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June 03, 2007

富山の売薬

江戸時代の藩の財政は、ほとんどのところが大赤字であったらしい。各藩は、年貢を上げたり、借知(藩士の給料である知行の借用)や商人からの借金に依存していた。

百万石として知られる加賀藩でもそうであったらしい。加賀藩では、幾度か財政改革を試みるが、真剣度が足りなかったらしい(下級武士に優れた人材が居ても、抜擢すると上級武士が意地悪をするなどにより)。

山本七平は『江戸時代の先覚者たち』で、加賀藩が本多利明が加賀に来たとき(1809年)にその意見どおりに藩政を改革していたら、幕末から明治にかっけて、薩長対幕府の間でキャスティングボードを握れたであろうに、日本一の大藩は、何もなしえなかったと述べている。

これに対し、隣接する福井藩や富山藩では、台所事情が苦しいのに変わりはないものの、殖産振興により、かなりの成果を挙げていたようだ。

富山藩では、売薬業の振興を図った。富山の売薬の起源は、山岳信仰など宗教的なものと言われるが(詳細についての記述があるURL「県民性・地域性-富山」を見つけた。小林龍一鹿児島国際大学教授のHP)、財政立て直しのために、藩が統制管理してから発展した。

1690年、二代目富山藩主の前田正甫が、江戸城中で腹痛に苦しむ大名(岩代三春藩主)に「反魂丹」を飲ませたところ、たちまち直ったので他藩への販売が認められたという逸話がある。富山売薬が他藩に行商を行ったのは、寛永年間(1624~1643年)に肥後の国への行商で、天保(1829~)の頃には、全国にいたるところに販路を拡大した。

正甫公は薬種商松井屋源右衛門に製造させ、八重崎屋源六に諸国を行商させた。源六は、身体強健、品行方正な者を選び、予め諸国の大小に応じて行商人を割り当てて、各地の大庄屋を巡って薬を配置させ、毎年周期的に巡回して末使用品の残品を引き取り新薬を置き換え、服用した薬に対してのみ謝礼金を受け収ることとしたとのことだ。

当時は、藩と藩の間は、現在の国と国のようなもので、他藩で販売することは、その藩にとって貿易の輸入にあたるため、特に、江戸後期に藩財政が逼迫する頃には、各藩は、保護貿易主義的な政策をとっていた。このため、他藩に行商に行くには、富山藩で他国売薬の許可を得ると共に、旅先の藩で販売許可を得る必要があった。

こうしたなか、売薬人は、さまざまな方策を考え出したが、もっとも有名なのが、薩摩領内における売薬行商であった。越中薩摩組の売薬人たちは、蝦夷松前の昆布を薩摩藩主に献上し、さらに琉球貿易や中国との出合貿易の交易品とする昆布を薩摩組が富山で雇い入れた船で大阪から蝦夷、薩摩に運行した。蝦夷からの昆布輸送に要する資金として薩摩藩主から総額500万両の助成(借入金)を受けていた。昆布6万斤を仕入れ、1万斤は薩摩藩主に献上し、残り5万斤は薩摩藩が買い上げた(幕末の嘉永3年:1850年)。(以上は、米原寛「先用後利の大事業」『県民カレッジテレビ放送講座-売薬:越中売薬のこころと知恵』による)

富山売薬は、藩による殖産振興であるが、藩は、具体的に何をしたのであろうか。

富山県の政策情報誌『でるくい』1号に、薬務食品課長の植村展生が「’くすりの富山’の振興について」というのを書かれており、文化13(1816)年に半官半民で設立された「反魂丹役所」について記述されている。

「反魂丹役所では、上納金の徴収、売薬株の譲渡売却の統制、諸通達の交付、売薬人の出願の取り次ぎ、売薬人相互の仕入れ金の貸し借り等を行い、信頼ある売薬業の組織を育てるために売薬業の統制と売薬人仲間の機能強化を果たしていきました。」

ネット検索(薬100話)では、反魂丹役所、反魂丹奉行が設けられ、一方、同業者間には「仲間組」が地方別に21級つくられ、さらに各仲間組は内部に「最寄(向寄)」をつくり、同業者の権利、義務、相互援助が強められた・・とある。

つまり、反魂丹役所は、薬業が栄えて上納金が増えるよう、信用のない売薬人が出ないように管理するとともに、売薬人同志の争いが起きないよう監督していたようだ。そして、仲間組が品質管理などを自主的に行う仕組みになっていたらしい。

当時は、鎖国時代であり、原料となる麝香や牛黄などの漢方薬は、中国から長崎に輸入され、さらに大阪の道修町に、そして富山に送られるというルートを経ている。これら材料の仕入れをするのは、商人だったのだろうか、それとも、役所だったのだろうか。別の資料(ネット検索)によると、役所が原料を吟味していたと書かれている。『富山県薬業史』には、もう少し詳しく書かれているようだ(第三章三節)。

