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January 08, 2008

地域政策研究と実践への賞

法政大学地域研究センターでは、地域政策研究賞とイノベーティブ・ポリシー賞というのをやっていて、今回が07年度で5回目だとのこと。選考を手伝ったこともあり、どんな人が賞を得たのか、顔を見たいと思って表彰式を覘いてみた。

地域政策研究賞は、最優秀賞はなく、優秀賞が2件、奨励賞が2件であった。イノベーティブ・ポリシー賞が2件であった。

優秀賞の一つは、永松俊雄『チッソ支援の政策学』で、水俣病患者に補償金を支払うために、公害を出したチッソが潰れないよう、公的資金を投入し続けるという政策についての検討である。水俣病については、原因究明や病像論、患者認定問題、企業や行政の責任問題、地域共同体の崩壊や修復などについての研究はあるが、患者補償をどのように完遂するかという問題については、ほとんど研究されていない。本書は、この点について扱っている。

本書を読んで、あぁ、こういう問題があるのだということを改めて知った。

C型肝炎では、先日、国が責任を認めて、国が補償するというスキームが取られたが、チッソの場合には、チッソが支払う責任があるとし(原因者負担の原則:PPP)、経営危機に陥ったチッソを県債を発行して調達した資金を貸し付けるという措置が取られた。

原因者負担の原則は、OECDによって提唱された自由競争原理を前提とした環境汚染防止費用の内部化に関する経済原則である。一方、日本型のPPPは、予防的費用だけでなく、環境汚染が生じた場合の環境復元費用や被害者救済などの事後的費用も含んでいるとのことである。

(悪者である)会社を潰してしまいたいが、それでは患者への補償はどうするのか、また、地域の雇用をどうするのか・・といった問題から、会社を無理やり存続させながら補償と雇用を確保するという苦渋の方式である。→これは、倒産による安易な社会的責任の放棄を許さず、外部不経済の内部化の徹底やモラルハザードの観点からは評価されるとしている。

筆者によると、チッソへの県債による金融措置は、大きく3つの期間に分かれるというのも興味深い。第一期は、患者補償の完遂、第二期は、チッソの設備投資を目的に行われた経営基盤の強化、第三期は、公的債務の償還である。第三期には、金融機関に対する既往債権のうち利子分の債権放棄、残存債務の無利子化、国庫補助金などによる一時金貸付金の債権放棄、残りの公的債務についてある時払い方式で100年かけて償還していくことになったという。

国に責任があるのか、国に責任があるなら、国が補償のために個別企業に支援するのは一理あるが、国に責任がないなら、個別企業を国が保護することになってしまう。→これまで漠然と理解していたが、水俣病自体は、国の責任なのだろうか。無機水銀が有機水銀に変わり、人体に被害を及ぼすということが当時は分かっていなかったものの、排水をたれ流し、それが原因であると分かったのだから、チッソに責任があるのは確かだが。この事例の場合、直接の原因はチッソだが、その後の対応の遅れ(調査をしたり、すぐに対策を打つことをしなかったために病気が広がった)などが国の責任なのではないだろうか。

著者は、行政活動を「政策執行活動」と「政策形成活動」の二つに分け、これまでこの二つが混同されてきたが、チッソ支援を後者として捉えるべきとしている。→そして、水俣病の補償問題については、県債方式による迂回融資や既存制度の無理な解釈や度重なる解釈の変更が行われてきたのだが(抜本的な対応をせずに、問題が深まるのにつれて、現行法を無理やり解釈するなどして対応してきた)、これは適当とは言えず、特別立法による限定的措置として処理することが適当であったと指摘している。

そして、チッソの事例は、課題解決のための政策が形成・決定されないという、政策非形成が長期に継続したケースであり、社会課題の早期解決を図るための新たな社会システムの設計・提案が重要であるとしている。

ところで、チッソは、生きており、今日の私達の生活に欠かせない液晶で世界トップレベルの生産をしているとのことだ。

この本では、もう一つの論点として、国と地方自治体は一体(国が政策を決めて地方自治体はそれを遂行するだけ)と捉えがちだが、本書は、国と熊本県の相克(抜本的金融支援措置策定に至る政策形成過程)について扱っている。

筆者の要約によると、熊本県は、償還財源の確保と責任主体の明確化を最重要課題としており、国に対し、チッソに不測の事態が生じた場合の県債の償還については「国が万全」の措置を取ること、チッソに対する金融支援措置は「国の施策」として行うものであることを閣議了解に明記させ、これが抜本的支援策策定の第一歩となったとしている。

