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August 31, 2010

地域自治組織とコミュニティ(中田實さん)

引き続き『ヘスティアとクリオ』2007年3月号の表記について紹介する。

1.住民自治区の内容

①事務所が置かれ、長(官吏)が置かれる。地域協議会を置く(多様な意見が適切に反映させるよう配慮し、市町村長が選任する)。

②組織の基本的性格は、市町村の内部組織であって、住民の自治組織ではない

近隣政府という政府が承認されれば分権はあるが、あくまで行政区的なもの。コミュニティとは違う。

③自治体の判断で法定外の制度を多様に構築することを容易にあうる制度がつくられた(条例による設置)。

*上越市では、協議会委員の数を旧町村の議員数とし、委員を公募した。応募者が定員より多い場合には、自治区住民による選任投票を実施する。定員を満たない場合には、自治区で推薦をする。これらを市長が選任するという手続きにした。

つまり、法律では、「首長が選任する」となっているが、その前に住民自治を踏まえる仕組みを作った。住民代表制を持つことから、委員の自覚も高く、責任感もあるという。

*新潟市では、事務所・所長を置くと経費がかかるので、法定外の組織にするとのこと。

④構成員

・地域自治区:その区域内に住所を有する者が「当然に」構成員となるとされており、任意団体ではない。しかし、法律には、全員入るという規定はない。

⑤活動内容は、旧自治省の人の解説によれば、ほとんど住民組織が扱っている問題がすべて入っている。

○地域自治区は、合併された側への配慮。合併した市はどうするか。

・恵那市では、自治区は1つだが、旧恵那市には協議会支部を作りのちにすべて自治区14のになった。

・豊田市では、もともと豊田市に中学校区でコミュニティ会議という組織があったので、これを活かし、合併した先も含め、26の地域会議が置かれている。

○協議会の意見が住民を本当に代表しているかどうかが疑問。→協議会の提言は、首長が勘案し必要なときには適切な措置を講ずることになっている。

2.住民の代表性をどう考えるか

①パブリックコメント

②間接代表制である地域協議会で意見を聞く

③まちづくり条例をつくる(市長がまちづくり協議会を認定する、協議会の提案は拘束力を持つ)。81年から。条例には;

(1)地区住民の大多数により設置されていると認められるもの、(2)その構成員が住民等、まちづくりについての学識経験を有するもの、その他これらに準ずる者、(3)その活動が地域住民等の大多数の支持を得ていると求められるもの。→誰の意見を聞いたら地域の意見を聞いたことになるのか。

○自治会費滞納事件:最高裁(公と私のねじれ:参加自由と住民の代表)

自治会とケンカして脱退しても、共益費は支払うべし。(自治体は加入自由なので、脱退は自由だが、共益費の使い方について意見を言うチャンスを失う)。草取りなどは、参加している人のためだけにやった。しかし、「反射的利益」として参加していない人も利益を得た。

3.自治会の性格

・全体としてとらえるなら自治会ではないのか。任意団体、アソシエーション型では、代表権を持ちえない。自治会が自治体に近づいていくのではないか。縦割り補助金から地区一括交付金へ。「生活地自治体」

4.自立したまちづくりの事例

長野県阿智村

地区ごとのに地域計画をつくって、その事業をどう進めるかということを地域で議論している。事業ごとに、地区が行う事業、村と協働で行う事業、村が行う事業と振り分けて計画づくりをやっている。地域の力量によって、ある地域では村がやるのに、別の地域では、協働でやることになっているがそのままにしているとのこと。

広島県高宮町川根地区

水害があって、全戸参加型の振興協議会を結成。農協が撤退して店がなくなると、皆が出資してふれあいマーケットをつくるなど。過疎の村で農業を維持するために、圃場整理をする、歳をとっても農業にかかわれるようにするための基幹部分を担う仕組みをつくっている。19の集落が地区ごとに振興懇談会を毎年一回やっている。最初は行政の提案で始め、文句ばかり出たが、2年目からは町と地区との共催・共同事業とし、みんなで考える仕組みにした。行政の限界もわかる、地域で解決することは地域で、行政で、協働で。

○自立というのは、地域課題の正確な理解、住民自治の力量の自覚、住民相互と住民と行政との連携・協力関係の形成ができること。自立することによって行政から離れるのではなく、行政と連携できる。

○小さな自治(地区)での住民自治の活性化が基盤となって大きな自治の確立を支える。

フランスでも、市民の政治関心の低下、投票率の低下があり、これをどうするかということで、住民自治組織を再編成し、近隣民主主義の制度を作っている。

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地方分権化と地域コミュニティ(小原隆治さん)

いくつか前の記事で『ヘスティアとクリオ』のHPを紹介した。そこの2006年3月号に載っている記事から、ポイントだけ紹介する。

1.市町村合併

○明治の大合併:近代国民国家の土台づくり

300から500戸を基準にして一つの町村をつくる(内務大臣訓令)。戸籍の編製をし、それを基に、徴税、徴兵、義務教育を行う。明治19年に地方官官制(勅令で中央が地方をコントロールする体制の背骨ができる)で地方長官である府県知事が地方をコントロールする。明治21年に市制町村制、23年に府県制で合併が実施される。7万2000弱の自治体が1万5000に。

○昭和の大合併:戦後体制の土台づくり

新制中学を担うにはどの程度のサイズの市町村が適当か、人口8000人を基準に合併を進める。町村合併促進法。1万5000が当時1万くらいになっていて、それが3000くらいになった。

○平成の大合併:理念なき合併

市町村を1000にするというのも根拠なし、人口1万人以上に(2005年5月に明示化されたものの、五目基準といわれるほど、理念がなく後知恵)。合併の理念や数値の根拠が不明確。

理由としては、①自治体を強く

1999年に地方分権一括法の改正、機関委任事務が自治事務へ(これは主に府県、政令指定都市、中核都市、特例市で、市町村は蚊帳の外)、だから自治体を強化する必要があるというが、市町村にはただちに及ばない。

②広域行政の必要性

広域行政の必要性(介護保険、語も処理、広域消防)がうたわれ、そのサイズとしては10万人をイメージしている。

③財政再建。(疑問)

平成の合併で約3000の自治体が1800程度に(平成22年3月末では1727)。

・まだらな合併の進捗状況

合併が大いに進んで、市町村が10台になってしまった、香川県、富山県など。東京都(減少率2.5%)、大阪府(2.3%)や北海道(15.6%)などは進んでいない。減少率が最も高いのは、広島県(73%)、愛媛県(71%)。

・小規模自治体が残り、広域行政の必要性を実現したとはいえない

まだ1万人以下の自治体が26%くらいある(457/1727)。1万人以下の自治体が残っている比率が高いのは、北海道、長野、高知、沖縄。

また、合併したものの、10万人未満の自治体が9割(数えてみると政令指定都市の区を除いて263が10万人以上なので15%)。

2.地域コミュニティの解消戦略(反対勢力を封じ込める工夫、旧自治体の安楽死させる方法)

①財産区(明治の大合併で大きな抵抗にあったのが部落有林野の統一→これを残すために財産区を設けた:要チェック

②選挙区(自治体議会の選挙は基本的に大選挙区制度だが、条例に基づいて選挙区をつくることができる。そこで、昭和の大合併の場合は、旧行政村単位に選挙区をつくって、旧行政村単位で新行政村の議員を選出するというやり方をした。

③地域自治組織(平成の大合併。合併特例区:法人格あり、機関限定と地域自治区:法人格なし)。2007年10月のデータで、地域自治区(一般)17団体、地域自治区(特例)38団体、合併特例区6団体となっている(合計58、合併市町村件数564)。

これは、合併を進めるためのアメではあるが、「小さな自治」を育てる芽になるかもしれない。

3.自治基本条例

○何故条例をつくるのか

機関委任事務が自治事務となると、自治体は、お上に判断を仰ぐのではなく、自ら判断しなければならない。そこで、理念、手続きなどのガイドラインをつくろうとなった。

参加と協働ということが言われはじめ、これを合わせた理念、参加手続き、協働手続きを定めるという要請もあった。

○基本条例≒自治体の「憲法」

憲法は、人権論と統治機構論からなる。人権論が大切で、それを守るためにどのような統治機構をつくるか。政府に人権をどう守らせるか、守らない政府であれば、その政府は取り替えてしまう。その約束事を決めたのが憲法。

◆松下圭一の二重信託論

①従来の行政法学:国民が政府に信託をする。政府が憲法に基づき、政府の産物として作ったのが地方自治体である。

②二重信託論:国も自治体もそれぞれの政府としては独自の地位を持っているのであって、国民が政府としての国に信託をするように、自治体住民は政府としての自治体に信託を行う。信託の約束事を定めたものが憲法であるとすると、国の憲法と同様、自治体の憲法として自治基本条例をつくろう。

◆協働(権利と義務)を前提にした憲法とは

市民が政府に信託し、働くのは政府である。政府が我々の人権を守らない場合は、その政府はかえてしまう。→ところが「協働」ということになると、市民が政府に信託するのだけれど、その信託した政府と一緒に市民も働くとなると、市民には、権利だけではなくて権利と義務が発生することになる(ロックではなくルソー型)。

立憲主義:権利中心にして憲法を構成し、それを守るのは(市民ではなく)政府である。

ところが、憲法を守るのは、政府としての自治体だけではなく、私たち市民も守らなくてはならないということになる。→これが際どい(この意味が私には良くわからない)。防災とか子育て、介護、環境、まちづくり、これを地域住民、地域コミュニティが行わなければならない、責務として構成していくとなると、非常に息苦しい体制づくりになってしまう

現実の問題として地域コミュニティをどのように編成していくか、町内会・自治会を使うのか、現在持っている体質(行政の下請け、首長や議員の集票マシン)をどうするのか。

自治基本条例ではなく、自治「会」基本条例になりかねない、という危険性がある。条例づくりに参加してくるコアメンバーが自治会・町会関係者、行政や議会からの働きかけなどにより、ボスが入ってくる。→草の根保守主義を強化することにならないか。

憲法改正論→権利の体系(立憲主義)ではなく、義務の体系として再構成しようという動きにつながりかねない。

ここが良くわからなかったのだが、ここの記事(2006年9月)で良くわかった。専門家というかそれぞれの分野の知識を持たないと見逃すところだ.

