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January 06, 2008

「情報」が地域をつくる

『地域情報化 認識と設計』の折、鈴木謙介さんがイメージが地域をつくるというような話をしていたのを思い出し、彼の分担分を読み返す。

1.まず、実態(の位相)として生産共同体があり、それを支える信仰や習俗などにより「ムラ」としてのイメージがある(物語の位相:共同主観)。共同主観は、人々の間に「ムラ」という空間への認識をもたらすと同時に、人の生涯を通じて、また世代を超えて伝承されるという意味で通時間的なものである。

2.明治になると、「物語」は、国家大の物語へと回収されてしまった。上からの近代化を必要とした「日本」を制度のみならず、物語の側面からも支えていくために、国家神道と天皇制(国体)が求められた。

敗戦によって、この物語は、日本という全体を規定するほどの力を持たなくなるが、代わって力を持つようになったのが国家としての生産共同体としての「資本」としての側面であった。

ここで、鈴木さんは、内田隆三を引合に出して、資本の側面を請けて立ち上がるのが「マイホーム主義」であるという。第一義的には、性愛の絆をベースにした閉じられた空間だが、「イエ」という文化的制度を支えてきた村落の習俗に対する批判があり、農業基本法に象徴される農村社会の分解と近代化という事実があり、すでに失われてしまった家郷から「個人」として追い出された人々が仮想的に「帰るべき場所=家郷(ホーム)」としての幻想を投影する場所として見出したのが「マイホーム」であった。

しかし、マイホームは、貨幣によって媒介された個人が集う場所でもある。むしろ資本によって安定的に支えられることが理想的な家郷としてふさわしい場所であるという意味で、「マイホーム物語」は、「資本の論理の優越する物語」であった。

戦前は、神話などの物語が制度(天皇制など)を規定したが、戦後は、資本が神話という物語を要請している。

その後、消費社会となり、モノがモノとしての差異ではなく、「記号=情報」としての差異が消費の対象として優越する社会。消費社会化とは、資本が物語りを規定した「産業の時代」からベクトルが逆転し、「物語が資本を規定する」社会になった。とはいえ、その物語を生むのは広告であり、マスメディア(第四の権力)であり、中央からの情報発信となった。

情報と地域という観点で整理しなおすと、産業の時代においては、物語はマイホームであり、地域は、多数の小さな物語であるマイホームを建設するために、切り崩され、団地やそれを中心とする郊外へと、開発と投機の対象へと変貌していった。

バブル経済は、日本中の地域を物語の時空間ではなく、取り引きの対象としての土地=地価で表現される商品として扱ってきた。これにより、多くの地域で共同性を支える空間と、それを維持する時間的な連続性が失われた。

そのような「資本の論理」が破綻し、個人が情報を発信することが可能となり、新たなる段階となった。再び地域が物語りの時空間として再生する可能性があるのではないか。中央のマスメディアに代わって、地域が自らの情報を発信しうるから。

同じことかもしれないが、戦後は、マイホームよりも、企業共同体の方が意味があったような気がする。農村共同体からはじき出された個人は、企業共同体に心の拠り所(アイデンティティ)を求めた。日本の高度成長は、個々人が企業にアイデンティティを求め、それを可能にする終身雇用制や持株会社制度が支えてきた。地域は目で見える形では、確かにマイホームを建てるために切り崩されたが、マイホームの住人が住んだ地域にアイデンティティを持つことも可能であったはずなのだが、マイホームの住人は、企業共同体の一員としてのアイデンティティを持っていたため、地域ではバラバラであった(社宅内を除き)。マイホームも高度経済成長によって、生活が豊かになるという意味では、生活の拠点であったが、実態は、父親不在であり、会社に附属している労働再生産のための場所でしかなかった。

産業の時代と消費社会の時代を分けるのもどうか。本来同じものの裏表のような気がする。いずれにしても、産業の時代には、個々人のアイデンティティは企業となり、生産共同体というイメージのなかで暮らしていた。