ここの本文をきちんと読んでいないので良く分からないのだが、県は、国の責任であり、国が最終的に責任を取るように言質を取ったということらしい。国と県双方の相克について書かれているという。

私は、北海道で仕事をして、国と地方自治体との思惑の違いなどを目の当たりにし、単純に地方分権というがもっと両者の関係を精査する必要があると思いつつそのままになっていたため、筆者が両者の相克に着目していることにまずは嬉しく思った。

もっとも、私が感じている論点と筆者の論点とは異なっているようだ(もっときちんと整理する)。この事例では、熊本県は、こうしたいという具体的課題があり、それを国に認めさていったという成功例なのだと思う。一方、北海道庁で私が感じたことは、具体的なビジョンを持たず、政策を具体的に実行する力もなく、単に道庁内での出世や保身として補助金を得ようとしているだけで、国が地方分権といっても、果たして道庁にやりきれるのかと思ったのである。熊本県は、単に責任や負担逃れをしようと保身だったのだろうか(本文を検討していないので不明なのだが)。

いずれにしても、市民からみると、行政として一体と考えがちだが、国は国の、地方自治体は自治体の損得で動く別の組織であり、そうしたメカニズムを理解しておかないと、政治が見えないと思っており、両者の相克を扱ったという意味で嬉しかったのだ。

筆者は、この事例の抜本的解決が遅れているのは、①政策形成過程が閉鎖的空間に置かれていたこと、②政治アクターの不在をあげている。特に、後者では、政治家の領域にまで行政が活動範囲を拡大しており、行政がもっと完全に行動してくれると期待しがちだが、それはかなわないことであるとしている。昨今では、官僚主導でなく、政治家主導へという動きはあるものの、日銀人事を見ても、この辺りのガバナンスの問題が残る。

国と県だけでなく、官僚と政治家も含め、連立方程式でどのような政治システムが望ましいかを検討する必要があるだろう。

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January 07, 2008

シリコンバレー(梅田さんの本から)

梅田望夫さんの『シリコンバレーは私をどう変えたか』を読む。以前購入しておいたのだが、読んでいなかった。

私は、98年末に受託調査でアメリカに行き、インターネットを使うことで世の中が変わりつつあることを肌で感じ、早速レポート「シリコンアレー」や「日本のシリコンアレーはどこだ」、『マルチメディア都市の戦略』をまとめ、この流れに後発ながら乗っかったのであった。

梅田さんは、94年4月にシリコンバレーに来て、インターネット革命を目の当たりにしながら自らもその当事者となっていった。彼がシリコンバレーに行った頃には、シリコンバレー自体は、半導体などのベンチャーの生まれる土地であったが、まだインターネットの利用は始まったばかりだったはずで(ネットスケープやアマゾンが94年に会社設立)、著しい変化の最初の頃(96年くらい)からの手紙にスケッチされた内容からこの本は始まっている。

急激な変化を最初は観察者として見つめながら、もともとコンサルの能力がある人であったのだろうが、次第に当事者になり、そのなかで彼が成長していった様子がよく分かる。世代も違うし、彼はコンピュータソフトなどの素養があるし、現場に居たということも違うが、同じ頃に同じ変化を見つめながら、彼が大きく成長し、専門家になっているのに、私はついに観察者で終わってしまったという格差を感じて忸怩たるところがある。

それはさておき、観察者から当事者になっていく間のことを彼の目線でまとめられているので、シリコンバレーの仕組みのようなものが臨場感を持って理解しやすい。

シリコンバレーでは、過去に幾度もベンチャーブームの波があり、それを契機にさまざまなベンチャーズインフラが整っており、人々のものの考え方やスピード感がおそらく日本とだけでなく、アメリカの東部などとも異なっており、世界に一つだけの花ではないが世界に一つだけの場所なのだろうと思う。いろいろなきっかけを通して、シリコンバレーには、シリコンバレーらしい仕組みが軌道修正されながら出来てきたのだろう。

これでは、シリコンバレーにある機能をいくら日本に移植しても、機能しないに違いない。

だから、シリコンバレーを日本に作るとか、シリコンバレーをお手本にするのはおそらくおかしいこと(間違った手法)に違いない(参考にするとしても)。日本にベンチャーの風土・環境を作るのならば、別のソフト・仕組みを考えるべきなのだろう。日本の風土で機能しやすいベンチャー環境はどのようなものかを研究し、それを補強する、あるいは、以前あったなら、それを取り戻すことが必要なのではないかと思えた。