あるテレビ番組で宮台さんが説明した「憲法とは本来、権力者が国民に命令を与えて国民を束縛するためにあるものではなく、国民の側から権力者に命令を与えて、権力者を縛るためにある」ということが立憲主義といわれる考え方のようだ。ここにも説明がある。

では、住民基本条例は、「憲法」なのだろうか。

住民の側から権力者に命令を与えて縛るためにあるというよりも、市民が主体となって地域を運営するにあたって、市民と議会、行政がどのように協働するか、お互いの権利と義務を確認しあうものであって、憲法(市民が国や自治体を縛る)ものとも、法律(国が市民をしばる)ものとも、性格が異なるのではないのか。共同宣言のようなもの?

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August 29, 2010

地域イノベーションを考えるにあたって

地域イノベーションについて考えるにあたって、

1.最初は、まちおこしや地域再生事業などの具体的事業を検討した。

しかし、多くが、数年経つと立ち消えてしまっていたり、事業に携わっている人以外には影響を及ぼしていないように見受けられた(きちんと事例をすべて追いかけて分析してはいない)。

この理由を探るなかで、

(1)資金の問題

①事業の資金が国の補助金であり、補助事業が終わるとともに終了してしまい、お金を別途調達して続けることがないらしい、②何かやりたくて補助事業を活用した場合は事業の成果が残るが、お金が欲しくて補助事業のスキームに合わせて計画を策定しても、急ごしらえであって、地域の本当の課題解決につながらず、補助事業が終了すると消えるだけでなく、トラウマなど地域に傷を残すこともある。

(2)社会変革への意欲

また、一生懸命やっている事業でも、たとえばアメリカの社会起業家の評価基準でチェックしてみると、

①カリスマリーダーがやっているが、組織化などがなされていないので、持続性に欠ける(田舎では、組織化するにあたっても人材がいないということもある)

②首長が中心になって取り組んだものの、少ない予算規模のなかで、右に傾きすぎると、首長の任期終了後、反対勢力が出てきて事業が途絶えてしまう(道半ばで終わってしまうこともあるし、そもそも計画がその地域にとって無謀であることもある)

③その地域限定でものを考え実行するので他地域展開しにくい(地方自治体の第三セクターや農協など)、当事者にも地域発のイノベーションで社会全体を変えるという思いがない

④既得権益を守っているなかでの小手先の改善であり、地域の課題を本格的に変えていこうというスタンスではない(商店街の活性化で、イベントや歩道の修復など、地域の中でその商店街に求められているものが何か、もしかすると自己否定につながるかもしれないことまで踏み込んでいない)。

2.社会起業家が輩出されればよいのか。

では、アメリカの社会起業家のように、ある課題を解決する社会起業家(社会を変える意思を持ち、持続可能なビジネスモデルを構築)が次々と誕生したら、地域は良くなるのだろうかと考えた場合、それはそれで良いが、地域の活性化にはつながらないような気がしてきた。

アメリカの社会起業家も、最初はある特定の地域で、貧困やそれによっておこる教育格差、健康格差などに取り組む。そのモデルが良いと、寄付などが得られ、全国展開、世界展開となる。そういう意味では、日本のある地域の課題を解決する社会起業家が出てくることは望ましいし、それがなんらかの方法で全国展開すれば、社会変革は加速されるだろう。

たとえば、地域の資源を活用した地域産品のブランド化、マーケティングの手伝い、販路開拓をする社会起業家が生まれるなどだ。こうした動きがないわけではない。あるいは、ある地域で開発された病児保育の手法が全国の自治体に受け入れられ、支援を受けて全国展開するなどだ。

これはこれで素晴らしいことだが、なんだか、地域の活性化とは違うような気がする。地域の住民が主役で、この人たちが皆イキイキとすることがなければ、社会起業家がある課題を解決しても意味がないのではないか。確かに、たとえば、病児保育が普及し、お母さんがイキイキと仕事と家事を両立させられれば、地域の所得も増えるし、お母さんもイキイキするので良い。しかし、病児保育は、あくまでも地域の人たちの生活を支えるサービスの一つに過ぎないのではないか。

3.地域住民が自分たちの暮らしを良くしたいと立ち上がる。

つまり、主客転倒のような気がするのだ。確かに行政サービスが行き届かないところを、社会起業家が行政よりも安く良いサービスを提供するのは良いことだ。しかし、行政や社会起業家がサービスを提供する前に、主役である地域住民が自分たちが主役であり、こういう暮らしをしたいのだという明確な思いがあるべきなのではないか。

そんなことを考えているうちに、日本では、主役である住民が受け身で出来合のサービスを受けているだけなのではないかと思えてきた。民主主義が根付いていないのが問題なのではないか。

そこで、まず、自治について考え、そうなると、多様な生活スタイルや考えの人が暮らす地域で、合意を得るとか、どのようにガバナンスしていくのかということが気になってきた。

そこで、少し調べてみると、宮本常一が西日本では、かつて寄合というのがあって、合意ができるまで延々と話し合うというのを見つけたり、町内会の位置づけなどの研究や、討議する民主主義の研究などがあることを知り、紹介してきた。

前の記事で紹介した山浦晴男『住民・行政・NPO協働で進める最新地域再生マニュアル』では、宮城県田代島での寄合ワークショップの経緯が書かれていて、当初は、諦め感と行政への文句(陳情)だけであった住民たちが次第に本当は諦めていない自分に気づき、こうなってくれたらという思いを話だし、その後自分たちで何かしようと内発的に動き出す(お金を出す、汗をかく)経緯が紹介されている。

この田代島で起きたことこそが、地域活性化なのではないかと思えてきた。

田代島では、過疎が進み、皆諦めきっており、島民もバラバラになっていたのが、島をなんとかしたいというようになり、皆でやれることをやってみようと動き始めた。これには、著者らファシリテーターの役割が大きい。

日本中の地域で、住民たちが自分たちの地域に愛着を持ち、こうありたいと夢を描き、その実現のために、自分たちの力でなんとかしようと知恵を働かせ、汗をかく。その結果、皆イキイキとしはじめる。自分たちでどうしても不足するところは、行政に働きかける。これが自治であり、民主主義だと思う。

山浦さんの本には、小さなエリアにおけるさまざまな取り組みが紹介されており、こういうことができているなら、大丈夫なんじゃないかと思えてくる。もちろん、これらは大海の一滴なのだろうが、日本のあらゆるエリアでこうしたことが行われれば、皆顔が明るくなるに違いない。

日本津々浦々に、こうした自治の取り組み(受動から能動へというシステム変化)が伝播すれば、これは、地域イノベーションといえるだろう。その意味では、山浦さんの地域再生マニュアルは、いろいろな地域に応用可能であり、ある種の発明かもしれない。たとえば、蒸気機関を誰かが発明し、それが船や列車に応用されてイノベーションが広がっていったのと同じことだ。

同じ生産要素(住民)でも、気づき、やればやれるなどの刺激を与えることで(生産関数、エネルギー源の変化)、受動から能動に変わり、明るくなったり、一体感が生まれたり、愛着が増したり、楽しくなり、生産性(地域が活性化される)があがる。

同じ綿糸をつかっても、人力ではなく「動力機械」を使うことで生産性が上がるのと同じ。同じ従業員でも、QCサークルなどで動機づけをすると工程がカイゼンされて、不良品が出ないのと同じ。あるいは、もっと創造的で、研究開発部門でいろいろな人材がフリートーキングすると新しい発想が生まれるのと同じかもしれない。

○受動から能動を経験した地域は、これがDNAとなって、最初の事業だけでなく、次々と新しい発想で事業展開する。

○受動から能動を経験した地域は、当初コアメンバーだったが、遠巻きに見ていた人にも影響を与えて、周辺部分から新しい取り組みが生まれる。

○受動から能動を経験した地域が話題となり、I・Uターンなど外部から人がやってきて、新しい改革が始まる

・・・なんか、こんなことがあってくれると、綿糸の革新が進み生産性があがると、綿織物の革新が促され、あるいは、蒸気機関が電力になるなどのような玉突き現象が起きるようで面白いのだが。

こうした地域の受動→能動の動きが周辺などを巻き込んでイノベーションを加速させていくことと、町おこしや社会起業家との関係はどう考えたらよいのだろうか。地域の受動→能動の動きに刺激されるなかで社会起業家が生まれやすいとか、逆に社会起業家が動くことがきっかけで地域の能動化への動きが起こるということはあるのだろうか。今までの事例の経緯では、社会起業家だけが動くと、地域との間には溝があったりしそうだ。一方、これを上手く外部の目などとして活用しようということが地域内部から芽生えればよいのかもしれない、あるいは、一緒に考える場を設定するなどの仕掛けが必要なのかもしれない(山浦さん、木原さんがやっているように)。

4.気になっていること、そのほか

○山浦さんの事例は、課題に当面している地域の事例だ。確かに、日本中本当はどの地域も課題を抱えているのだが、合併に当面している、人口流出が凄い、高齢化が凄いなどの逼迫した問題に当面している地域が事例となっている。これは一周遅れのトップランナーなのかもしれない(受動から能動へと変わるという意味で)。しかし、こうした真面目な取り組みだけでなく(取り組みは楽しくないと続かないのだから、楽しいのだろうが)、課題解決ではなく、楽しくってしょうがなかったらこうなったというような事例と対応を考えてみたい。

たとえば、実際には一体感がない地域は課題ではあるのだが、その課題に気づかなかったのだが、アルビレックスを応援するなかで結果として一体感が生まれたとか、そこから新しいビジネスが生まれたなどのイメージだ(新潟がそうかどうかは分からない、たとえばである)。

○もう一つは、子供たちが素直に楽しい思い出を持ち、それが記憶に残って、その地域を愛するという視点である。昔の地域のお祭り・盆踊りはそうだったはずだ。これを新しい時代にどう作り出すか。これには、遊んで楽しかった(消費者)というだけでなく、自分たちがやり遂げた(達成感、一体感)というような体験と記憶(文化)をどうつくりあげるかだ。これは、スリルや悪事も含む。

○地域(東京以外)の当面の切実な問題は、若い人が働ける場所がないということで、これが高齢者や人口減少を生んでいる。日本中人口減少のなかで、どのような暮らしをイメージするのか、グローバル化のなかで、人々がどうやって食べていけるのかこの具体的イメージを描かないことには、ビジョンやイノベーションの姿を描くことはできない。

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地域再生マニュアル(山浦晴男さん)

