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June 27, 2007

祭りの荒らし

今年は、祭りの荒らしがあちこちで起こっている。法政で田川さんの秋田の祭りの話を聞いたこともあり、気になる。

祭りは、もともとは、疫病退治や豊作祈願や豊作祝いやら何かしら意味があって始まっているが、農耕のリズムのなかで、歌垣などに代表される隣村などとの男女の出会いや、若者のエネルギー発散の場でもあった。

しかし、喧嘩や共同体崩壊につながらないよう、神様を祭ることにし、ムラごとに祭りのルールを決めていた。若者達が自分達で自治を学ぶことや、代々のルールを伝えていくという生活の知恵・知恵を学ぶ場所でもあった。

ところが、共同体が崩壊し、祭りを守り、維持している側も、祭りが目的となっており、みこしの担ぎ手がいなければ、他地域から応援を頼むようなところがあったり、観光と結びつけて見世物化してしまっている。

荒らしが起こるのは、余所者を入れてしまった主催者側にも問題がある。担ぎ手として、あるいは観光客として。本来は、それぞれの共同体を維持するためのムラの祭りであったはずなのに。

荒らしのような若者のエネルギーを発散させる場所を持たない社会が悪いとも言える。本当は、各コミュニティがそうした役割を持つべきだが、すでに、生活の必要性からの共同体は農村とその後の会社を含め、消えてしまっている。そうだとしたら、フラグメンタルな若者のエネルギーを吐き出す国家政策が必要だ。吉宗の花見のように無礼講の場所と時が必要だ。

祭りの主催者の方は、全国から来る荒らしに対しては、閉ざすことも一つの方策だ。祭りを観光にせずに、ひそやかにやる。

あるいは、近隣からの荒らしであるなら、こうした若者を祭りの本来のルールのなかに取り込んでしまう仕組みを考える必要がある。氏子にまでしないにしても、ある修行の過程を作って、ルールを学ばせる。

こうした若者は、枠に飢えているようなところがある。だから組に入ったりする。最近は、組に入るほど根性はないかもしれないが。だから上手に組み込めばよいやつになる可能性はある。若衆の自治組織に任せて、こうしたフラグメンタルな若者を更正させる仕組みを作り出すことはできないものか。

もっとも、最近の若者は、一人でゲームに興じる系であり、同じムラのなかでも、コミュニケーション能力がないのだから、なかなかそれも難しいかもしれないが。

一雅らの、江別の飲み仲間のような、彼ら同志のなかでの親分肌や交渉係りなどの分担が自然にでき、同志の言うことなら互いに聞く、別のグループの交渉なども彼らのなかでやれる・・というようなものを、ただの飲み仲間ではなく、祭りというようなことに結び付けられるとよいのだが。

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