A制度      B制度      B’制度
A風土      B風土      B’風土   

本は、バーッと読んでしまったので(線など引かずに)、忘れているところもあると思うが、気になったところをメモっておくことにする。

1.ある種インサイダーのようなクラブ世界があるということ。

梅田さんは、シリコンバレーはプロスポーツと同じで、メジャーリーグをトップとしたピラミッド型になっていて、玉石混合のなかからメジャー入りする選手がいるといっており、しかし、プロスポーツほど、目に見える形で人物を評価する仕組みがないので、夢を追って玉石混合の人々が集まってくると書いている。評価する仕組みはないが、ビジネスアイデアを発表する場所があるとしている。(また、学生時代に勉強は苦手でやりませんでしたという人はいなくて、皆優秀であり、努力を惜しまない。)

しかし、P196では、こうも書いている「シリコンバレーは自由でオープンの世界に見えるが、内実は、能力・見識・実績に応じた目に見えない秩序が存在し、厳然とした階級社会が形作られている。その階級の頂点に、IT産業の歴史に燦然と輝く功績を残した重鎮たちのネットワークがある。彼らはエンジェルとして起業家を支援する場合も多く、本筋の投資案件群が常にそこを巡回している。」・・そして、梅田さんが最初に立ち上げたファンドは、「ゴードンがエンジェルとして育ててきたソフトウェアベンチャーに50万ドルの投資を決定。ついに正真正銘のベンチャーキャピタルとして荒海に船出することになった。」とある。

ゴードンさんは、一世を風靡したPDP/VAXシリーズ(DEC社)の基本設計者としてコンピュータ産業・育ての親と称される天才である。梅田さんは、ある時接点ができ、以来、彼を師と仰いでいろいろと相談している。梅田さんが日本のクライアントから依頼された新製品や技術戦略についての彼の考えを聞くなど。梅田さんがゴードンさんにまともな相手として見られるようになったのは、梅田さんが会社をやめ、一人でビジネスをやることになってからである。それまでは、仕事の関係であったが、それ以降、個人と個人の関係に変わったという。

つまり、観察者ではなく、リスクを張ってシリコンバレーでビジネスをすると覚悟をした梅田さんを話の出来る一人前の男と認めたというわけである。ゴードンさんのようなかつて成功した天才のネットワークがあり、彼らが次の種の目利きをし、種を育てており、彼らの周りにそうした本物の成長しそうな種情報が渦を巻いている。このネットワークに一人前として認められ、その情報を得られることは、ベンチャーキャピタリストにとってリスクを減らし、本物へ投資することが出来るということになる。

2.シリコンバレーには、ベンチャーだけでなく、多様な人がいるということ。

企業価値を創造し、その功績によってストックオプションを得られ、大金持ちになる人。一方、そういう機会には関わらず、大企業でサラリーマンとしてソフト開発などをする人。リナックスのリーナス・トーバルに代表される「ナード」と呼ばれる好きな(意味がある)ソフトウェア開発をしていれば幸せ、金儲けは考えない、OSは必需品なので無料で提供するといったような社会主義的な考え方をする。ちなみに、リーナスは、ある会社で給料を貰ってソフトウェア開発をし、夜に好きなリナックスを開発している。これに、レストランなどで働く低賃金労働者。さらに、専門能力を活かして、時間いくらで働く専門家。

シリコンバレーには、こうした専門家の層が厚いらしい。梅田さんがあるベンチャーを評価するにあたって(投資の品定め:投資の見返りにどれだけの株式を得るかは、投資時点での企業価値によって決まる)、法律家、ドットコム事業のコンサルタント、デユーデリジェンス(適正価値評価手続き)の3人の専門家チームを構成した。

オールドエコノミーの世界に何年も縛られるのはいやであるが、ベンチャーのみにのめりこむのも危険ということで、2日間は企業の仕事をコンサル(日当2000ドル)で行い、残りの2日をベンチャーの副社長で働くという働き方も多い。(40歳を過ぎたらポートフォリオ:働き方)