山浦晴男『住民・行政・NPO協働で進める最新地域再生マニュアル』朝日新聞出版2010は、ファシリテーターが入って地域で寄合ワークショップをやることで、当初は、諦め感と行政への文句(陳情)だけであった住民たちが次第に本当は諦めていない自分に気づき、こうなってくれたらという思いを話だし、その後自分たちで何かしようと内発的に動き出す(お金を出す、汗をかく)経緯が紹介されている。

この本では、ファシリテーターの役割や諦めきった地域をどのように燃え上がらせるかのノウハウが記されている。この手法は有益そうで、今すぐにでも私も勉強して地域再生の現場に立ち会いたいものだ。

事例として、和歌山県田辺市龍神村(地元産品を活かす)、山梨県南アルプス市藤田区(防災)、和歌山県那智勝浦町色川地区(Iターンによる草の根まちづくり)、山梨県北杜市清里地区(住民参加の駅周辺開発計画)、埼玉県江川流域づくり、和歌山県紀の川市靹渕地区(伝統作物の地域ブランド化)、和歌山県北山村(筏と特産みかん)、和歌山県広川町中村地区(耕作放棄地を菜の花等へ)・・などなど。

第四章には、まとめのが書いてある。抜書きしておく。

1.縦割りの効用が負に転じてしまった地域社会

①横断的組織の後退(町内会、青年団、婦人会など)。これを補うためにNPOが必然的に出てきたのでは。

②地域を束ねる人の力の後退(名士や篤志家、実力者、知恵者、古老、村長などの影が薄くなった。地域エゴというが、自分たちの地域を守ってきたのではないか、こういうリーダーを地域が守ってきたのではないか)

③平成の合併に伴う地域に密着した行政力の後退

④地域の主体性で縦割り支援を活かす。

2.地域再生に向けた新たな協働の仕組みが必要

①地域における「伝統と創造」の仕組み

滋賀県甲良郡北落集落では、伝統的な集落内集団に加えて、1990年にむらづくり委員会が発足、伝統的なものには年齢制限などがあるが、制限がなく伝統的な集団と兼任しているので伝統的な集団と委員会とが連携しやすい。委員会は、村落振興、生活文化、環境、健康推進、地域用水の部会があり、伝統的集落内だけでは解決できない課題を解決してきている。伝統的な集団が守りの自治であるところ、委員会が攻めの自治を担っている。

②外部へ支援組織を拡大する

地域出身者(地縁者)、孫などの血縁者、テーマ縁(田代島だと猫の島縁)、ニーズ縁(特産品を購入という形で支援してくれる人たちなど)

③NPOと住民、行政と住民の協働に欠かせないこと

地域社会は「生き物」であり、一人ひとりと同じように人格を持つ存在である。育った地域は自分そのものである(育った地域と自我が不可分になっている)。山川田畑集落は、客体としての存在だけでなく、自らの存在と切り離せない存在である。自分たちの土地に何の挨拶もなく入り込んでくる部外者(耕作放棄地を耕してくれるにせよ)への複雑な気持ち。

④やる気の継続要件

協働の仕組みを作りこんだのち、関係者のやる気を継続していくかがポイント。地域再生には10年、100年の息の長い取り組み。困難に取り組みながらも、取り組んでいる仕事が無条件に楽しいこと。取り組んでいる対象に興味、関心を抱いて面白いと感じること。成し遂げた成果が第三者に喜ばれること。取り組んだ人々が儲かるという果実を得られること(お金だけでなく、充実感や第三者からの評価でもよい)。

いろどりの成功は、これが揃っているから。

取り組みの成果が小さくても良いから見える形にし、成果を積み重ねていくことでやる気の再生産につながる。小さな成果を積み重ねながら大きな成果につなげていくことで、遠巻きに見ていた住民を巻き込むことも可能となる。

3.どの地域もが取り組める方法が必要

①ビッグな成功事例に学ぶ

黒川温泉の成功事例(当事者は運がよかったというが)は、成功すべきポイントを踏まえている。「若者、よそ者、馬鹿者」と形容される異質後継者集団(Uターン、Iターン婿養子)が地域資源の宝を見定め(露天風呂、田舎の商品化)、地域経営を行った。成功には10数年かかっている。

②立ち上がり始めた事例に学ぶ

小さく生んで大きく育てる。地域資源に着目。一点突破全面攻略。マイナス点に着目し、そこから立ち上げる。・・地域再生の起点。

③運が良かったから運を導く方法へ

成功事例を仮説として援用し、二匹目のドジョウ獲得を展開、寄合ワークショップを加味することで加速化。

④誰もが取り組める方法の基礎づくり

ファシリテーターの方法、KJ法など

4.旗揚げすれば、周りが応援する時代の到来

①旗揚げしない地域は「悪循環」の疲弊サイクルへ

地域がその気になって旗揚げして取り組めば、関係者やそれ以外の人たちまでもが応援する動きが出てくる。NPOはご縁のできた地域で活動に取り組む方がやりやすい。元気な取り組みはマスコミも取り上げる。マスコミが取り上げれば、応援する人も出てくる。

②旗揚げした地域は、「善循環」の再生サイクルへ

③旗揚げできるかはリーダーの力による

住民が地域に目を向ける機会を望むリーダーがいるかどうか。あるいは、そのようなリーダーを地域のなかに見つけ出し、働きかけを行うことがワークショップを行う上で大切。

地域自治経営と企業経営が大きく異なることは、後者は、トップの独断でも事業を経営できるが、前者の場合、リーダーが独断で物事を判断し決めても、住民はそれについてこない。ついてきたとしても表面上だけで、本心は後ろ向きである。

伝統的な行事なら、リーダーの伝統的なやり方に従っていればことはすむが、時代の状況変化に対応して地域再生をはかろうとするなら、住民の参加を促し、住民を巻き込みながら判断、決断を導いていく、そういうリーダーが必要になる

④後ろからバッサリ切られない仕組み

寄合ワークショップで取り組むことで、リーダーは安心して旗をあげることができる。住民の意見集約と合意形成に基づく結論を錦の御旗にできるからだ。これにより、実施の途中で、住民にそれは違うと後ろから切られることはない。

5.10年先、100年先の夢を描く

①江戸末期以来の大転換期に立つ地域再生

地域再生の基盤整備は、住民の「内発力」の醸成にあるのではないか。

・離島振興法が2002年に改正され、それまでの「後進性の除去」から「価値ある地域差」へとコンセプトが180度切り替わった。価値ある地域差は、各離島が固有に有する「地域遺伝子」の発現の作業であり、それは内発力をおいてありえない。

②伝統文化・技術レッドデータブック

基盤整備=ソフトの整備の本質は日本文化の再生である。NPOかみえちご山里ファン倶楽部は、上越市西部山間地の桑取谷を中心に里山里海の地域振興、環境保全、文化・芸術の伝承・育成に取り組んでいる。野生生物のレッドデータブックの発想を援用して、地域で営まれている生活技術や文化などを調査し、誰がそれを持っていて、年齢はいくつか、を合わせて記載するという取り組みをした。絶滅のおそれがある知恵や技をスタッフが体験し、受け継いでいく取り組みをしている。

地域の礼儀(お酒、お茶の注ぎ方、神事での榊のあげ方)、食(みそ造り、そばの打ち方、マムシの食べ方)、農(田んぼの作業、芝刈り機の使い方)、森(炭焼き、自然薯の掘方)、川・海(投網の方法、鮭のさばき方)などなど。

和歌山県色川地区では、2008年から全国から若者を集めて「百姓養成塾」を開始、2009年からは「むらの教科書づくり」も始めている。ほかにも

立教大学大学院教授の内山節氏は、東京と群馬県の上野村とを往復しながら、村の暮らしの哲学を紡ぎだす仕事をしている(インタビュー)。2001年から村の仲間と「山里文化祭」を始めた。『「里」という思想』新潮選書、2005年。村人のまなざし「春になった畑が自分に耕作を促し、伸び始めた芽が村人に間引きを促す」。上野村総研

③連帯感の再生と集団の「生き物化」

ワークショップを経ると、住民の連帯感が生まれる(連帯感が醸成されている)。ワークショップは「具体的な他者とのかかわりのなかで、他者のまなざしを自分のものにしながら、主体性を発揮する」場である(先の内山氏の著作を援用)。

これ「 」は、討議型民主主義の説明でも聞いたような気がする

この連帯感の再生が地域再生の出発点となる。参加者に書いてもらった感想(次第に連帯感が生まれているなど)を、ワークショップの主催者の参考とするだけでなく、参加者にもフィードバックし皆で共有化する。これにより、参加者の集団を「生き物」化できる、自ずと内発的な取り組みが起動する(参加者集団の自己組織化)。

ここは、大事なところで、そうなんだろうなぁとは思うが、まだ本当には分かっていない

④100年先を論じあい、夢見るとき

「10年先、100年先の自分たちの地域の礎づくりをめざしましょう」と、取り組みで配布する資料の最後のページにこのメッセージを記している。

これは、とても重要なことだ。札幌でもIT社長たちに呼びかけたが、乗ってきてくれなかった(明日の自分の会社のことで手一杯、ライバルと一緒に商売の話をしたくない・・)。これはセオリー・オブ・チェンジでバックワード・マッピングをするのと通じることだ。今から発想するのではなく、未来から発想する。・・・・というか、自分の将来を描いて、今何をしなければならないかは、まさに、今の私の課題なのだが。

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都市住民と地域社会の関係

大槻知史「生活構造論の拡張による『都市における住民と地域社会の関係』についての新たな分析枠組みの提示-『地域互助』による生活課題解決の可能性を探る基礎として-」『政策科学』2003年9月という論文をネットで見つけた。

近年、防災、防犯、高齢者支援、子育て支援など都市における住民の生活課題を行政による「公助」だけでなく、地域社会による「互助」の活用により解決しようとする取り組み・主張が多くみられる。しかし、人間関係が希薄であり、住民の多くは血縁関係や社縁、関心縁などにより多様な人間関係のネットワークを築いていて、地域社会は各住民にとって選択対象のワン・オブ・ゼムでしかない。このため、地域互助への課題な期待は問題があるのではないか。

地域社会研究には、都市部の地域社会の不完全性を前提に、「都市における住民と地域社会との関係」についての詳細なモデルを提示し、地域互助の活用による住民の生活課題の解決を検討する際に、その実効性を判断するための材料を提供することが必要

