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June 27, 2007

主権在民とムラ

江戸時代においては、将軍を承認する天皇が居て、将軍が居て、それぞれ藩主がいた。藩主は、幕府によって、取り潰しも、配置換えも行われ、藩主はいわば、中央から派遣された知事みたいなものであったが、基本的には、その地域の殖産振興や土地改良なども行った。

藩主は、ルールなどは作ったし、藩内の動向に目を配ったが、それぞれのムラムラ(商業も含む)に任せ、ムラの名主などが全体を管理していた。ムラの掟や取り決めは、皆で話し合うなどして、自治的に進めていたはず。

明治になって、君主制となり、中央集権的になり、廃藩置県が行われ、より政府が全体のルールを決めるようになるが、おそらく、ムラムラのことは、ムラで決めていたのではないか。当時の産業構造は、第一次産業の比率が高いだろうし、製造業も地場産業であったろうから、地域に根ざしており、家も大家族でこれが経済単位であったから、地域にも家にも、人々は属しており、それぞれの規範は、それぞれの単位(ムラとイエ)ごとにあったろうと思われる。

村八分に代表されるように、生活共同体であるムラから脱することは、生活できなかった。嫌でも、生きるために、人々はムラに、イエに縛られてきた。

ところが、戦後、日本国憲法が作られ、主権在民となり、三権分立(立法、司法、行政)という形はできたが、与えられてしまった権利であり、実のところ、国民は、主権があると身体でわかっていないのではないだろうか。

確かに選挙はあるが、自民党長期政権が続いており、そこから総裁が出るので、立法と行政が一体化しているように見えるし、国会では、強行採決(数の論理)で進み、議論はしているのだろうが、それが最高決定機関のように見えない。また、多くの法律案は、官僚が作成している。

経済分野であれば、経済産業省が監督している業界団体の振興に役立つように立案し、大臣が誰であろうがだいたいそれが通り、それが国会で通る。政界・財界・官界がだいたいのことを決めて行く。ここに政治資金の問題もあれば、天下り問題もあれば・・という具合だ。

長い間こうだったから、国民の多くは、そんなもんだろうと思っており、何か意見を通したければ、官に取り入るという方法を採ってきた。あるいは、地元議員に陳情してきた。議員は、選挙で勝つために、地元に資金が流れるよう誘導してきた。

一方、ついこの間までは、労働組合が強かったから、弱者である労働者の声は、労働組合を通して野党へ、労働組合と最終的に妥協する財界・官庁との間で根回しが行われてきた。

要は、国民が代議士や政府に委託しているはずなのだけれど、その間には、脈のようなものがあって(人脈、地縁など)、そういうなかで物事が決まって来るのが政治というものだと思っていた。

だから、それに組していない人々、普通の一人ひとりは、どのように政治に参加したらよいのか本当のところわかっていない。労働組合に入るか、産業人として政治献金するか、自治体を動かして代議士に働きかけるか。

ところが、戦後の産業構造の変化は、こうした組する人々を減らしてきた。

かつては、第一次産業や商業、二次産業も地場産業であれば、地域に根ざしていたのだが、二次産業、三次産業も大企業の時代となり、地域から離れてサラリーマンとなった。高度経済成長期には、田舎から都会に仕事を求めて人々が移動し、大企業のサラリーマンとなった。さらに、コンビニができ、惣菜ができ、サービス化でイエや家庭が必要なくなった。

人々は、より良い生活を求め、田舎の掟やしがらみを嫌って、都会に流れてきた。高度経済成長期には、都会には、仕事がたくさんあった。それでも、最初の頃は、製造業であり、組合が力を持っていたし、企業は共同体であったから、生活をよりよくするための仕組みは、労働組合を通して、あるいは会社を通して実現され、そこでは利害が一致していた。

ところが、だんだんサービス経済化し、製造業の仕事の中もホワイトカラー化し、組合が一致団結というようにならなくなってきた。

商業や農業を親から学ぶのではなく、大学で学んで、より良い仕事を求めるようになった。手を汚さずに、高い給与がもらえる、嫁姑の闘いもない。

フラグメンテーション化した人々は、政治においても、自分を代弁する人が誰なのかが分からない。結局、ムードや有名人に流れる衆愚政治化している。橋本治が言うように、地方が中央を養うのではなく、中央が地方を養うようになったので、政治は、地方を切り捨てにかかっており、このフラグメンテーション化した人々(無党派層)を対象に政治を行うことになる。

戦後、医療も介護も年金も、もともとは、ムラなどの共同体やイエがやっていたことを国が引き受け、フラグメンテーション化した人々を守る?という形となった。教育も、ムラやイエから離れて、国が引き受けるようになった。リスクや面倒なことは、全て国に委託した。

それでも、高度経済成長期には、企業というムラが教育を実施し、福祉なども面倒をみていた(年金、第二の就職先斡旋など)し、イエにも、教育の要素があった。が、グローバル化のなかで企業はそうしたことが重荷となり、株主にも非難され、教育や福祉を外部化していった。親は企業に吸い取られ、家庭での教育も消えた。親も倫理観、他人への配慮などのない、ジコチュー化。

個人的にも、労働組合はダサイなどと思って、イエから逃げ出したように、組合からも逃げてきた。会社の忘年会、旅行なども嫌がってきた。そして、バラバラに浮揚している。

フラグメンテーション化した人々を衆愚政治ではなく、主権を持つ人々として、政治に参加させる仕組み。あるいは、こうした人々が教育、医療、福祉を自分達のこととしてどう組み立て、政策に反映させていくのか。本来の民主主義をどう組み立て、自分達のものにしていくのか。

「清き一票」をどう投じてよいのか分からない。

今の一票の投じ方は、世論調査と同じ程度であって、自民党の政策に愛想をつかすと野党の票が少し増える、マスコミ的に人気だと票がぶれるといった程度である。自分達の生活や信条と一票がどう結びつくかが分かりにくい。

主権を持つ私たちは、もっと身近に政治に直接参加できる仕組みが必要であろう。

NPOが出来、寄付と減税など世の中を変えて行く仕組みに少しでも個人の意思を反映させる仕組みが多様にできれば、もう少し変わってくるだろう。

少なくとも、地方自治については、我々は、直接参加していくべきなのだろう。

もう、大きな政府に痒いところに手が届くことまで任せるのは、ムリだ。昔のムラとは異なるだろうし、会社や労働組合ではないにしても、フラグメンテーションでは社会を変えることはできないし、派遣ではないが、誰にも相談できず、本来得てしかるべき権利も得られない状況になっている。

新しい形の「ムラ:利益共同体:生活共同体」が必要だが、それをどう組み立てるかは、これからの課題だ。

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