3.投資にあたっての企業価値の算定

ビジネスプランを作った創業者に対し、投資を受けたと仮定した時に資金の使い道の詳細、週単位での進捗予測を微に入り細にわたり聞いていく。これから数ヶ月の間に創業者たちが直面するであろう困難や潜在的問題点を一つ一つ具体的に上げその対応方法を尋ねる。時にはわざと頭に血が上るような悪意に満ちた質問をあびせかけて、その反応を見ることで現実対応能力を判断しようとする。

創業者は、こうしたやりとりから学んだことを徹夜でスプレッドシートに反映させ、翌朝までに新しいビジネスプランを用意する。その新しいビジネスプランい対して、また違う角度から同じことが繰り返される。

これによって、創業者たちも自らの考えを整理することができるし、投資側との間に信頼関係が生まれる。・・・→その結果は「企業価値の評価を下方に修正し、なおかつビジネスプランに含まれる不確実性を数値目標の形で表現し、その達成度合いを企業価値に反映させるという思想での契約を目指すべし」となった。

こうした企業価値評価の専門家が居て、また創業者の方も不確実性をできるだけ明確にすることに賛同するというのは、なかなか日本では難しい。

4.元勤務先からの意地悪への対応

会社をやめて独立するあるいは転職するにあたっては、元の勤務先から意地悪をされないよう、弁護士と相談しておく・・と忠告されている。梅田さんの場合には、ライバル会社に移るわけではないので、問題はないとされたが、できるだけ今後とも良好な関係を築くことを前提に、建設的な話あいをすると良いとアドバイスを受ける。退社後の提携関係を提案するなど。

5.アーリーリタイヤメントのゴール

ある年齢(X歳)までに作り上げた資産の運用だけで、X歳から死ぬまで全く働かなくても十分な収入が得られる状態のこと。当時37歳のジーンさんは、X歳を51歳として、戦略を立てているという。

30代半ばから50歳までの約15年間で、3億から8億円の資産を作ること。それには、大企業に属する場合なら、コンサル会社、投資銀行、弁護士事務所、ベンチャーキャピタル、上場企業の経営者に若くして登用される。あるいは、ベンチャービジネス(キャピタルから投資を得て株式公開か売却をする)または、スモールビジネス(一人で自己資金ではじめ、経験が生かせ、収益性の高い事業をつくって売却する)。

日本だと、高級官僚になり、退職後、いくつかの企業の顧問などになって(最初から働いていたのと同じくらいの)退職金を貰う(複数回数千万円もらえる)とこれが可能になるのだろう。

6.アメリカも企業評価に冷静さを失ってバブルを起こす。

アメリカは、ベンチャーになれており、企業を評価する専門家もいるので、投資バブルは起きないのかと思ったらそうでもないみたいだ。

資金がシリコンバレーに流れすぎて、本来ならばアーリーに費やすべき金と時間がレイターに集中してしまい、優れたベンチャーが資金手当てしにくい(アーリーで)。これをゴードンさんは、シリコンバレーの生態系が崩れてしまったと嘆いている。

つまり、世界的にみて別の投資先が見つからなければ、シリコンバレーに金が流れてきて、それらはアーリーに投資するための情報(ネットワーク)を持たないので、リスクの少ないレイターに行ったからと考えられる。アーリーに投資するには、リスクを削減できるだけの情報が不可欠なのにそれを持たないお金が入ってきているということなのだろう。

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情報が地域をつくる

前の前の記事で書いたように、生産の基盤が異なってきているのに、地域のイメージのみ時間を超えて継承されてきているため、イメージが逆に生産の基盤の変容を邪魔している可能性がある。

祭りの研究をしている田川さんが、角館は、祭りが面白くてしょうがないので、年がら年中祭りの相談をしているので、これが変革を阻害しているのではないかという着眼をしていたが、これはそうなのではないかと思う。

現在は、新たにフラクタルな個人が自治をはじめつつあり、新しい実体に対する物語が生まれなければならない。ところが、前の時代の物語が非常に根深くあるので、新しい実体が生まれるのを阻害している。

新興地域は、物語がないので、物語づくりをしようというところ(原宿表参道商店会がよさこい祭りを実施するのは、まさに物語がないからなのだ)なのだが、昔からの地域は、人も減少し産業構造も変わって人々の生活も変化しているのに、物語のみが残っている。