しかし、都市社会学では、①地域社会が住民全体を包括する存在であることを前提としている、②全住民が地域社会にコミットすることを理想とする視点(地域社会の包括性、同質性、閉鎖性を暗黙の前提に、地域社会の統合のみを模索する)が抜け切れていない。→このため、住民の多様化、重層化が進む現在の都市部の現状を踏まえたうえで、「都市における住民と地域社会との関係」についての十分なモデルを提示できておらず、現実的な「地域互助」活用の取り組みを行うための要請に十分応えていない。

→そこで、筆者は、現代の都市において地域社会の断片化・異質化を前提に、「都市における住民と地域社会との関係」について新たなモデル構築を行い、住民の生活課題の解決手段として地域互助の活用を検討する際の新視点を提供することを企図している。

この考え方は納得・賛成なのだが、この論文は、その前段として、これまでの都市社会学研究の分析枠組みについて展開と課題を整理し、新たなモデル構築のための分析アプローチの提示(生活構造論の拡張)を試みるにとどまっており、論文の内容のほとんどは、これまでの研究の整理であり、それはそれで興味深いのだが、答えまでは出ていないので読後不満が残る。論文は、2003年なので、もっと考察が進んでいるのかもしれないが(立命館大学の先生で、防災や都市景観、文化遺産を市民が守り補修するといったことを研究されているようだ)。

生活構造:個人が都市社会の中で取り結び、所属している社会関係、社会集団の組み合わせ。社会の外部から社会構造を記述するのではなく、住民個人の視点から、地域社会の社会構造を捉えるという視点。

生活構造論の拡張:構造だけでなく、その構造を構築することにより、住民が何を得ているのかという機能を合わせて分析する。

・生活構造研究は、住民と地域の関係を「個人-集団・組織」レベルでのみとらえており、「個人-個人」レベルでの人間関係の集合という視点からとらえていない。また、主として地域内の集団との関係分析のとどまっていた。

パーソナルネットワーク研究:都市度(人口密度)の高い地域ほど他者との接触可能性が高まり、似たようなライフスタイルを持つ者同士の結合が生じやすい(フィッシャー)。都市度よりも、居住歴や学歴等都市を構成する住民の属性がパーソナルネットワークを規定する(森岡)。→生活構造論に欠けていた「個人-個人」レベルの関係や地域社会外部との関係を埋めるもの。

○著者が提示する分析のアプローチ

1.人間関係からみた住民と地域社会との関係の構造分析

住民のパーソナルネットワークの構造分析を行い、その中での地域住民とのネットワークの位置づけを分析する。

2.人間関係からみた住民と地域社会との関係の機能分析

ソーシャルサポート概念の援用により、住民が自らの持つネットワークから受けているサポートの実態を分析し、その中で地域住民とのネットワークからネガティブサポートを受け取っていると感じている住民に着目し、その規定要因を明らかにすることで人間関係の側面から地域社会活用の可能性について検討を行う。

3.住民の人間関係と地域内諸集団への集団参与の関連分析

住民のパーソナルネットワークの在り方が住民と地域内諸集団への集団参与の在り方にどのように関連するのかを分析する。

具体的には、住民の人間関係の構造(地域内外でのネットワークの数、頻度、対象)および機能(特にネガティブサポート/ポジティブサポートのどちらを受け取っているか)の在り方と、①地域内諸集団への参与、②地域内諸集団に期待している機能/享受している機能の間にどのような関連性があるのかを分析する。

地域内諸集団のタイプ(自治会・町内会など包括的で参与への強制力が強い組織、趣味サークルなど選択的で自由度の高い組織、PTAなど問題解決指向の高いアソシエーション型組織)により、住民の人間関係との関連がどのように相違するかを分析する。

以上、分析の方向性が提示されており、これをちゃんと積み重ねれば、現代における都市での地域互助を活性化させるためのヒントが得られるようには思うが、その後、こうした分析が進んだのか、その結果、どのような地域互助活性化の具体的方策が見つかったのががこの論文からは分からない。

研究とは別に、具体的に地域の町内会とアソシエーション型の組織(PTA、趣味のサークル)と個人のネットワークが共闘して地域の課題に取り組むには、どうしたら良いのか。

奈良で始めたように、まずは、地域の課題について考えるための場を設け、そこに町内会だけでなく、多様な組織を集めて議論するなかで、得手不得手を出しあい、役割分担するなどして地域力を高める方向を模索することは可能だろう。

地域にとって、内外に多様なネットワークを持つ人の存在や、個人でもそれぞれユニークな特技を持っている人の存在は、有意義であり、ネットワークや個人のワザを皆が知り合い、必要に応じて助けてもらう/参加させてもらうということがうまくできればよいはずだ。

それには、信頼のおける地域のリーダーやガバナンスが必要かもしれない。種々雑多な人や組織を上手くまとめあげられるだけの器量を持つ人が町内会に居て、地域のビジョンを皆が共有するようにすれば、これは可能かもしれない。ただ、その場合、一般化できず、リーダーが凄いということで終わってしまうかもしれないが。

サンシティの管理組合がこうしたことをやっていてくれるとケースとして面白いのだが。たとえば、広報や皆への周知のためにHPを持っているが、これはその分野を得意とする人が自発的に手掛けたとか、緑の伐採にあたって、詳しい人が伐採のノウハウを教えたとか、あるいは詳しい人を外部のネットワークに持つ人の力が活用されたなど。駐車場で得た利益で祭りをやり、マンション外の周辺地域の人にも祭りを解放したり、地域全体の防犯に協力するとか教育に協力するなどのことがあるかなど。

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August 28, 2010

町内会の見方(日本的文化、行政の末端、自治体の原型、二重構造)

前の記事で、アメリカに比べた場合、日本の町内会の普及率が高いことについての評価を紹介した。

長田攻一「地域社会の二重構造と都市町内会」早稲田大学大学院文学研究科紀要哲学・史学編所収1990年をネットで見つけたが、ここでも、町内会を認め直す見解が書かれていて、面白いなぁと思った。

この論文自体は、町内会をめぐる従来の捉え方にみられる争点を整理し、それに検討を加えており、学術的な素養のないものにとって非常に読みにくく、おそらくちゃんと理解できていない(行政学者と社会学者による捉え方の違いなど)。私が理解した範囲で、面白いと思ったところだけ紹介する。

面白いと思ったのは、一度廃止されたはずの町内会が新たに復活していること、この現実に学者たちが着目し、議論や研究が重ねられてきたということだ。

その背景には、学者の間で、町内会は前近代的なもので、都市化の進展に伴い衰退するはずであるという定説があったためだ。定説と現実とのギャップを前に、学者たちが納得の行く答えを見つけようとしてきた。たとえば;

・日本人の集団原理の一つ(文化の型として把握する)

・町内会を地域権力構造としてみる(地方行政における末端事務の補完、圧力団体)

・町内会を生活集団としてみる

・町内会を地方自治体として捉えなおす(私生児扱いされながらも、近代的自治制度の不行き届きな側面を補完し、結局、地方自治の二重構造を生み出している)

○戦前からの町内会の歴史

・昭和15年内務訓令17号「部落会町内会等整備要綱」によって、戦時下での国民統制と戦時事務の徹底化をはかるために、町内会が全国的に整備されるとともに、大政翼賛会の傘下に入り、昭和18年の市町村制改正により、町内会が名実ともに国家行政の末端機構として法制化された。

・戦後まもなく、占領軍GHQの強い要請の下で、政令15号によって町内会等の隣保組織は法令の上で廃止される。

・しかし、その3ケ月以内には、8割近くの組織が名称を変えるなどして事実上復活し、同政令が1952年に失効すると、町内会は全国各地で公然と活動を開始し始めた。

・1950年代末から60年代に入り、都市化、産業化の進展が目覚ましく、とくに都市地域において多くの自発的・多元的な機能集団が結成されるが、これらは次第に町内会に吸収ないしは一元化され、町内会が再生産されていった。

・内部構造は、以前の旧名望家地主層にかわり自営業者、中小企業主を中心とする旧中間層による階層的支配の構造を温在している。(今は、元学校の先生や主婦などに変わってきているのではないか)

◆上記の歴史があるため、町内会は、自治・民主化に逆行するものであると捉えられた。

○明治期の地方自治制度の成立の歴史

・明治政府の徹底した中央集権志向による西欧的な地方自治制度形成の試みは、官僚的支配における権力構造の浸透を円滑化するための装置として地方自治体を構想することであった。

・1871年:大区小区制度(旧来の藩制村の組織を大区・小区に分類し、庄屋、名主、組頭、年寄等の名称が戸長、副戸長と改められ、これらを準官吏とする行政末端機構として再編成)→失敗(あまりにも人工的な計画は実際の村落構造と著しく矛盾を来す)

・1879年:郡区町村編成法による郡町村の復活(地租改正事業の円滑化などを背景として旧来の町村を再認識するとともに、それらと県をつなぐ官僚機関として郡役所を置くことになり、地方自治制度の骨格が形成される)

・1888年:市制町村制(町村行政の徹底化をめざして、旧来の村落共同体末端組織としての集落組織が「区」」としての位置づけを与えられ、行政の補助機関としての機能を期待されることになる。旧来の集落秩序をそのまま温存しつつ、町村の側から区長を任命して行政の末端機構として位置づけられる「区」の原型が明確な姿をあらわす)

・1899年府県制郡制

◆明治政府は、日本の地方自治制度の形成にあたり、旧来の名望家-地主層の階層的支配構造をそのまま承認し温存すると同時に、寺社の再編成を積極的に推し進める。この上に町村制の補強を企てた(イギリスのパリッシュが教区をベースにしているのに対し、日本は、寺社の仕組みを壊したことが今日のよりどころの無さにつながっているのかもしれない。天皇一家にしたところ、それが戦後崩壊したにも係らず、寺社という精神の拠り所<ある種の人間社会を上手く回す知恵>が再生されなかった)。

これを「区は、地方名望家層の勢力培養としての役割をもたらした」という見方もある。

旧来の共同体的秩序を基盤とする区が地域住民の日常生活と自治体とを媒介する装置としての機能を負わされてきた。

◆このため、①ゲマインシャフト的な基礎集団と生活上の便宜を目的とするゲゼルシャフト的な機能集団という異なる性格を併せ持ち、また②行政末端機構としての役割担っているとされる。

◆町内会は、戦後法制上は任意団体となり、公的行政から制度的に切り離されたにも拘わらず、行政の側では、戦後の経済復興と急激な産業化・都市化に対応して町村合併を推進し行政の効率を高める努力をする一方、拡大する行政事務処理と地域住民との媒介装置の必要から、町内会への依存をますます高めていった。町内会は行政の補助事務を代行し、それに対し行政は補助金を支出するという慣例が定着している(私の自治会では、何がこれにあたるのだろう?)

