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May 28, 2007

夕張について無知だったこと

せっかく北海道に居たのだから、夕張にも行っておけばよかった。

しかし、無知なことに、炭鉱が閉山されたというのは、ずっと昔、昭和30年代くらいのことと思っていたことだ(自分が産業担当になるよっぽど前、歴史だと思っていた)。ところが、夕張が最終的に閉山(三菱南大夕張炭鉱)となったのは、1990年のことであった!

夕張炭鉱の主要企業である北炭(北海道炭鉱汽船株式会社)は、石炭から石油へとエネルギー転換が進むなか、旧式の炭鉱を閉山し、1975年に新た夕張新炭鉱を始める。ある本では、エネルギー転換が進むなか、会社は、補助金などが得やすいように(枠を拡大するため)古い炭鉱を買いあさったという。1973年にオイルショックがあり、一時的に石炭需要が増えた。ところが、1981年、ここでガス爆発が起こり、93人の犠牲者が出、子会社である北海道夕張炭鉱が倒産する。その後、全ての炭鉱が閉山され、会社自体も1995年に会社更生法の適用を受ける。

会社は、2005年、更正会社から株式会社に復帰し、現在では、石炭や板ガラスの輸入販売を行っている。

私は、オイルショックの頃に、繊維担当であり、その後、オイルショックで世界的に力をつけることになった自動車担当をした。また1993年頃には、札幌支店の依頼で北海道調査を実施していた。2001年から北広島市にある大学で仕事をしていた。

つまり、自分が産業担当や北海道にかかわっていた時期と夕張の炭鉱が閉山に向かい、観光事業に邁進していた頃が重なるにも係わらず、ほとんど関心を払ってこなかったといううかつさであった。

札幌に出かけた折には、札幌グランドホテルで食事をしたり、ケーキを買って帰ったりしていたし、幾度も中ノ島公園近くのパークホテルも宴会ほかイベントで利用していたのに、これが北炭の関連会社とはまったく知らなかった。さらに、東京では、銀座の三井アーバンホテルも時折利用していたのに(三井観光開発が北炭の不動産部門とは知らなかった)。札幌テレビも作った会社であったとは。

つまり、北炭は、多くの北海道産業の基盤を作った企業だったのだ。

ここの経営者として有名な(これも知らなかったのだが)萩原吉太郎は、政界にも働きかけ政商と呼ばれていたそうだが、彼が亡くなったのは2001年8月というから、私が北海道で働きはじめた頃ということになる。

鷲田小弥太『夕張問題』によれば、炭鉱から観光へと観光事業を推進した中田前市長は、萩原氏のやり方をそのまま真似たようだとのことだ。

コトの良し悪し、その後の結果はさておき、地域活性化に対するプランを持ち、それを推進するために、中央の政財界を動かして制度をつくり、資金を地元に呼び寄せるだけの「政治力」を行使できる人材が北海道に居たんだ!ということも驚きであった。

というのは、私が係わった国家プロジェクトでは、地方が主導できる仕組みなのだが、その地方である道庁の窓口は、ただ中央官庁の官僚を接待し、こびへつらうだけで、自らのプランもなければ、地元をまとめあげる力もなかった。

また、地元産業界にお金を落とそうとプランを練った提唱者も、見栄えのよいプランを作ったものの、地元をまとめることができず、ましてや、中央官庁に根回しし、制度を自らに有利なように作り変えるほどの政商力をもってはいなかった。

結果、制度に振り回され、せっかく得た資金をプラスに使いこなせず、地元につけだけ残すことになった。

萩原さんは、千葉の人だが、中田さんは、夕張の人のようだ(親の代に本州から流れてきたにせよ)。今の北海道には、政治家にせよ、実業家にせよ、彼らのような人材が必要なのに。

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