研究会で「文化資産・遺産」といっているのは、祭りや規範であり、角館の例は、まさにそうかもしれない。

原宿は、祭りも鳶も居ないが、銀座は、祭りは不明だが、鳶はいる。原宿は伝統がない分、自在であったかもしれない。

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イメージダイナミクス

情報が地域を創ることを再勉強しようと思ったのは、「原宿」の原稿を書くにあたって、これを応用してみようかと思ったからであった。

鈴木さんは、田中美子さんの「地域のイメージ・ダイナミクス」(技報堂出版)を取り上げている。田中さんは、人々が地域を評価するにあたって、実態ではなく、地域に対する先入観などのイメージを媒介するという点に着目する。そして、システムとしての地域が有する特徴に自己組織性があるとする。自己組織性とは、システムが環境との相互作用を通じて、自らの構成を作り変えていくプロセスである。

たとえば、子供は叱られながら、自らが属する社会の規範を学習していく。他者の反応を通して、子供自身が社会の規範を理解し、内面化する。

これと同じように、地域の内部イメージと外部イメージがあり、それぞれ実態とは少しずれがある。このずれが刺激となって、地域のイメージを自己組織化し、結果として地域のアイデンティティが確立していくためのポジティブなフィードバックの源泉となる。

長野県飯田市は、昔から浄瑠璃などの人形劇が盛んで、そのなかで子供達のための人形劇イベントが開催される。このイベントは回を重ねるごとに国際的な評価を獲得し、住民の間に「人形劇のまち」としてのイメージが確立され、敷いては、人形劇場の建築が行われた(実態に反映された)。地域内部のイメージ、地域外からのイメージ、地域の実態がそれぞれポジティブなループを描きながら、豊かな地域アイデンティティを情勢するというダイナミックな動きである。

言い換えると、「地域内部における反省的な把握」と「外部からの評価」の2つのフィードバックによって地域アイデンティティへと昇華し、結果として地域の実態へと反映されていく。

鈴木さんは、これをさらに進めて、情報化により、地域が自らの情報を発信することができるようになったため、地域が情報を発信することで、自身の価値を高めていく可能性を述べている。昔からCI(コミュニティ・アイデンティティ)戦略の話は、由布院の成功例などがあるが、地域を商品として全国に発信するのとは異なり、自ら価値を高めていくのに地域情報化が機能するという。

地域のイメージとは、地域の実態が照射されて生じるものではなく、むしろ「地域」に対するコミュニケーションこそが逆に何を地域の実態として捉えるかという意味を構成するといっている。

たとえば、「この町は、○○の町」というのは、田中さんによれば、地域の実態を反映しているのだが、鈴木さんは、特別な要素が町のなかにあるのではなく、人々がコミュニケーションによって、その町に特別な要素を見つけ出していく。コミュニケーションそのものが、地域のアイデンティティと呼びうるポテンシャルを持つ。したがって、アイデンティティは、確固としたものではなく、不断のコミュニケーションのなかで創成するダイナミックなプロセスとして捉えるべきであるという。

人々が「かけがえのないもの」として地域を認識することが必要。伝統的な共同体は、そのイメージを安定的に維持することが難しくなかった(空間的に他と区別されており、長い時間を通じて次世代にイメージを受け渡すことができた)。しかし、今日では、空間的な限定性も時間的な継続性も多くが失われている。物理的な位相においては、人は容易に地域から流出し、入れ替わる。地域情報化は、人々の流動性にも関わらず、空間を越えて地域をイメージを共有することを可能にする。

鈴木さんの付け加えた部分を置いておいて、田中さんの考え方は、面白い。

原宿では、イメージとして、ワシントンハイツというアメリカの比較的豊かな生活のにおいがする町であり(物語の位相)、そうした匂いが好きなカタカナ職業の人々が集まるようになり、そのなかからマンションメーカーが生まれ(実体の位相)、それが雑誌で取り上げられて、ファッションの町というイメージが強くなり(物語の位相)、ラフォーレ原宿の仕掛けもあり、相乗効果が起こる(実体の位相:イメージを求めて附属屋、大手も原宿に拠点を持つ)。原宿ドリームという生産側の実態とイメージ、及び先端ファッションを消費したり、たむろするという消費側の実態とイメージが重なり合う町となる。これがピークを迎えるのがDCファッションで、それがバブルの頃のインポートブームとバブル崩壊で衰退する(これは実体も物語も)。この間に竹の子族、ホコ天、竹下通り修学旅行生で溢れる、呼び込みが増える、それへの対応などあり。イルミネーションとその廃止などもあり。実体の仕掛けと物語に集まる消費者あり、それへの反発としての住民の動きなどあり。