◆町内会が地域の利害を代表し、行政に対して圧力団体的機能を果たす例がかなり多いことが指摘され、町内会を住民自治組織と見る見方もある。環境整備、公害阻止などの生活防衛を目的として行動(具体的に知らないが、そんな活動をしている町内会があるのだろうか)。

◆町内会は、旧来の生活共同体的自治機構を温存させつつ、それを新たな地方自治機構の素に組み込もうとしたことにより、一見一元化されたかにみえる官治的支配機構の内部に、いわば二重の構造化の契機を孕むことになった。上からつくられた行政組織としての地方自治体と、町内の生み出した地域集団としての自治組織の共存である。→町内会を地方自治体と考える。

そう考えると、①自動的ないし半強制的に全戸加入、②機能的に未分化(包括的)、③地方行政事務の末端協力機構、④一つの地域には一つの町内会しかない・・・といった町内会の特徴は不思議でないことになる。

◆日本人の自治感覚の基礎は、欧米人のような共通の信条と契約の論理に基づく自治とは対照的に、その場その場の状況に合わせた調和を乱さないようにする秩序感覚に求める意見もある。日本人にあった自治の適正規模は、人間関係の場がそこに成立していなければならず、その規模が町内会なのだ。町村合併によって地方公共団体は大きくなる一方であり、町内会との二重構造が生じた。

◆日本においては、地域社会の原型を神への信仰を中心とし、生産と生活の共同によって生み出された村落共同体に求める見方が有力。村落共同体を出自とする都市住民が村落共同体をもでるにして生活秩序を築いた。日本の都市の生活集団からなる社会を町内(まちうち)として分析(松平誠)。生産のための共同を媒介とせず、地縁的な生活共同体を構成する必要から、自治的集団を構築。

・近隣結合:個々の家が持つ個別の生活欲求を中心に自然に形成された近隣数個による生活単位

・町結合:アモルフな広がりをもつ町部のなかで、同族団や小組では処理しきれない生活上の欲求を満たすために形成された組の結合。

・地域集団結合:その組がより制度化された集団へと転化した場合、町内会のような地域集団が成立する。これは、必ずしも共同体的基礎を必要とせず、明示された規約と機構を持つ制度化の度合いの高い集団。

町内会:伝統的に町結合が果たしてきた防火・防犯・衛生などの用具的機能、親睦などの表出的機能、町内の統合・調整機能の一切。

◆江戸時代から明治にかけ、分権から中央集権へ、経済や産業構造が大きく変化し、戦後地域社会の構造が大きく変化してきたにも拘わらず、ミクロなレベルでは、地縁に基づく自衛と相互扶助の秩序が温存し続けてきた。庶民の生活秩序そのものには、大きな変更が加えられることがなかった。

上からの自治制度形成に支配された町内会の側面から目を転じて、異質なものを包摂しながら全体としての統合を果たしうるような特殊な組織原理をこを探っていくべきではないか。時代状況に応じた柔軟な適応によって存続し続けるきわめて特殊な組織原理なのではないか(五人組を最末端とすいる地域社会のうちに、この秩序感覚は蓄えられていた)。

秩序感覚の特徴は、

①血縁よりも、軒並みや最寄など地縁に基づく(日本では、血縁集団の力が早い時期に弱まり、地縁集団の力が強まった。氏神が血縁集団の守り神ではなくなり、土地の神である産土神と混同され、さらに出生とも関係のない鎮守と渾然となってしまった)。

したがって欧米の近隣社会と違って、宗教、信条、階級や職業が雑多であり、その違いが人間関係の場に持ち込まれない

③この地縁的秩序は、特定のイデオロギーによって形成されたものではなく、それだけに外部からの影響に対しては無防備でありその作用を受けやすい(無性格性)。この無性格性こそ、異質な支配を支えうる根拠となっている。

④規模が比較的小さく、の組織や機能が平均化されており、したがってそのなかで培われた秩序感覚や儀礼のパターンは、日本人の多くに共有された文化型を構成し、どこにいっても通用する一種の言語的機能を果たしうる。

→町内会を単なる自治組織ないしアソシエーションとしてとらえるのではなく、基底にある生活秩序およびその文化的特質を踏まえて、その上に成立していると捉えるべき。

そう考えると、都市の町内会が老人の親睦機能しか果たしていないのは、衰退と認識すべきではなく、親睦などのゲマインシャフト的機能は、もともと近隣結合のなかで培われ、蓄積された生活秩序感覚が町内会に反映されたとみるべき。ゲゼルシャフト的機能を官製自治体が担うようになればなるほど、町内会にはゲマインシャフト的な機能が残ったとみるべき。

こうした性格を持った町内会が明治、大正、昭和、戦後の社会変動のなかで、どのような基本的性格を維持し、どんな変容をしたかを地域ごとに詳細に観察すべき。

◆戦後の産業構造の変化より、地域社会が主婦、子供、高齢者など、経済的生産に従事していない人々が主体となっている傾向を、従来、地域社会の空洞化と考えるきらいがあったが、生産のための共同がないからといってこれを地域社会の空洞化とみるのは高度経済成長期の価値観にとらわれているのかもしれない。

こうした生活者を中心とした新たな生活の可能性を模索するなかで、町内会と呼ばれる地域集団の生活秩序と集団原理を見直し、表層のまちの下にある深層のまちに今後予想される時代の変化に合わせたあらなた自治と生活の実質を与えていくことができるか否かが問われるべき。

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August 27, 2010

市民社会の強化による自治体再構築(木原勝彬さん)

コミュニティ・ガバナンスの記事で紹介したローカル・ガバナンス研究所の木原勝彬さんが、前記事で紹介したペッカネンさんの講演会でコメンテーターとして意見を述べている。先に紹介したPDFの内容を言葉で述べているので紹介しておく。

1.主権者・統治主体としての意識が希薄

日本の町内会、NPOなどの市民組織に政策提案能力がないのを実感している。この要因は、民法34条の規制的な枠組みの問題もあるが、公共を担うのは、国家・政府であり、行政であるという日本人の公共性概念が大きく影響していると考えている。自ら政府を作った経験がなく、主権者・統治主体としての意識が希薄である。政府をコントロールするという意識の弱さが政策提言団体が育たない原因ではないか。

2.対話と討議によって地域の総意を形成が弱い

自治会、町内会に加入することは、住民にとって、生活の安心を維持するが、対話と討議によって地域の総意を形成する側面が弱い。行政の下請けとしての批判を受けないためにも、体質改善が必要。

○日本の市民社会の強化には、制度的な規制緩和と同時に、自治体再構築に連動する市民社会の強化策という発想を持つべき。直接民主主義を重視する直接統治型の市民主権型自治体の構築を目標に据えるべき

 ・そのために、行政の事務事業を市民社会にアウトソーシングし、簡素効率的な政府の実現を図ること、権限・財源をNPOや自治会・町内会に委譲する市民分権という2つの方向での自治再構築が必要。

 1.NPOは、たこつぼ的で市民から信頼されていない。→NPO相互の連携・協働とともに、社会ビジョンの策定を通じたビジョンの共有化によるセクターの連帯強化が不可欠。

 2.NPO活動の成果を可視化するなど成果のアピールが必要。市民への説明責任。課題解決主体としての実力を見せる。

○NPOと行政の協働が進展しているが、NPOが行政の安価な下請け先に甘んじたり、政策決定・実施・評価という一連の政策形成に関与する主体としての位置づけが希薄。協働は、市民自治の強化、市民社会の強化を目的とすべき。そのためには、行政領域に抱え込んだ行政事務事業のすべてを洗い出し、協働領域、市民社会領域へと分類する市民社会化仕訳作業を本格的にやることがNPOの財源確保に結びつく。

○行政・議会システムという制度的公共空間と、非制度的な公共空間である市民社会とが日常的に応答する協働型政策形成が根付く必要がある。市民社会での日常的な対話・討議を熟成させ、市民活動の提案や声を絶えず議会や行政に発信することが大切である。

 ・奈良では、市民が策定したマニュフェストを立候補者へ逆提案する市民マニュフェスト運動を展開。

 ・「市民社会とガバナンス」研究会から、市民社会強化戦略を県に提案した。

奈良県では、木原さんのビジョンに近い動きを進めているらしい。小さな地域ごとに多様な個人・団体が集まって会議をしたり、県では市民活動に資金を提供できる枠組みをこしらえている。これをとっかかりに、市民が覚醒するのか、教育されるのかもしれないが、市民が自主的に動き出すという理想のビジョンとは逆で、行政によって整えられている感じがする。最初の一歩はしょうがないのかもしれないが。

○税の直接民主主義(公益信託基金)

NPOにとっての最大の課題は資金確保。寄付税制改革への努力も必要だが、寄付文化の弱さを考えると、市民が自分たちの自治力を強化するための予算枠として、たとえば、市民税の1%を市民社会の予算として確保し、それを公益信託基金に毎年拠出して、そこから助成効果のあがる形で評価・支援するという市民社会強化戦略の実行を考える段階に来ているのではないか。税の直接民主主義の実践だ。

○自治会・町内会などの伝統的な地縁組織と地域で活躍する子育て支援などのテーマ型コミュニティ組織、NPOなどとの連携がうまくいっていない、行政と対等にやりあう力量も不足。→コミュニティの現状をどのように再編成していくか、住民自治力の強化が課題。地域の総意形成・決定による地域の代表制が担保された新しいコミュニティ自治の仕組みづくりが求められており、その動きが広がってきている。

 ・新潟県上越市の地域自治システム:地域自治区制度を活用。市長の諮問機関である地域協議会の委員を選挙で選出し、市長の諮問への等身や地域課題の解決方策を行政に提案。全国初の公選法に準じた応募選出は評価されているが、地域自治区は行政区であって、地域協議会は決定機関ではない。

○理想的な形としては、行政の関与のない形で立ち上げられた地域の総意を形成・決定する住民自治組織と、行政、議会等で構成される地域の最高の協議・決定の場であるプラットフォーム(コミュニティ自治委員会)で地域の最終の意思が形成・決定されるということが望ましい。