先のURL「県民性・地域性-富山」に原料についての記述がある。

「この当時(奈良・平安時代),日本は中国東北部にあった渤海国と交易を行う間柄であり, 使者を乗せた船は筑紫(北九州)に着く取り決めであったものの,机上の取り決め通りに行かず,風と潮流に影響されて五割近く北陸地方に漂着してしまい,越中が第二寄港地として代替機能を果たすことになりました。
 この交易によって動物殺生を禁ずる僧侶が草根木皮ばかりを使う薬に対し,戒律に縛られない商人達は麝香・牛黄・熊胆などの角,内蔵を含めた動物生薬を伝え,他地域では敬遠されがちだった新たな薬種が越中(富山)に定着しました。」

さらに、室町時代には、「室町時代の富山城下では既に,唐からの輸入薬種を販売する「唐人(薬種商)」のかまえる店が何軒もあり,彼らは「唐人の座」と呼称される同業者組合も組織していたようで,その参入者の中には激化の一途を辿る戦に敗れた武士が世の無常を感じたのか,廃業した後は人を生かす道を模索する薬業に鞍替えしたという例も少なからずあったようです。」と書かれており、富山に江戸時代前に、輸入薬種商があったらしい。

江戸時代においては、売薬人がそれぞれ自宅で薬を製造・調合したため、薬草に対する目利きが重要であったとのことである。売薬人は、信用保持のため、原料生薬の入手とその吟味、薬剤の調合には特に意を用いた。生薬の真偽鑑定が重要であるため、本草学が生まれた。

県民カレッジ講座の資料(青柳正美著)では、10代藩主の利保がことのほか本草学の研究に熱心で、江戸藩邸に草花を植え、貝原益軒の『大和本草』を読み、小野闌山の『本草綱目啓蒙』を学んだとある。また、江戸で草木虫魚金石類の品評会「赭鞭会」を開催したり、売薬商に命じて、他国の物産を収集した。東田地方に薬草園をつくり、薬草の栽培、普及に努めた。退隠後『本草通串』『本草通串証図』を作成した。

これらの記述を読むと、原料の入手は、それぞれの売薬人に任せられていたのかもしれない。・・そうなると、売薬人ごとに原料も調合方法も異なるとすると、効能も異なっていたのかもしれない。競争という意味では、各人が工夫できて良いが、薬の抜き打ちチェックなどもなければ、品質のバラツキなどは免れないであろう。しかも、懸場帳を持ち、顧客先での競合はないであろうから、いかがわしいものを売る売薬人はいなかったのだろうか。先用後利なので、売薬人がいかがわしいものを販売したのでは、商売が続かないからそんなこをはしなかったのだろうか。

先のURLには、品質保持のために反魂丹役所が果たした役割と仲間での信用保持についての記述もある。

「元禄時代に始まった売薬さんによる全国展開も六十年を過ぎると高認知度を得られる反面,売薬さんの従事者数も千を超えます。そして粗製濫造されたものが仕入れられることによる儲け主義と品質低下の危険性を排除し,信用失墜させない為に薬そのものの高品質維持の観点から製法の統一化をすべく反魂丹役所を設け,厳格な商品審査基準を構築しました。
 また,売薬さんたちは「仲間組み」「向寄」という,旅先の地方毎,藩毎に交渉役割を決めた相互扶助組織を築き,対象となる相手藩領内役所で協議を重ね,円滑な商業活動ができるよう尽力しました。特に仲間組では,活動地における富山売薬の信頼を損ねるような本来目的から逸脱した各種の不正行為を生じさせないように,身内内での厳格な罰則規定である「示談」を定めることにより,仲間同士で違法行為の抑止,看過しないことを旨とし,徹底しました。」

いずれにしても、ポイントは、藩は、お墨付きを与える、品質基準を設ける、何かあったら処罰するということだけであり、相手先藩との交渉や仲間内での信用保持は、商人に任せていたということなのだろう。地方自治体による地域経営についての良いお手本である。

明治になって、反魂丹役所は、払い下げられ、複数の売薬人が出資し企業(広貫堂)となる。売薬人を育てるために寺子屋で人づくりがなされる。また、西洋の薬が普及するなかで、商人が願い出て、共立薬学校(富山医科薬科大学薬学部)が設立される。

売薬による税収は藩財政の15%に及んでいたという。加賀百万石、富山は10万石であったが、廃藩置県が行われた明治4年には、金沢10万人程度、富山の人口は5万人で第九位であったという。(ちなみに、現在は、金沢46万人、富山33万人)

富山藩は、売薬の売上高が幕末には20万両に達し、本家の金沢藩をしのぐほどになり、天領5万石の飛騨高山藩を任せて欲しいと幕府に願い出たのを金沢藩が知ることになり、以後警戒されたと書かれたURLを見つけた。その後戊辰戦争でも目立ったことをせず、本家金沢藩の統治下で維新を迎えたとある。

一方、別のURLでは、富山藩の財政悪化について(幕末まで)書かれており、この当り、吟味しなければならないだろう。

富山の売薬は、各地に演芸やさまざまな情報を提供したり、富山の進んだ農業技術(動物による鋤、品質のよい種籾:現在でも富山の種籾は日本の7割を占める??)を伝播させた。また、売薬業がその後、銀行や水力発電、印刷業などを発展させていった。この当りも興味深い。

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