その頃に藤原ヒロシらの仲間の新しい若者の作り手が店を出し、裏原ブームとなる。これも実体とそれがマスメディアなどと連携してイメージとの相乗効果。セレクトショップなども生まれ、原宿ドリーム(好きなことをやって仕事にもなる)が再来する。しかし、こういうブーム的なものになると、飽きられる、街の匂いが変わったとして出て行くクリエーターもいる。

これがさらに、バブル崩壊の頃に外資が表参道を買い、高級ブランド店が並ぶようになる。これは実体ではあるのだが、売れるとは限らない、アンテナ、ショールームという話もあり、そうなると物語でもある。高級ブランド店が並ぶとイメージが変わり、原宿ドリームの物語に悪影響という懸念もある。地価が上がって(実体)、原宿ドリームが難しくなる面も(物語の崩壊)。

内部の反省、外部の評価、及び実体の位相が互いにフィードバックするのだが、誰の内部かということがあり、これがクリエーター、小売、商店会、地主など、それぞれの内部の反省的な把握が異なるので、複雑性を増す。コミュニケーションを通して、原宿はどんな町かを認識し合うのだけれど担い手ごとにこれが異なりすり合わせする。

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January 06, 2008

「情報」が地域をつくる

『地域情報化 認識と設計』の折、鈴木謙介さんがイメージが地域をつくるというような話をしていたのを思い出し、彼の分担分を読み返す。

1.まず、実態(の位相)として生産共同体があり、それを支える信仰や習俗などにより「ムラ」としてのイメージがある(物語の位相:共同主観)。共同主観は、人々の間に「ムラ」という空間への認識をもたらすと同時に、人の生涯を通じて、また世代を超えて伝承されるという意味で通時間的なものである。

2.明治になると、「物語」は、国家大の物語へと回収されてしまった。上からの近代化を必要とした「日本」を制度のみならず、物語の側面からも支えていくために、国家神道と天皇制(国体)が求められた。

敗戦によって、この物語は、日本という全体を規定するほどの力を持たなくなるが、代わって力を持つようになったのが国家としての生産共同体としての「資本」としての側面であった。

ここで、鈴木さんは、内田隆三を引合に出して、資本の側面を請けて立ち上がるのが「マイホーム主義」であるという。第一義的には、性愛の絆をベースにした閉じられた空間だが、「イエ」という文化的制度を支えてきた村落の習俗に対する批判があり、農業基本法に象徴される農村社会の分解と近代化という事実があり、すでに失われてしまった家郷から「個人」として追い出された人々が仮想的に「帰るべき場所=家郷(ホーム)」としての幻想を投影する場所として見出したのが「マイホーム」であった。

しかし、マイホームは、貨幣によって媒介された個人が集う場所でもある。むしろ資本によって安定的に支えられることが理想的な家郷としてふさわしい場所であるという意味で、「マイホーム物語」は、「資本の論理の優越する物語」であった。

戦前は、神話などの物語が制度(天皇制など)を規定したが、戦後は、資本が神話という物語を要請している。

その後、消費社会となり、モノがモノとしての差異ではなく、「記号=情報」としての差異が消費の対象として優越する社会。消費社会化とは、資本が物語りを規定した「産業の時代」からベクトルが逆転し、「物語が資本を規定する」社会になった。とはいえ、その物語を生むのは広告であり、マスメディア(第四の権力)であり、中央からの情報発信となった。

情報と地域という観点で整理しなおすと、産業の時代においては、物語はマイホームであり、地域は、多数の小さな物語であるマイホームを建設するために、切り崩され、団地やそれを中心とする郊外へと、開発と投機の対象へと変貌していった。

バブル経済は、日本中の地域を物語の時空間ではなく、取り引きの対象としての土地=地価で表現される商品として扱ってきた。これにより、多くの地域で共同性を支える空間と、それを維持する時間的な連続性が失われた。

そのような「資本の論理」が破綻し、個人が情報を発信することが可能となり、新たなる段階となった。再び地域が物語りの時空間として再生する可能性があるのではないか。中央のマスメディアに代わって、地域が自らの情報を発信しうるから。

