コミュニティとはその2
現在、「コミュニティ」という言葉も「市民」という言葉もなんとなくしっくりこない。
言葉が見当たらないというのは、そういう実態が無いということなのだろう。
ついでだが、独身女性を現す言葉もない。若いうちは、お嬢さんと呼ばれる。歳を取ると、おばさん、おばあさんだが、面と向っては悪いと思うと、「奥さん」となる。店の呼び込みの人やガスの修理に来た人は、私が結婚していないとなんとなく分かっても、「奥さん」としか言いようが無い。外国ではどうなんだろう。
もっとも、独身男性を現す言葉もない。若いうちは、お兄さん、歳を取るとおじさん、おじいさん、面と向っては、「旦那さん」、繁華街では「社長!」かな。
つまり、いろいろな暮らし方、生き方が一般化していないと言葉が生まれない。
さて、まず、コミュニティについては、リンクした事典にあるように、(1)英語の日常的概念、(2)学術後としての概念、(3)日本が受容した概念があり、そのなかでもいろいろな使い方がある。
今日的な日本の課題として取り上げられているコミュニティとは、「経済成長が都市の生活環境や人間関係の荒廃を招いたとする認識の広まった1970年(昭和45)ごろ、その克服策として官民の指導的部門が一斉にコミュニティの創設を提唱してから一躍脚光を浴びることとなった。説かれている内容は、小学校区程度の近隣の範囲ごとに、内部の住民の間に樹立されるべき市民的連帯性、つまり自主性や個性の確立を伴った連帯性と必要関連施設の整備」と言えるだろう。
つまり、コミュニティとは、(ばらばらである)「地域住民」の間に、「市民的連帯性」、つまり「自主性」や「個性の確立」を伴った「連帯性」がある状況をイメージしている。
次に、市民(citizen)とは、「近代社会を構成する自立的個人で、政治参加の主体となる者」である。事典によれば、「ヨーロッパ古典古代の都市国家と中世都市との諸特権を享受する者、および近代国家における主権に参与する者。しかし近代以前において市民を成立させるような都市たるためには、都市が自分自身の裁判所をもち、かつ少なくとも部分的に自分自身の法をもち、少なくとも部分的な自律性をもった性格をもち、市民自身がなんらかの仕方でその任命に参与するような官庁による行政をもっていることが必要であった。」
つまり、市民とは、もともとは、「自律的(立法・行政・司法を持つ)な都市」を運営するにあたって、「政治参加」の主体となる者を指している。フランス革命で「人権宣言」がなされ、法の前での平等な市民という原則がうたわれたが、税金を支払っている人が能動市民であり、そうではない人たちは受動市民として選挙権を奪われていたという。
今日私達が「コミュニティ」や「市民」に違和感を覚えているのは、
1.都市(コミュニティの範囲)が自律していないこと
2.地域住民ではあり、税金も支払い、参政権もあるものの、意識して政治に参加していないこと
3.地域住民間に連帯感がないこと
である。
また、上記のコミュニティの定義で、学術的な定義として紹介されているものにあたる「(1)一定地域内の人々であり、(2)彼らの生活はこの地域内で完結し、(3)その関心や利害が共通するところから一体感が抱かれ、生活様式にも一致した特徴が認められ、(4)以上の属性が自然発生的に生成し相互に関連しあって一つの社会的実体を構成する」というのは、日本のかつての村落共同体などをイメージできる。
こうした過去の「共同体(コミュニティ)」にみられる「関心や利害が共通するところから一体感が抱かれ、生活様式にも一致した特徴が認められる」というようなより密度の高い一体感といったようなものも現在の「地域住民」には見られない。
4.地域住民といっても、関心や利害が共通し、一体感があるというわけではないこと
これらは変えることができるだろうか。
1.都市の自律という点では、現在、制度的に地方分権の方向にある。
2.地域住民は、基本的には税金を支払い、制度的には参政権はあるので、意識的に政治に参加するようにすればよい。
3.地域住民に連帯感が生まれるためには、4の関心や利害が共通することが必要である。
4.それによって自ずと一体感が醸成される。
