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June 23, 2007

クリエイティブ・シティ

原田泉編著『クリエイティブ・シティ-新コンテンツ産業の創出』NTT出版を読む。

まえがきには、今後が知識社会になること、そこで一歩進んでいるのがシリコンバレーでここは「市場原理」が貫徹した「勝ち組」のメッカであること、しかし、知識社会への道程はいろいろなパターンがあるのではないかと考えられると書かれている。

1.米国流の市場原理主義ともいえる効率重視の競争社会のなかから産まれる道筋

2.欧州によるセーフティネット重視からの道筋

3.日本は?

知識社会への移行の中心的産業は、創造的産業(従来のコンテンツ産業・文化産業・著作権産業、産業面での技術革新も含んだ広い産業)が担い、そして創造的産業の発展は都市が担う。・・・と書かれている。

実は、長銀調査部が華やかであった頃には、すでに、上記のような問題意識で書かれた書物が存在していた。

日下公人『新・文化産業論』東洋経済新報社と星野克美『都市型先端産業』であり、どちらも昭和53年に刊行されている。本ができる少なくとも1年ほど前には、なんらかの雑誌記事や社内レポートが書かれているはずであり、1977年頃にこうしたことが論じられていたのである。

この時期は、1973年末のオイルショックで日本経済が不況であったなか、次の発展を文化という視点で捉え、日本の文化は優れており、これをいかすべきであるとして、あるべき政策を提示していたのだ(日下「文化倍増計画」)。

この頃にも、ダニエルベルの「知識社会」が来るであろうこと、それを支えるのは、先端産業であり、それには大きく二つあって「デザイン開発集約型」の消費財メーカー、「研究開発集約型」の機器・部品メーカーが着目されており、それが消費機能や情報機能など都市固有の機能に根ざしていること、そのための都市政策が必要であることを提案している(星野)。

星野さんに同行し、当時華々しかったパルコの増田さんの話を聞きに言って、都市型先端産業(ファッション産業と商業街開発)に興味を持った。日下さんも、星野さんも、社会開発担当であり、産業論というよりも、都市開発(都市論)という観点から産業を捉えていた。これに加えて、第三次産業の担当でもあったように記憶する。したがって、第二次産業の衰退を前に、第三次産業の振興を考え、それには、文化に着目すべきだとしたのである。

星野さんの本もまだ整理されていないで、都市型のなかに、消費財と研究開発型と両方の中堅企業が入っている。このなかに、最近話題になっているコンテンツ(メディア)産業は含まれていない。

当時は、一方で、清成・中村先生たちのベンチャー産業論議も華やかな頃で、ここでも、上記の2つのタイプの産業に注目し、日本では、まだベンチャーズインフラが整っていない頃であり、中堅企業という言葉でこの両分野で成長している企業を捉えていた。

その後、一橋の関満博さんが地場産業を都市型と地方型の二つに分け、後者は、繰り返し型で量産の産業、前者は、顧客と対話するなど一品生産を含む多品種少量産業というように説明した。

私は、これ以来、都市型先端産業についてまとめたいと思いながら(二本レポートをまとめたものの)、上手に整理することができずにいる。この頃から、都市型≒「情報」産業という認識なのだが。ここで「情報」というのは、ファッション産業に代表される、時代の風を織り込んでいるとか、着るだけでなく、表現しているというような意味である。

この一つが文化総覧と格付けであったり、シリコンアレーやアニメなどの都市型集積なのだが、まだ、それが体系付けられていないのだ。

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ここで、また横に逸れるのだが、日下さんの『新・文化産業論』をパラパラみると、文化を重視した国づくりをするにあたって「中央集権的」な現状からもっと分散すべきであり、百花斉放にすべきである、地方文化を勃興させるべきと提案している。

日下さんは、「役人は馬鹿だ馬鹿だ」とけなしながら、実は役人が好きみたいで、自分が役人ならもっと凄いことをしたのにと言い、役人の世話になって(外郭団体)これまで暮らしてきたようなところがあり、どこまで本当にそう思っているのかは分からない。

しかし、「文化」といった時に、都市(都会)なのか、田舎(地方)でも良いのかということは、創造都市が議論されるなかで、本当は重要なことのように思う。

星野さんは、この文脈で言えば、「都市」だと言っている。日下さんは、田舎でも文化を起こせといっている。

ランドリーは、『創造的都市』という本の題名だが、都市=創造的といっているわけではなく、都市を創造的に皆で作っていこう!と言っている。それでも、彼は、田舎といっているのではなく、都市といっており、首都ではないが、それなりの人口集積のあるエリアをイメージしているようだ。。(ランドリーの場合、良く分からないが、EUが出来、国ではなく、都市や地域が政策の焦点になったという背景があるのかもしれない。)

一方で、フロリダは、創造的な都市として、先進国の比較的大きな都市に、創造的クラスが多い(結果として)といっている。そして、創造的都市に特徴的に見られる特徴として、3つ挙げ、なかでも寛容性(トレランス)を挙げている。ゲイなど異端がそれなりに暮らせる町ということだ。そうなると、大都市というイメージになる

しかし、フロリダは、トヨタ生産方式のように、普通の人の創造性を活かすように人材育成や組織のあり方を変えて行くことが、創造的社会にとって必要であるとしている。たとえば、トヨタが現場主義であるというようなことは、日本では、むしろ田舎だからできると考えられている。

文化というのが人々の暮らし方というように広く捉えれば、田舎であろうが都会であろうが固有の文化はある。田舎にハレとケがあって、ハレが非日常、ケが日常とすると、都会というのは、ハレが日常という意味合いがある(もちろん都会にも、繰り返し生産のようなサラリーマンのラッシュアワーやそれを可能にする鉄道輸送の正確な時間管理などがあるが)。

ハレは、祭りであり、美しい表面だけでなく、荒々しさや危険や無礼講などもある。都市にも美しい機能性のほかに、怖さ・危険さもある。都会全体が舞台というようなイメージもある。

ハレの文化もあれば、ケの文化もある。イタリアでは、列車が遅れるのはあたりまえ、ゆっくり食事をするというのも文化といえば文化である。次々に情報を消費しまくるというのは、日本の(江戸の)文化である。

文化はどれもそれぞれのものであるのだが、そこに、何故、憧れが生じるのかということろが問題(ミソ)である。綺麗なものに憧れる、怖いもの見たさ、ゾンバルトの『恋愛と資本主義』。

綺麗なものというのは、時代や文化によって異なる。平安美人と現代の美人は異なるし、アフリカの美人と西洋的美人も異なる。しかし、昔から、都の雅、田舎の鄙びというのがあるように、日々の繰り返しや泥だらけの労働ではなく、遊んで暮らす、楽しく、着飾るなどに代表される暮らしに人々は本能的に憧れるものなのだろうか。

また、優れた芸術家の作品は、エネルギーが伝播すると言われる。エネルギーのある優れた芸術品は、遊んでいる(創作に没頭できる経済的環境の)なかで生まれるのだろうか。一般の人々の魂を揺さぶるような創作というのは、常識を覆すのであり、そうした時代の変わり目(見た目には成熟期・後から見ると変わり目・非常識を受け入れる背景)に生まれるものなのだろうか。

都の文化が雅で洗練されているように思えたのは、何故なのだろうか。都の公家たちは、暇なので、遊ぶこと(教養)が仕事であり、したがって、教養に磨きをかけることを競ったから、田舎からみれば、それが洗練されてみえたのだろうか。

一つは、外来文化(昔なら中国、今なら欧米)、もう一つは、宗教的な畏怖へのつながりだろうか。

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