同じことかもしれないが、戦後は、マイホームよりも、企業共同体の方が意味があったような気がする。農村共同体からはじき出された個人は、企業共同体に心の拠り所(アイデンティティ)を求めた。日本の高度成長は、個々人が企業にアイデンティティを求め、それを可能にする終身雇用制や持株会社制度が支えてきた。地域は目で見える形では、確かにマイホームを建てるために切り崩されたが、マイホームの住人が住んだ地域にアイデンティティを持つことも可能であったはずなのだが、マイホームの住人は、企業共同体の一員としてのアイデンティティを持っていたため、地域ではバラバラであった(社宅内を除き)。マイホームも高度経済成長によって、生活が豊かになるという意味では、生活の拠点であったが、実態は、父親不在であり、会社に附属している労働再生産のための場所でしかなかった。

産業の時代と消費社会の時代を分けるのもどうか。本来同じものの裏表のような気がする。いずれにしても、産業の時代には、個々人のアイデンティティは企業となり、生産共同体というイメージのなかで暮らしていた。

大量生産大量消費の時代には、ナショナルブランド(あるいは、国全体を対象とした広告によるイメージ)によってものは消費されて行き、物語で品質が判断され、流通の形態もそうなり、地産地消や顔の見える流通は次第に押しやられ、自ら判断する力は失われる。

バブルとその崩壊によって(というより、経済のグローバル化によって)、日本的な生産共同体が崩されてしまった。企業の物語が崩壊し、企業に誇りを持つことができなくなった。同時に、日本企業が国という共同体のけん引役であったのがグローバル企業となり、国が私たちを守ってくれるという共同幻想も失われている。つまり、働き手にとって、自らのアイデンティティの拠り所がなくなり、個人のスキルなどと言われ、大学院に入りなおしたり、専門学校に行きなおすものの、心は不安でいる。マイホームという物語も、父親が企業から離れ、個室や個電、コンビニで食事は可能、限界的な雇用の時代となり、崩壊している。若者がニートになり、働き盛りが途方にくれているのは、当然のことである。

日本という国(日本企業共同体)の物語が崩壊し、人々はアイデンティティを探すなかで選択肢の一つとして地域に注目しはじめた。

しかし、一方で、市町村合併により、わずかに残っていた地域の歴史や文化といった時空的な物語が失われつつある。また、鈴木さんはバブルの一時期のように述べているが、土地を時空間と切り離して切売りする証券化は、ますます浸透してきている。

確かに、インターネット、それも広帯域が普及し、地域が発信することが可能となり、物語がリアルな地域を越えて、地域というアイデンティティを持ちうる可能性が見えてきている。それがリアルな地域を再生させる道具の一つになることは確かだろう。

鈴木さんの「実態」と「イメージ」の両方が地域であるというところは、賛成。明治維新によって、地方の実態とイメージが国に回収されてしまったというのも賛成。

戦後になって国に代わって資本(日本企業)が共同幻想を持たせてくれて、人々は、企業共同体にアイデンティティを持つと同時に、二重構造のように日本という国の物語を共同主観していたと思う。ジャパンアズナンバーワンの頃がその絶頂期。それがバブル(グローバル経済)を契機に、自信喪失になっていく。金融制度面での敗戦や中国などの台頭、労働の流動性などにより、企業にも共同幻想をもてなくなり、国と個人が直接向き合ったものの国への誇りが失せている(輝かしい日本という物語の喪失)。

「輝かしい日本」という物語は、先の敗戦で一度崩壊したが、その後は、企業共同体による復興・成長のなかでもう一度復活していた。これが崩壊したのち、次の物語(人々の誇りをくすぐる)が構築されていないので、負け犬の遠吠えのように「国家の品格」で日本はやはり立派なのだ、誇りを持とうと慰めている。

ところで、明治維新のおりに、地域の実態と物語が国に回収されるが、これは産業構造の高度化の時期とタイミングがあっていた。だから、たまたま間に敗戦があるものの、国の生産実態と物語は、意味を持ち続けてきた。仮に、明治政府がやらなくても、資本の論理で農業などの生産共同体は、自ずと企業による生産共同体に変わらざるをえなかったはずだ。生産共同体(実体の位相)なしに、地域の物語を続けるには、無理がある。祭りや風景は残っていても、それを必要とする生活実態がないのだから(囲炉裏生活をしないのに、五箇山のかやぶきを残す、萱がない、農業がないのに、かやぶき屋根を作るなど観光資源でしかない。もちろん時間を超えた心のふるさととしての維持の意味はあるにせよ)。

