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January 08, 2008

地域政策研究と実践への賞

法政大学地域研究センターでは、地域政策研究賞とイノベーティブ・ポリシー賞というのをやっていて、今回が07年度で5回目だとのこと。選考を手伝ったこともあり、どんな人が賞を得たのか、顔を見たいと思って表彰式を覘いてみた。

地域政策研究賞は、最優秀賞はなく、優秀賞が2件、奨励賞が2件であった。イノベーティブ・ポリシー賞が2件であった。

優秀賞の一つは、永松俊雄『チッソ支援の政策学』で、水俣病患者に補償金を支払うために、公害を出したチッソが潰れないよう、公的資金を投入し続けるという政策についての検討である。水俣病については、原因究明や病像論、患者認定問題、企業や行政の責任問題、地域共同体の崩壊や修復などについての研究はあるが、患者補償をどのように完遂するかという問題については、ほとんど研究されていない。本書は、この点について扱っている。

本書を読んで、あぁ、こういう問題があるのだということを改めて知った。

C型肝炎では、先日、国が責任を認めて、国が補償するというスキームが取られたが、チッソの場合には、チッソが支払う責任があるとし(原因者負担の原則:PPP)、経営危機に陥ったチッソを県債を発行して調達した資金を貸し付けるという措置が取られた。

原因者負担の原則は、OECDによって提唱された自由競争原理を前提とした環境汚染防止費用の内部化に関する経済原則である。一方、日本型のPPPは、予防的費用だけでなく、環境汚染が生じた場合の環境復元費用や被害者救済などの事後的費用も含んでいるとのことである。

(悪者である)会社を潰してしまいたいが、それでは患者への補償はどうするのか、また、地域の雇用をどうするのか・・といった問題から、会社を無理やり存続させながら補償と雇用を確保するという苦渋の方式である。→これは、倒産による安易な社会的責任の放棄を許さず、外部不経済の内部化の徹底やモラルハザードの観点からは評価されるとしている。

筆者によると、チッソへの県債による金融措置は、大きく3つの期間に分かれるというのも興味深い。第一期は、患者補償の完遂、第二期は、チッソの設備投資を目的に行われた経営基盤の強化、第三期は、公的債務の償還である。第三期には、金融機関に対する既往債権のうち利子分の債権放棄、残存債務の無利子化、国庫補助金などによる一時金貸付金の債権放棄、残りの公的債務についてある時払い方式で100年かけて償還していくことになったという。

国に責任があるのか、国に責任があるなら、国が補償のために個別企業に支援するのは一理あるが、国に責任がないなら、個別企業を国が保護することになってしまう。→これまで漠然と理解していたが、水俣病自体は、国の責任なのだろうか。無機水銀が有機水銀に変わり、人体に被害を及ぼすということが当時は分かっていなかったものの、排水をたれ流し、それが原因であると分かったのだから、チッソに責任があるのは確かだが。この事例の場合、直接の原因はチッソだが、その後の対応の遅れ(調査をしたり、すぐに対策を打つことをしなかったために病気が広がった)などが国の責任なのではないだろうか。

著者は、行政活動を「政策執行活動」と「政策形成活動」の二つに分け、これまでこの二つが混同されてきたが、チッソ支援を後者として捉えるべきとしている。→そして、水俣病の補償問題については、県債方式による迂回融資や既存制度の無理な解釈や度重なる解釈の変更が行われてきたのだが(抜本的な対応をせずに、問題が深まるのにつれて、現行法を無理やり解釈するなどして対応してきた)、これは適当とは言えず、特別立法による限定的措置として処理することが適当であったと指摘している。

そして、チッソの事例は、課題解決のための政策が形成・決定されないという、政策非形成が長期に継続したケースであり、社会課題の早期解決を図るための新たな社会システムの設計・提案が重要であるとしている。

ところで、チッソは、生きており、今日の私達の生活に欠かせない液晶で世界トップレベルの生産をしているとのことだ。

この本では、もう一つの論点として、国と地方自治体は一体(国が政策を決めて地方自治体はそれを遂行するだけ)と捉えがちだが、本書は、国と熊本県の相克(抜本的金融支援措置策定に至る政策形成過程)について扱っている。

筆者の要約によると、熊本県は、償還財源の確保と責任主体の明確化を最重要課題としており、国に対し、チッソに不測の事態が生じた場合の県債の償還については「国が万全」の措置を取ること、チッソに対する金融支援措置は「国の施策」として行うものであることを閣議了解に明記させ、これが抜本的支援策策定の第一歩となったとしている。

ここの本文をきちんと読んでいないので良く分からないのだが、県は、国の責任であり、国が最終的に責任を取るように言質を取ったということらしい。国と県双方の相克について書かれているという。

私は、北海道で仕事をして、国と地方自治体との思惑の違いなどを目の当たりにし、単純に地方分権というがもっと両者の関係を精査する必要があると思いつつそのままになっていたため、筆者が両者の相克に着目していることにまずは嬉しく思った。

もっとも、私が感じている論点と筆者の論点とは異なっているようだ(もっときちんと整理する)。この事例では、熊本県は、こうしたいという具体的課題があり、それを国に認めさていったという成功例なのだと思う。一方、北海道庁で私が感じたことは、具体的なビジョンを持たず、政策を具体的に実行する力もなく、単に道庁内での出世や保身として補助金を得ようとしているだけで、国が地方分権といっても、果たして道庁にやりきれるのかと思ったのである。熊本県は、単に責任や負担逃れをしようと保身だったのだろうか(本文を検討していないので不明なのだが)。

いずれにしても、市民からみると、行政として一体と考えがちだが、国は国の、地方自治体は自治体の損得で動く別の組織であり、そうしたメカニズムを理解しておかないと、政治が見えないと思っており、両者の相克を扱ったという意味で嬉しかったのだ。

筆者は、この事例の抜本的解決が遅れているのは、①政策形成過程が閉鎖的空間に置かれていたこと、②政治アクターの不在をあげている。特に、後者では、政治家の領域にまで行政が活動範囲を拡大しており、行政がもっと完全に行動してくれると期待しがちだが、それはかなわないことであるとしている。昨今では、官僚主導でなく、政治家主導へという動きはあるものの、日銀人事を見ても、この辺りのガバナンスの問題が残る。

国と県だけでなく、官僚と政治家も含め、連立方程式でどのような政治システムが望ましいかを検討する必要があるだろう。

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