 ・各地で現在進められているコミュニティ自治の取り組みは、行政が主導する形で拙速に仕組みづくりが進んでいる。日本の地域民主主義の将来を考えた場合、地域住民自らがじっくりと地域の意思形成をしていく住民自治の力を自らが鍛え上げていくことが求められているのではないか。

○公益信託市民社会投資基金、市民社会投資機構、地域再生プラットフォームで構成される市民社会強化戦略を紹介したい。

 ・市民税の1%分の資金を毎年行政が「基金」に拠出する。

 ・運営委員会の審査に合格したコミュニティ組織、NPOなどの市民活動団体や問題解決に取り組む「プラットフォーム」などに助成金が支給される。

 ・助成金の支給と並行して、情報提供、人材派遣などのバックアップが支援組織である「機構」から実施される。

上記プロジェクトの最大の眼目は、市民社会に大規模なファンド(市民社会の予算)を確保し、資金不足に悩む市民活動団体、NPO、「プラットフォーム」などへの技術的支援を伴った資金投資を行いながら、住民自治力、市民社会力を強化しようというもの。

○市民主権型自治体

市民が政治的意思決定、政策形成、公共サービスの供給等に直接的に関与する「市民による、市民のための、市民の自治体」である。この自治体の主要システムとしては、コミュニティ自治システムを中核に、マニュフェストの検証・評価を通じて、市民・有権者が自治体運営を統制するマニュフェストサイクルシステム、市民による税の使途決定・活用システム、市民が予算編成に関与する市民による予算編成システム、協働型政策形成システムなどが包括的に整備された市民社会に支えられた自治体。

お金のこと、市民活動支援組織のことに触れているのは、興味深い。前記事のアメリカのシアトルでは、行政が自治会活性化のために、助成金を用意してマッチングで提供している。また、イギリスのパリッシュは、自治体が税金徴収の折に、パリッシュが決めたパリッシュ向け税金も徴収してくれる。市川市、我孫子市。

先のPDFを見ると、市民主権型自治体は、小学校区くらいをイメージしているようだ。直接民主主義・討議型民主主義を育てることを目している。

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August 26, 2010

日本における市民社会の二重構造(ベッカネンさん)

ロバート・ベッカネンというアメリカの教授で日本語もできる人がタイトルのを出しているらしい。まだ読んでいないが、東京アメリカンセンターのセミナーの記事をネットで読める。

この本は、自治会などを含め、幅広く日本社会を研究。さまざまな団体15万件にアンケートを配り、4万件の回答を得、全自治体へのアンケートを分析したとのこと。

このセミナーでは、①日米の市民社会の分析比較、②日米の違い、③影響、④日本の将来について語ったようだが、詳しい内容は分からない。議事録は、主に、フロアとの質疑になっている。

この質疑から読み取れるのは、彼は、「町内会は、市民社会の一部である」と考えているらしいことである。

町内会に入るのは、社会的圧力があるわけではなく、任意である。にも拘わらず入るのは、隣人によく思って欲しい、他人に悪くいわれたくないということからだろう。規範とネットワークのために入るのだとしたら、これは社会関係資本が絡んでいるからだ。

NPOと町内会は、似た部分もあるが違う部分もあるが、社会学者が言うほど大きな違いはないのではないか。市民社会には、良いものも悪いものもある。アルカイダが国を支配したら市民社会には含まれないが、宗教団体は入る。KKK(白人至上主義を唱える結社)も私なら入れる。

日本の市民社会は、ある意味、他の国と変わらない。特徴は、非常に小さな地域レベルの市民団体はあるが、大規模な独立系の専門家集団は少ない。(町内会は多いが、グリーンピースのような大規模なものが少ない。グリーンピースは専属のメディア組織を持って世界にニュースを発信でき、国連環境計画より予算がある。)

日本には、30万以上の自治会がある。日本を地理的にみた場合、自治会がない地域はほとんどないだろう。アメリカには、こういう組織はないし、あっても網羅率が非常に低い。日本では、マンションでは共益費を徴収され、戸建てでは自治会に自主的に会費を払う。アメリカは宗教心が強いといわれるが、それでも、大衆の4人に3人が参加するような組織(町内会はそう)はない。アメリカでは、政府が主導して自治会を発足させるケースが多い(シアトル)。

日本では、自治会が政府の言いなりになっていると見下されるが、他の国の自治会と比べると非常に高い独立性を持っている(学者グループでアジア、アメリカの町内会を比較)。韓国は完全に政府に作られたもの、アメリカでも政府が介入している。

町内会の歴史には、いろいろな歴史が混じり合っている。防火のため、盗賊から守るため、1920年代に政府が有用性に着目したなど。政府はできるだけ多くの情報を回覧板に乗せたがるが、町内会は拒否することができる。

(辻中)明治期に7万あった自然村が戸籍と小学校を作るために合併させられて1万4千になる。自然村がそのまま残り、かつ都市化に伴って30万に増えた。

アメリカでは、教会が核になって、多くの住民がコミュニティに参加しているように想像していたが、彼に言わせると、日本の町内会の比ではないという。また政府が自治会を主導して発足させているとは知らなかった!

日本の自治会は、政府にさまざまなソリューションを求める立場にあるように思え、これはアメリカの自治会にはないスタンスとのこと。

アメリカでは、一人の人が非営利と営利セクターの間を行ったり来たりするが、日本では、これが難しい。

日本では、政府によって自治会、町内会づくりが奨励されてきたという経緯があるが、官僚のような専門性を持てない。一方、大規模な専門家グループは、官僚を監視し、ライバルになる存在なので、政府は、こうしたものが作られないよう、厳しき規制してきた。

日本では、環境団体などの財源に政府からお金が入っていない。アメリカの政府はかなりの資金を提供している。日本は、正当・合法な市民団体になるには、政府の承認を得なければならないというおかしな構造だ。

アメリカの政府は、どうして環境団体にお金を出すのだろう。別働隊として働いてほしいからなのか。また、アメリカでも、その団体に寄付した場合の税制優遇などを得るには、法的に認められないといけないのではなかったか(要チェック:民法34条のことらしい)。

民主主義の考え方には、参加と代議制、社会関係資本と多元主義などがあるが、日本はあまり多元化されていない。政策の議論に関わっていない。アメリカの老人団体であるAARPは、ロビー団体として洗練されているが、日本の老人会にはない。日本の老人会は健康増進やコミュニケーションにはかなり役立っているが、政策提言をしていない。一方、AARPは、政策提言できるが、社会関係資本は育っていない。

日本では、さまざまな政策課題に対する情報源は、マスコミだが、そのデータを提供しているのは政府だ。日本では政府からの情報が非常に大きい。日本では、市民団体は調査する能力をあまり持っていないので、世論形成に影響を与えることができない。アメリカの団体はこれができる。良い面も悪い面もある、組織化された団体の力が強く、皆の意図とは違う方向に政策を変えてしまうこともある。

アメリカでは、最高裁判事の任命には非常に意見が分かれるが日本では話題に上らない。社会保障政策も、アメリカでは必ずAARPが絡むが日本にはそのような団体はない。

彼が住んでいる町(アメリカ・たぶんシアトル)の回覧板は、近隣の注意事項、防犯、広告ページが書かれているが、これは郵送されてきたもので、会合はなく、スタッフはご近所だが会ったことがない。日本のように参加者の多い町内会、顔見知りというのはいいこと。

結論として、日本の町内会は重要なリソースである。新しいものを作るより有益だろう。ただ、NPOなどと連携がうまくいっていない。お互い不信感がある。また、地方の行政と町内会との協力が重要。町内会の世代交代、コミュニティの再活性化という課題もあるとしている。

いずれにしても、町内会・自治会を前向きに捉えているのは、面白い。彼は、イギリスのパリッシュについてはどう考えているのだろうか。

自治会が組織として政策を提言するには至らないと思うが、政策決定への参加は可能だと思う。問題は、だれがその政策を作るべきなのか。NPOは、政策提言に非常に有用だが、地域の意見を吸い上げるには町内会は重要。何らかの仕組みで協力体制を作れるようにすべき。

シアトルでは、活動家が市民全体の代表ではなかったので、行政がいろいろな人に参加してもらうために自治会を作った。市民に本当に権限を委譲しないと参加してくれないだろうと考え、きちんと予算をあてがった。自治会の長が牛耳るのではなく、アイデアを持っている人にマッチングファンドを提供する方法。

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August 25, 2010

イギリスのパリッシュ

イギリスのパリッシュ(地域自治組織、準自治体)について書かれたものがあったので紹介しておく。ネット検索では、こちらこちら、歴史に触れた大部のこちら

イギリスにおける地方自治体の構造は、カウンティ(県)とディストリクト(市町村)による2層となっている地域とユニタリーのみの1層の地域があるとされるが、これ以外に、基礎自治体の中に、パリッシュと呼ばれる自治組織が存在している(タウンカウンシル、コミュニティカウンシルと呼ばれる地域もある)。

パリッシュは、教会の教区に起源をもつ。1894年に地方自治法によって地方自治体としての性格が賦与された。農村の住民を大地主や教会牧師の支配から解放しようということにあったといわれている。1997年の地方自治法では、パリッシュの設立を住民の要求で設立することが可能になった。

人口10人から数万人規模のところがあり、役割や活動内意用もさまざま。2002年時点でイングランドでは8500が存在する。うち47%が500人以下、44%が5000人以上。大きい規模の方が活動が活発とのこと。

法律の中で、パリッシュの役割は、地域において出来うる可能な範囲の項目を並べるだけの構成となっている。

パリッシュは、「パリッシュプラン」を策定することができる。5年から10年の将来像を描き、農村コミュニティに関わる社会、環境、経済的問題を地域でプランニングする。

代表的な活動としては、遊歩道の整備、街路証明の維持管理、墓地・火葬場の管理、コミュニティホールの提供、公衆浴場・プールの提供、宝くじの運営など。

建築許可、開発許可を行う場合、当該地域のパリッシュと事前に協議しなくてはならないとされる権限を持っている。

パリッシュは地方税を課す権限を持っている。徴収は自ら行うのではなく、上位の基礎自治体にその税と合わせて徴収してもらう仕組み。仕事でやりたいことがあれば、市町村と協議することで可能となる。

2003年には、質の高いパリッシュを認定する制度も導入された。

パリッシュは議会を持ち、事務職員を置いているところもある。議員は無報酬が一般的で、自分たちの住む地域に奉仕するということに意義を感じているとのこと。

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基礎的自治体の問い直し

竹井隆人『集合住宅デモクラシー』は、藤沢町、サンシティ管理組合と事例を知るなかで、面白そうだと図書館から借りてみた。

これを読み始めて、「基礎自治体」という言葉が出てきたので、ネットで調べ始めたら、表題のようなコラムを見つけた。今村都南雄という2003年2月当時中央大学、現在山梨学院大学の行政学の先生が書かれている。