そうであるならば、産業構造が変わりつつあるときに、どのような生産の場(実体の位相)が求められているのか。その生産の場が最も機能する物語とは何かということが問われるべきである。

グローバル経済のなかに身を置いて生産活動をする場合(世界企業と関わっている場合)、生産の場(実体の位相)は、グローバルであり、世界各地とネットワーク化された企業や工場や専門家ということになるのだろう。そこで働く人達は、アイデンティティをグローバル企業(イメージ:物語の位相)に求めるのだろう。その場合、地域は、グローバル企業(もしくは経済)に振り回されるに違いない。

一方で、「グローバル経済から逃れられない」ものの、世界企業で先鋭的に働くのではない人々の場合、代替可能な労働力としてそこそこの生活をする人々は、基本的に個々人であり、かつてのような企業共同体には属さない。とすると、彼らの生産の場(実体の位相)は、何になるのだろうか。

現在は、多くの人々が企業共同体に代わる、実体の位相を手に入れていない、さらにアイデンティティを確立できるイメージも持っていない。フラクタルになっている。

フラクタルな個人が拠り所に選ぶのが地域かどうか分からないが選択肢の一つではある。

企業共同体からはじかれた個々人は、セーフティネットを求める。すると、日常生活の基盤である地域を再認識せざるを得ない。地域は、グローバル経済に晒されつつ、遠くの親戚より近くの他人として機能することが求められる。日常生活において、住むのに最適であれば、住人は、地域にアイデンティティを求めるかもしれない。住むのに最適というのは、物語の位相と実体の位相の両面から。

あるいは、グローバル経済のなかで勝ち組みとなるために地域にも競争力が求められることになり、地域を経営するという観点が必要になるのかもしれない。その場合、実態に加え、地域のイメージ戦略が必要かもしれない。

何故、今、「地域」かということは、曖昧である。

一般的には、少子高齢化で特に中産間地域などで地域の崩壊が問題になっているとか、財政再建で地方自治体が破綻しそうであり、そうなると、身近な教育・医療・福祉などのサービスが低下するという問題があるので、大所高所から地域をなんとかしなければというのは分かる。

そうではなく、個々人にとって、何故地域かということの説明ができない。

本当は、無力な個々人が昔の村落共同体(生産共同体)が消滅し、企業共同体も消滅したなかで、どうやって生きていくのかというのが先にあって、では、団結しましょうということになり、もともとの自治のように、身近な人々が結集し、必要な政策を皆で決めて実行していくことに戻ることであるはず。

現行の地方自治体から考えるのではなく、フラクタクルな個々人が集まって議論をし、共同でやったほうが良いことを考えて実行するという本来の自治の必要性からはじめて「地域」が出てくるはずなのである。

町おこしとか地域再生というので、既存の商店街活性化を考えたり、地方自治体が第三セクターで産業興しをしがちだが、これは本末転倒である。自治の結果、商店街が必要であるという結論が出て、では商店街をより住民に便利にとか、税収を得るために企業誘致をしようとか、こういうサービスが欲しいので誰かが起業しようということになるのが本来の流れである。

そして、こうしたことをやるにあたって、フラクタルな個々人を結集させたり、その自治を進めるために、規範が生まれ、制度が生まれ、イメージ戦略が行われる(物語の位相を意識的に作ることになる)。

そういう意味では、現在は、国づくり・建国(住民にとっての国づくり:地域づくり)の時であり、それは実質的には、既存自治体の活性化であっても、本来は、新たに作り上げる過程でなければならない。

フラクタルな個人の集まりが、本当は、地域に根ざすとは限らない。ユニオン、新しい意味での組合かもしれない(政治団体や宗教かもしれない)。

個々人の側からすると地域かユニオンか分からないけれど、明治維新で政府が地域を国にするために国の物語を作り、制度をつくり、産業化に向ったように、政府が(あるいは誰かが)ある目的のために、物語を作り、制度をつくることはありうる。地方分権と政府が言っているのは、地域でやってくれという意思表示である。だとしたら、地方自治体がこれをチャンスにして、地域をベースに社会制度を組替えなおし、物語を作り、「地域産業化」を図るといった政策をとることは可能である。地方自治体間競争により、地域が強くなり、それが全体(国)を強くするという国の政策はありうる。

問題は、「地域産業化」が見えないところである。EUでは、国という枠組みが取り払われつつあるなかで、地域に着目し、地域間競争による格差是正が実施されている。

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