細川・肥後藩
青陵のところで、細川藩の米の買い方や50万石なのに幕府に1万石に処遇してもらうようにしたなどあったので、ネットで細川・肥後藩についてちょっと調べた。
まず、細川家というのは、すごくしたたかなようだ。
細川藤孝(幽斎)は、足利将軍に親しかったが、足利が信長と仲たがいすると、信長につく。信長の死後は、秀吉、家康について乱世を乗り切る。その子供の忠興の妻は、明智光秀の娘お玉でガラシャ夫人だが、本能寺の変後、ガラシャ夫人を離縁して、自らは剃髪し、秀吉の許しを得た後、ふたたび夫人を迎える。後には、羽柴姓を許され、朝鮮出兵で軍功をあげる。
関が原の戦いでは、家康方について功をなす。その後も将軍家から名前の一字を貰うなどしてかわいがられている。
内心どう思っていたかは別として、非常に上手に乱世を渡ってきている。加藤清正が改易後の熊本に入るにあたっても、清正の位牌を先頭に入城したという。加藤家家臣や肥後国人を多数登用したらしい。
細川氏が小倉藩主のころからやっていた制度として特筆されるのが「手永制度」で、郡奉行の助役でその地を統括する総庄屋を「手永」に任命した。地方は手永の下に村が置かれて庄屋が統治した。
8代重賢(1720~1785)が就いた頃には、細川藩は窮乏しており、彼は倹約生活を勧めるとともに、1752年に「宝暦の改革」を実行した。殖産新興に励んだ。以下引用。
「緊縮財政をとるとともに、商品生産の向上を図って蝋の原料となる櫨の生産と販売統制、養蚕の奨励・援助など、楮、繭糸、櫨蝋を専売として収入増加を成功させた。藩校・時習館、医学校・再春館を創設して文教政策を推進、隠田の摘発、高率の一律課税(定免制)の制定、「刑法草書」を編纂して刑法を改正等、数々の新政策を打ち出して名君の誉れを得た。」
横井小楠は、この時習館で特待生として学んだ(寮生となり、藩から扶持米を得た)。後には、実学に基づく独自の塾を設ける。藩校派と対立して、藩内では活躍の場がなかったのを福井の松平春嶽が招聘した。
「国是三論」を著して殖産興業、利益の平等分配、海軍力の強化、文武両道に秀でた人材の登用を説き、藩の進むべき道を示した。
春嶽とともに公武合体派であったため、江戸で尊王攘夷派の刺客に狙われた折に逃げた(一緒にいた熊本藩武士が殺された)ので、武士にあるまじきとして士籍剥奪の処分を受けた。
逼塞中の小楠は私塾「四時軒」で子弟を育て、維新後、新政府に召し出されて参与になったものの1869年(明治2年)正月5日、キリスト教信者と誤解されて攘夷論者に暗殺された。
司馬遼太郎は、小楠について、弟子が先生は、昨年言っていたことと違うことを言うと言った折に、滞っているのは俺ではないといったという。時代がどんどん変わるなか、考え方を練り直していく姿勢は、昔の本を金科玉条としている姿勢に比べ、素晴らしい。
明治になって憲法草案や教育勅語の草案を作成した井上毅もこの藩校の出身。
細川藩は、江戸・大阪の商人から借金を重ねていたが、たびたび踏み倒したという(藩内で一揆があれば、改易・お家断絶があるが、踏み倒しても一揆の心配はない)。このため、商人からは、「貧乏細川」と嫌われたという。
踏み倒すと次に借りるとき困るのではないかと思うが・・?しかし、したたかである。
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Posted by: Tan Huong Tower | March 03, 2015 11:05 AM