このコラムは、第27次地方制度調査会で「基礎自治体のあり方」が審議され、「西尾私案」が提出されたのをうけて、基礎自治体とは何かが改めて問われるようになったことについての感想を書いたもの。

西尾私案については、ここここを参照。

今村先生が取り上げているのは、この議論にあたって、いわば「自生的自治」とでもいうべきものへの人々の熱い思いが根強く残っていることに驚いたという話である。

以下引用  

+++

ここで「自生的自治」とは、自分たちの生活現場で、おのずと形成されるべき一定範囲の生活コミュニティにおける自治のことを指している。それはお仕着せの与えられる自治ではなく、上から、外からの干渉や関与を無用視する自己完結型の自治観である。

都市化と消費社会化の進展によるとめどもない個人主義の浸透のなかで、このような自治の形成がどこまで可能なのか、また現実的裏付けがあるのか、考えをめぐらせても、確たる回答は出てこない。

+++

どうして驚くのだろう。これが本来の自治のはずなのに。

先生は、明治の大合併の前の自然村や郷村・・の自治観は、「自ずから治まる」自治であっても、「自ら治める」自治モデルではなかったはずである。

と書いている。宮本常一によれば、西日本では、全員の合意ができるまで、(ダラダラと)話し合いを続けるという寄合の状況が書かれており、そこで取り決めたことは、箱に入れておくのだという。これを「自ずから治まる」自治といって片づけてよいのだろうか。これも「自ら治める」自治の形なのではないか。

以下引用

+++

戦後再出発した地方自治において私たちが求めたのは、明らかに「自ら治める」自治の実現であった。・・・単一国家制のもとでの政治・行政単位として、都道府県と並んで市町村を位置づけたのではなかったか。したがって、基礎的自治体の単位を設定する場合も、実は、国はもとより都道府県の存在を暗黙裏に前提にしていたのであり、決して「自生的自治」観におけるような自己完結型の地方自治を想定したものではなかったのである。

+++

上記で「私たち」というのは誰なんだろう。地方自治法を決めた学者や行政のことなのだろうか。要は「自治」という本来下からの「自生的」なものにも関わらず、上から国の行政の下請け的なイメージで市町村などの基礎自治体を決めたということなのだろう。

民主主義を考え、真の自治とは何かと考えた場合、この上から決められ、上位下達のための機関としての行政区は、「自治体」ではないはずだ。

先生は、「私たちの身近にいくつもの「自生的自治」の単位が生まれることは望ましい。しかし、それをもってストレートに基礎的単位とする地方自治制度の設計は、すこぶる困難な課題」としている。

おそらく、行政学者として、この「自生的自治」を制度にどう組み込むかを考えての発言なのだろう。自生的自治が本当に住民の代表かとか、財政をどうするとか、制度設計が難しいということなのだろう。あるいは、自生的自治が「完結型」であるというイメージにこだわっているのかもしれない。

現在の基礎自治体では、団体自治を実現し、それを住民がコントロールする(住民自治)となっている。それにあたって、選挙や罷免、情報公開などがその手段として認められているが、自生的自治(下からの自治、自分たちのこととして政治を考える)がなければ、形骸化したままとなる。

多くの人たちがそれに気づいているので、西尾私案を契機に、まてよ、本来自治って自分たちで考えて決めることなのではないかと考え始めたということなのだろう。

このコラムは2003年なので、その後、制度的に自治体内に地域自治組織を組み込む話が進んだが、制度を活かすも殺すも、問題は実態がそうなっているかだ。

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August 21, 2010

選挙が終わると人民は奴隷

早稲田大学大学院公共経営研究科の片木淳教授の「ソーシャルガバナンスと住民自治」というコラム(NIRA『地域研究』2005年3月)から。

古代アテネにおいては直接民主制が行われ市民が己の家計同様に国の計にもよく心を用い、己の生業に熟達を励む傍ら、国政の進むべき道に十分な判断を持つように心得ていたが、人口規模が巨大となった現代においては物理的にも代表民主制を取らざるを得ない。

しかし「ひとたび、公共の職務が、市民たちの主要な仕事たることを止めるやいなや、また、市民たちが自分たちが自分の身体でよりも、自分の財布で奉仕するほうを好むにいたるやいなや、国家はすでに滅亡の一歩手前ある」(ルソー『社会契約論』)。

イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は奴隷となり、無に帰してしまう」。

ルソーは「主権は人民にあり、政府は権力を委任された機関に過ぎない」としてフランス革命の精神的支柱となった。『社会契約論』1762年。

フランス革命は、身分制のあった時代に、人身の自由、法の前の平等を掲げて共和政治を作ったが、制度的には、議会+選挙であり、「奴隷」とならないようにするための具体方策は議論されたのだろうか(主権を維持するために、定期的な全員による集会の開催、政治への常時参加としているが、具体的な仕組みは?)。

日本の民主主義が遅れているから、接ぎ木されたから根付いていないのかと思っていたが、そうではなく、制度そのものが選挙の時だけに陥りがちであるということなのだろう。

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August 20, 2010

討論型世論調査

柳瀬昇「討論型世論調査の意義と社会的合意形成機能」という論文のなかに、公共政策をめぐる合意形成のための制度についての分析があり、わかりやすいので紹介しておく。

①参加性:決定する資格のある者全員が合意形成のための場に参加することができるのか、ごく一部の者のみが参加できるのか

②討議性:そこで示される意見は、参加者によって十分に熟慮され討議されたものであるのか、それとも直観的なものであるのか

上記2点から古代から高く評価され、きわめて多くの国において、憲法によって正当性を付与された制度が選挙と議会という組み合わせ。

理念系としてのタウン・ミーティングは、参加性と討議性をともに充足するものであるが、政治的意思決定を行う資格のある国民の範囲が広がった現代社会においては、ほぼ実現不可能である。

日本でも、地方自治法94条が町または村の議会に代えて、有権者たる住民全員によって構成される町村総会についての規定を設けているが、わずか1件しか実例が存在せず、しかも人口61人の村で戦後すぐに短期間設置されていたにすぎない。(WIKIによると2件)・・こういう制度があること、2例しかないことを知らなかった!

そこで、一部の構成員の参加によって合意形成のための制度設計を検討する。次の2つで整理したのが次の図である。Goikeisei1

③関心の強度:個人の積極的な意思に基づいて参加する者かいなか

④専門性:当該政策課題についての専門的知見を有する者かいなか

しかしこの2点では、一般国民の意思とは必ずしも一致せず、一部の利害関係者や専門家の意思であることが多い。そこで、次の代表制と討議性とで整理してみたのが次の図である。Gogikeisei2

⑤代表性:合意形成のための制度への参加者の属性構成が母集団の属性構成と近似するように標本抽出するかいなか

世論調査も、住民投票の国民の直観的な選好を集計するものなので、討議性は負の領域となる。討議型世論調査は、問題の本質の理解と社会的合意形成を促すための制度であるが、政策決定にも有効なのではないか(住民投票の前にやったり、議会が参考にするなど)。

討議型世論調査:母集団を統計的に代表するように無作為抽出した被験者に対して、事前に議題となる政策課題に関して、電話ないし訪問調査によって質問を行う(基礎調査)。その後、被験者を一定の場所に会いに参集させる。被験者300ないし350人程度に対して、当該政策課題に関する詳細な資料を与え、実験の趣旨を理解し、十分に訓練されたモデレーターの司会のもとで、15ないし20人程度の小グループに分かれて議論を行う(小グループ討議)。その後、当該政策課題に詳しい研究者あるいは政治家や政府の政策担当者に質疑する場(質疑セッション)や全体で討議する場(全体討議)を設け、その全体討議等と小グループ討議を繰り返す。最後に討議過程の前後で被験者の意見が変化しているかいなかを調査する(最終調査)。週末の3日間。

テレビ放送と連携して行われ、全国民が観ることができる。サイバースペース上で行うことも議論されている。

 

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ユルゲン・ハーバマス

ドイツ人で1929年生まれ。2つの書籍の紹介。

1.『公共性の構造転換』(以下はWIKIによる)

○公共性の歴史(崩壊と再生への期待)

(1)16世紀以後(絶対主義時代):国家(公的)、それ以外(私的)

(2)市民社会(市民的公共性):民衆による討議が可能に。論証以外のあらゆる権威を認めない。参加者は、相互に論証による説得を受けいられることでさまざまな問題を争点化することができた。→しかし、社会階級の利害が討議の前提(夜警国家)

(3)無産階級との階級闘争を経て、公共性は階級的疎外を縮小させる政治制度を発展させた。無産者が公衆として討議に参加できるようになった(19世紀中ごろ)。

(4)19世紀までは、国家と社会は分離していた(市民的公共性は国家から自律していた)。しかし、19世紀に労働組合と労働者政党が組織され、多くの労働者の代表が議員となり、貧困からの解放を掲げ、それを実現していったため、20世紀には労働法、社会保障法により福祉国家が実現した。この結果、人々は行政サービスの受益者となったために批判的理性を持って政府に主体的に向き合うことができなくなった。公共性への参加の自由は、受益と消費の自由に変容してしまった。

政治過程では、大衆に対し、社会集団、政党、行政機構、報道機関が働きかけており、本来の公共的論議よりも、大衆の感情や利益に働きかけることによって、民主政治での多数派の支持を得ることが可能となる。そこで、公共性の本質である議会の機能も喪失し、議会は討論ではなく利害調整の場になる。

市民的公共性においては、議員は国民全体を代表するものとされていたが、。大衆デモクラシーの下では政党の支持母体に命令される対象となる。議会の討論は、論理的な説得ではなく、有権者に向けた示威や印象を与えるための劇場となる。参政権の拡大は、結果的に批判的な審議能力の低下をもたらした。

(5)ハーバーマスは、公共性の再生を模索。諸集団の均衡とその組織の内部において公共性を確立することを提案。諸集団を通じた公共的な意思疎通と批判への参加。

++++++++++

最後の(5)が良くわからないが、おそらく、討議型民主主義を言いたいのだろう。

公共性の歴史は、面白い。労働者が政治に参加したことによって、福祉国家に移行し、その結果、人々が行政サービスの受益者になり下がってしまったこと、議会が討議の場でなく、利害調整の場となり、劇場となってしまったことは、納得だ。