大量生産大量消費の時代には、ナショナルブランド(あるいは、国全体を対象とした広告によるイメージ)によってものは消費されて行き、物語で品質が判断され、流通の形態もそうなり、地産地消や顔の見える流通は次第に押しやられ、自ら判断する力は失われる。

バブルとその崩壊によって(というより、経済のグローバル化によって)、日本的な生産共同体が崩されてしまった。企業の物語が崩壊し、企業に誇りを持つことができなくなった。同時に、日本企業が国という共同体のけん引役であったのがグローバル企業となり、国が私たちを守ってくれるという共同幻想も失われている。つまり、働き手にとって、自らのアイデンティティの拠り所がなくなり、個人のスキルなどと言われ、大学院に入りなおしたり、専門学校に行きなおすものの、心は不安でいる。マイホームという物語も、父親が企業から離れ、個室や個電、コンビニで食事は可能、限界的な雇用の時代となり、崩壊している。若者がニートになり、働き盛りが途方にくれているのは、当然のことである。

日本という国(日本企業共同体)の物語が崩壊し、人々はアイデンティティを探すなかで選択肢の一つとして地域に注目しはじめた。

しかし、一方で、市町村合併により、わずかに残っていた地域の歴史や文化といった時空的な物語が失われつつある。また、鈴木さんはバブルの一時期のように述べているが、土地を時空間と切り離して切売りする証券化は、ますます浸透してきている。

確かに、インターネット、それも広帯域が普及し、地域が発信することが可能となり、物語がリアルな地域を越えて、地域というアイデンティティを持ちうる可能性が見えてきている。それがリアルな地域を再生させる道具の一つになることは確かだろう。

鈴木さんの「実態」と「イメージ」の両方が地域であるというところは、賛成。明治維新によって、地方の実態とイメージが国に回収されてしまったというのも賛成。

戦後になって国に代わって資本(日本企業)が共同幻想を持たせてくれて、人々は、企業共同体にアイデンティティを持つと同時に、二重構造のように日本という国の物語を共同主観していたと思う。ジャパンアズナンバーワンの頃がその絶頂期。それがバブル(グローバル経済)を契機に、自信喪失になっていく。金融制度面での敗戦や中国などの台頭、労働の流動性などにより、企業にも共同幻想をもてなくなり、国と個人が直接向き合ったものの国への誇りが失せている(輝かしい日本という物語の喪失)。

「輝かしい日本」という物語は、先の敗戦で一度崩壊したが、その後は、企業共同体による復興・成長のなかでもう一度復活していた。これが崩壊したのち、次の物語(人々の誇りをくすぐる)が構築されていないので、負け犬の遠吠えのように「国家の品格」で日本はやはり立派なのだ、誇りを持とうと慰めている。

ところで、明治維新のおりに、地域の実態と物語が国に回収されるが、これは産業構造の高度化の時期とタイミングがあっていた。だから、たまたま間に敗戦があるものの、国の生産実態と物語は、意味を持ち続けてきた。仮に、明治政府がやらなくても、資本の論理で農業などの生産共同体は、自ずと企業による生産共同体に変わらざるをえなかったはずだ。生産共同体(実体の位相)なしに、地域の物語を続けるには、無理がある。祭りや風景は残っていても、それを必要とする生活実態がないのだから(囲炉裏生活をしないのに、五箇山のかやぶきを残す、萱がない、農業がないのに、かやぶき屋根を作るなど観光資源でしかない。もちろん時間を超えた心のふるさととしての維持の意味はあるにせよ)。

そうであるならば、産業構造が変わりつつあるときに、どのような生産の場(実体の位相)が求められているのか。その生産の場が最も機能する物語とは何かということが問われるべきである。

グローバル経済のなかに身を置いて生産活動をする場合(世界企業と関わっている場合)、生産の場(実体の位相)は、グローバルであり、世界各地とネットワーク化された企業や工場や専門家ということになるのだろう。そこで働く人達は、アイデンティティをグローバル企業(イメージ:物語の位相)に求めるのだろう。その場合、地域は、グローバル企業(もしくは経済)に振り回されるに違いない。

