的に見ながら批判する目を持っていたようだ。

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    パラダイム

    もうこのブログは、テーマがめちゃめちゃだ。誰も読まないことを前提にメモ帳にしよう!

    「クリティカルシンキング」の原稿を拝見する機会があり、そこで触れられている「パラダイム」という言葉にひっかかった。

    私がおそらく、ずっと感じていることは、この「パラダイム」の変化である。

    以下でいうもともとの「パラダイム」がそもそもどういう経緯で出てきたかは、別途抑えるとして、年功序列、終身雇用、会社共同体などの戦後の枠組みがバブル前後からデメリットを感じられるようになり、その後外資の躍進などもあり、大きく変化して今に至っているのだが、会社共同体の枠組みとグローバル化の波による枠組みの変化をきちんと整理できていない。

    ある分け(理由、当時の最適解)があってそれがよしとされてきたパラダイムがあって、それが環境の変化に適合できなくなり、本来自律的に変更を余儀なくされていた。

    そこにグローバルな環境変化(冷戦終結、米国産業構造の変化、IT化など)が押し寄せ、自律的な変更をよく考える間もなく、世界基準という流れに押し流されて今日がある。

    たとえば、実績主義で会社共同体ではなく、人々は個々人となって流れるといった状況である。これは、現実としてあり、そうした価値観を良しとする勝ち組、あるいは政治家、評論家がいるとして、それが国民全体の生活をどう守り、将来を描くかといった価値観まで描ききれていない。

    「美しい国」をつくっていくための隅々までの価値観、行動規範・・それを守ることが自らの誇りとなり、国を栄えさせ、女子供(弱者)の生活を安定させるという哲学のようなものに至っていない。

    ハリケーンや津波のようなグローバル化の波は波として、それにわが国がどう対処し、どう暮らして行くべきかについての哲学的な議論がなされていない。

    私自身、これを整理しきれていないので、事件や現象を「良いこと」「悪いこと」と判断できなくなっている。したがって、評論ができないで気持ちが悪いのである。

    そこで、ひとつづつ、自分なりに確かめてみたい(不十分でも恐れずに、変更は自由)。

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