運動会や祭りは一体感を醸成するための道具だが、これから始めても、関心や利害が共通していなければ、一時的なイベントで終わってしまい、それが人々の精神にまで思い出や誇りとして影響を及ぼし、住民の遺伝子にまではならないだろう(アイデンティティ)。
では、どうしたら、地域住民が地域の政治に意識的に参加し、関心や利害が共通するようになるのだろうか。
幸いというか、ちょうど、カイシャ共同体が崩壊し、家族という形態が多様化(お一人様の増加など)するなかで、人々が生きていく上でのセーフティネットとして地域に頼らざるをえなくなっている。地域にとっては、今がチャンスなのだ。
なお、地域と同時にチャンスなのは、宗教である。創価学会などの宗教団体は、地域に強いネットワークを持っており、頼りがいのある「近くの他人」としての機能を果たしてきた。
セーフティネットとして、一つは、地方自治体(地方分権がより進む)であり、もう一つは、遠くの親戚より近くの他人というリアルな時間圏の意味が増しつつある。
医療、介護、教育、安全などは、制度的にはもともと地方自治体の機能であり、これまでは、全国一律として国が決めたことの実行部隊でしかなかったが、これが分権化されつつある。
私達は、これまで税金を納めているにも係わらず、国や地方自治体が決めてサービスを提供してくれることに任せっきりにしてきた傾向が強い。これをもっと、金も出すのだから、口も出し、必要であれば手も出してより暮らしやすい地域になるように意識改革すれば良い。地域住民のニーズが具体的に明らかになれば(もっと政治参加に積極的になれば)、地方分権も進めざるを得なくなる。
もう一つは、高齢化、お一人様化するなかで、それを埋める手として「助け合い」せざるをえないことだ。この一番のネックは他人に助けられたくない(身内でも迷惑をかけたくない)という心理が働いていることだ。助ける仕組みを作ることと同時に、助けられたくないという心理的バリアーを破ることが必要だ。
こうした暮らしやすい地域を作っていくにあたっては、実は、「財政」が問題となる。現在議論されている国から地方への税源移譲も含め、地域の産業(お金を生み出す仕組み・税金を払ってもらえる仕組み)を振興せざるをえない。
こうして、暮らしやすい地域を作るために、政治にも参加して口を出し、助け合いをして身体を使い、さらに地域の産業を振興させないとこれらが回らないということを地域住民が理解すれば、そこから自然の連帯感、一体感が生まれるはずである。
昔、「タバコは自分の町で買いましょう!」というコピーがたばこやに貼られていたと記憶するが、地域住民の消費行動が自分たちの地域を良くすることにつながるということをもっと認識させるなど、税金の支払いとそれによって得られるサービスを目に見えるようにする必要もある。
医療についても同じである。地元の病院・診療所にかかることは、地元の病院を守ることになる。他地域の病院で普段高額医療を受け(医療費を支払って)、夜中の緊急診療のみ地元に依存するというのでは、地元の病院はたまらない。こうしたことが理解されれば、住民は、地元の病院を守るために、自分たちが何をして、何をしてはならないかを理解するはずだ。
地域住民の意識を変え、地域政治に積極的に参加してもらうにあたっては、あなたが何をしたら、どうなるかを自分のこととして考えられるような情報提供をすることが必要である。
1.地域住民に対し、暮らしやすい地域とはどういうもので、それをどういう段取りで叶えていくのかを示す必要がある(地域住民が一緒に考える)
2.たとえば、こういうサービスを提供するには、財政がこうでなければならず、それには、消費税を上げるでもよいし、産業振興が必要であることでもよいし。それには何をしなければならないか(たとえば、地元で購入することがどういうメリットがあるか)を分かりやすく示すこと。
3.あなたの10年後はこうで、その暮らしを支えるには、何が必要で、それにはあたなは何をしなければならないかを分かりやすく理解させること。
今の姿から問題点を解決するのではなく、将来の望ましい姿から、やらなければならないことを「具体的に」示すこと。
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