一方で、「グローバル経済から逃れられない」ものの、世界企業で先鋭的に働くのではない人々の場合、代替可能な労働力としてそこそこの生活をする人々は、基本的に個々人であり、かつてのような企業共同体には属さない。とすると、彼らの生産の場(実体の位相)は、何になるのだろうか。

現在は、多くの人々が企業共同体に代わる、実体の位相を手に入れていない、さらにアイデンティティを確立できるイメージも持っていない。フラクタルになっている。

フラクタルな個人が拠り所に選ぶのが地域かどうか分からないが選択肢の一つではある。

企業共同体からはじかれた個々人は、セーフティネットを求める。すると、日常生活の基盤である地域を再認識せざるを得ない。地域は、グローバル経済に晒されつつ、遠くの親戚より近くの他人として機能することが求められる。日常生活において、住むのに最適であれば、住人は、地域にアイデンティティを求めるかもしれない。住むのに最適というのは、物語の位相と実体の位相の両面から。

あるいは、グローバル経済のなかで勝ち組みとなるために地域にも競争力が求められることになり、地域を経営するという観点が必要になるのかもしれない。その場合、実態に加え、地域のイメージ戦略が必要かもしれない。

何故、今、「地域」かということは、曖昧である。

一般的には、少子高齢化で特に中産間地域などで地域の崩壊が問題になっているとか、財政再建で地方自治体が破綻しそうであり、そうなると、身近な教育・医療・福祉などのサービスが低下するという問題があるので、大所高所から地域をなんとかしなければというのは分かる。

そうではなく、個々人にとって、何故地域かということの説明ができない。

本当は、無力な個々人が昔の村落共同体(生産共同体)が消滅し、企業共同体も消滅したなかで、どうやって生きていくのかというのが先にあって、では、団結しましょうということになり、もともとの自治のように、身近な人々が結集し、必要な政策を皆で決めて実行していくことに戻ることであるはず。

現行の地方自治体から考えるのではなく、フラクタクルな個々人が集まって議論をし、共同でやったほうが良いことを考えて実行するという本来の自治の必要性からはじめて「地域」が出てくるはずなのである。

町おこしとか地域再生というので、既存の商店街活性化を考えたり、地方自治体が第三セクターで産業興しをしがちだが、これは本末転倒である。自治の結果、商店街が必要であるという結論が出て、では商店街をより住民に便利にとか、税収を得るために企業誘致をしようとか、こういうサービスが欲しいので誰かが起業しようということになるのが本来の流れである。

そして、こうしたことをやるにあたって、フラクタルな個々人を結集させたり、その自治を進めるために、規範が生まれ、制度が生まれ、イメージ戦略が行われる(物語の位相を意識的に作ることになる)。

そういう意味では、現在は、国づくり・建国(住民にとっての国づくり:地域づくり)の時であり、それは実質的には、既存自治体の活性化であっても、本来は、新たに作り上げる過程でなければならない。

フラクタルな個人の集まりが、本当は、地域に根ざすとは限らない。ユニオン、新しい意味での組合かもしれない(政治団体や宗教かもしれない)。

個々人の側からすると地域かユニオンか分からないけれど、明治維新で政府が地域を国にするために国の物語を作り、制度をつくり、産業化に向ったように、政府が(あるいは誰かが)ある目的のために、物語を作り、制度をつくることはありうる。地方分権と政府が言っているのは、地域でやってくれという意思表示である。だとしたら、地方自治体がこれをチャンスにして、地域をベースに社会制度を組替えなおし、物語を作り、「地域産業化」を図るといった政策をとることは可能である。地方自治体間競争により、地域が強くなり、それが全体(国)を強くするという国の政策はありうる。

問題は、「地域産業化」が見えないところである。EUでは、国という枠組みが取り払われつつあるなかで、地域に着目し、地域間競争による格差是正が実施されている。

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