2.『コミュニケーション的行為の理論』(教えて!GOOより)

○彼は、人間の社会行為を二種類に分ける。

(1)成功しようとする志向=戦略的行為

(2)了解へ達しようとする志向=コミュニケーション的行為

(1)は、一方が他方を論破したり、権力を背景に相手を圧倒し、相手は、不承不承それに従うようなこと。(2)は、会話することによって、双方とも話す前とは違う地点に到達し、最初の自分の希望とは異なった結果になっても、双方が満足感を味わって了解に達するようなこと。

(2)が起こるのは、話している双方が無意識のうちに、「理想的発話状況」というモデルを想定しながら話しているから。「分かり合える」「双方が了解に達することができる」という「画に描いた餅」を共通のモデルとし、それを先取りしつつ会話を積み重ねることによって、会話の中でその「画に描いた餅」を現実のものとすることができる。

この「理想的発話状況」を可能にする条件として、次の3つが挙げられている。
  ①真理性
  ②正当性
  ③誠実性

これは、ハーバーマスが私たちの生きている世界を3つに分けたものに対応している。
  (ア)人間を取り巻く外的環境としての「客観的世界」
  (イ)人間の意識や主観などの「内的体験世界」
  (ウ)文化的に構成された社会的な領域で、さまざまな社会規範、わたしたちが無意識のうちに従っているようなものまで含む社会的世界」

①の「真理性」とは、(ア)「客観的世界」に照らして、この発言が正当である、ということ。
②の「正当性」とは、(ウ)「社会的世界」に照らして、この発言が正当である、ということ。
③の「誠実性」とは、(イ)「内的体験世界」に照らして、この発言が正当である、ということ。

事例「すみませんが、水を一杯もってきてください」と先生から頼まれた場合。

①真理性を欠く場合
「いいえ、一番近い水道でも授業が終わるまでに戻ってこられないほど離れています」

②正当性を欠く場合
「いいえ、先生は私を先生の部下のように扱ってはなりません」

③誠実性を欠く場合
「いいえ、先生は本当は、他のゼミナール参加者の前で私に嫌がらせをしようとしているだけなのです」

先生の頼みに対し、生徒は、その問いかけが妥当なものかどうか、3つの観点から判断して応答する。

ハーバーマスによるコミュニケーションの目的は、あくまでも「欲望や目的を知らせる」こと。
話すことによって目指すのは、欲望を満たし、目的を達成するためではなく、その気持ちを明らかにすること。すると、それに対して、他の人々が応答し、コミュニケーションがなされる。

+++++++++++

コミュニケーションによって、理想的な合意に達することができるのかどうか、以上を読んだだけでは分からないが、ハーバマスは、おそらく、討議によって市民的公共性が生まれるはずだと期待したのだろう。

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August 19, 2010

民主主義論のいろいろ(エリート、多元:徒党、参加、討議)

私は、日本が民主主義を接ぎ木されたので、民主主義が根付いていないのかと思ったら、どうやら、欧米でも、民主主義はいろいろであるようだし、そもそも、民主主義の制度については、昔から学者の議論の対象であったようだ(そういえば、昔学校で習ったような気もする)。

ネット検索で得られた情報(http://masm.jp/democracy/)からの抜書き(俄か勉強)。

1.ウェーバー『職業としての政治』1919

20世紀には、合理化の風潮が官僚制を進展させ、19世紀のイギリスでみられたような議員の活発な討論を通して政治的意思決定がなされる議会の影響力は減退する。一方で政党政治化が進む。政党自体が官僚組織となる危険性を持つが、社会の相反する利益を政党を単位としてまとめあげ、政党間の競争を通して政治のダイナミズムを回復する可能性を持つ。ただし、それには、強烈なカリスマ性を持つ指導者に率いられる必要がある。

政治家の資質(自らの信念に従って断固として行動し、自己の行為の結果に責任を持つ)官僚の資質(党派性を持たず、上位者の命令に誠実に従う)

→指導者の本質をなすカリスマ性を欠いた官僚支配を打破するためには、指導者の道具となって活動するマシーンと化した協力な政党組織に支えられた指導者民主制が必要。

・これって、官僚主導型になっている今の日本の政治を予言している。一方、政党間競争は、初めて野党が政権を取ったものの、まだ途上で真の政党間競争になっていない。しかし、ウェーバーが「カリスマ性」のある指導者による政党に期待したのか良くわからない。小沢一郎のことを思い浮かべると、カリスマの元で官僚化した政党って、怖い気がする(オウムじゃないか、創価学会じゃないか)。

2.シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』1942

ルソーが説いたような「人民主権」に基づく民主制は現実には実現不可能。大部分の有権者は、自分の日常からかけはなれた国家レベルの問題を遠い世界のことと感じており、公共の利益についての決定を合意によって導くよう求めるのは無理。人民の意志と称されるものは当てにならない。しばしばコントロールされた結果としての「作られた意志」に過ぎない。

ただ、人民には、個々の政策決定にかかわる能力はないが、政策決定をなす能力を持ち、指導者となりうる人材を選挙で定期的に選ぶ能力ならば十分備えている。市民は、企業家が提供した商品を消費者として消費するように、政治家が提供する「権力という利潤?」をただ消費するだけ。民主主義とは、「人民の統治」ではなく、「政治家の統治」である。ただし、政治家を志す者たちは、人民の支持を獲得するために激しい競争にさらされなければならない。民主主義とは、権力獲得の過程に競争原理を導入する一つの方法である。

オルテガ『大衆の反逆』1930でも近代社会は、理性的な判断能力をもたず、不合理な感情に任せて容易に大勢に順応する「大衆」を生み出す。このような大衆が政治に参加するとき、デモクラシーは危機的状態に陥るとしている。

・現在の日本の状況は、職業的な政治家や官僚に面倒くさい政策決定を任せており、サービスを受け取っている消費者である。お金持ちの奥様が面倒な家事を使用人に任せているというような感じでもあるのだが、奥様が重要な決定や指示も出さなくなると、使用人にいいようにされてしまうといった危険性がある。さらには、単に与えられたメニューから選択するだけの消費者に成り下がってしまい、自分が主人で好き嫌いをいえる立場であることも忘れて、願いを叶えるために、使用人におもねるまでになってしまっている。

・小泉人気が最もそうだが、マスコミに左右され、小さな論点のみが話題となって、本質的な議論がなされず、人気や風評だけで選挙がなされたり、内閣支持率などで政治が揺らいでいくのをみると、まさに「大衆」であり、「つくられた意志」でしかない。

それも、優れた指導者が大衆を煽ったのならまだしも、煽っているマスコミも分けもわからず(意志なく)煽っていて日本の政治の混迷を自分たちが加速させている。

3.ダール『統治するのはだれか』1961

上記2つは、「エリート主義的民主主義」と呼ばれているのに対し、「多元的民主主義」と呼ばれるもので、集団(徒党)に注目した。アメリカの第四代大統領マディソンに発する。企業、労働組合、政党、宗教団体、女性団体などのさまざまな利益集団相互の競合と調整による民主主義の形。個人が複数の団体に重複加盟することもある。集団間の交渉や連携によって、競争的均衡が生じ、市民は集団を通して指導者をコントロールすることができる。民主制は、少数エリートの統治ではなく、複数の少数集団に統治。

・日本でも、これまでは、徒党が意味をなしてきた。労働組合や産業別の生産者団体、地方なども。しかし、グローバル競争のなかで、労働組合も解体し、産業別の団体も機能しなくなり、地方による陳情も効かなくなっている。ある意味、政治がパイプを失っている。

4.ローウィ『自由主義の終焉』1969

多元的民主主義への包括的な批判。利益集団間のインフォーマルな交渉が政治的決定を支配する利益集団民主主義にほかならない。民主主義を支えるフォーマルな法手続きを無視することで民主政治を堕落させる。→法の支配の原則の強化を提言

・徒党が利益誘導的になるのは、これまでの自民党政治がその通り。お蔭で、国債残高が異常に高くなってしまった!

5.参加民主主義

「参加民主主義」論は、古典古代における人民の直接参加をなんらかのかたちで復活すべき。重要な政治的争点における国民投票の導入、地方自治体、職場、学校といった小集団における直接意思決定システムの導入など具体的な方策を提言。積極的な政治参加によって、市民が経済的利害に閉じこもった偏狭な存在から脱し、公共のものごとにかかわっていこうとするなど、より成熟した存在へと成長していくという期待がある。アーレンと『人間の条件』

・これらは、最近の日本の先進自治体でやられていることに通じる。

1960年代から70年代にかけて盛んになったニューレフトのころ、参加民主主義のビジョンが打ち出されたが、ニューレフト運動の退潮とともに衰退。しかし、1990年代になり、新たなデモクラシーを模索する動きが活発に。これが「討議的民主主義」と呼ばれるモデル。

6.討議的民主主義(deliberative democracy)

多元的民主主義などは、政治過程をあたかも市場における財の交換のようにみなすが、民主的な政治とは、単に諸利益の間のバーゲニングの過程に還元できるものではない。自由で平等な市民の活発な討議があり、その結果、何らかの合意が形成されるという過程が確保されることが重要。

討議的民主主義は、参加民主主義のように市民の政治への直接参加が不可欠であるとはみなさない。現代の代表制の枠組みを尊重しつつ、政治家に市民に対する徹底した説明責任を確保することでも理念は実現できるとする。ガットマン、ハーバーマス、ロールズ、ジョン・エルスター、デイヴィッド・ミラー、フィリップ・ペディット。

・議会の改革(栗山町など)は、この流れに沿っている。

現行の民主主義体制が暗黙のうちに国民国家システムを前提としていることを批判し、脱国民国家型のデモクラシーを模索する動きもある。多文化主義とも連動し、定住外国人への選挙権や社会保障給付の権利の付与、就労の自由の保障などの新しい要求を掲げる。

さらに、一国内部において独立性の高いエスニック集団に広範な自治権を与えたり、マイノリティ集団を単位とする集団代表権の制度を導入すべきという提案もある。地球大の単位でのコスモポリタンな民主主義を構想する論者もいる。

・定住外国人の選挙権などは、このところ話題になっている。私が思う真の「住民自治」も、つきつめれば、国を壊すことにもつながる(そこまでできればすごいことだが)。

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August 18, 2010

コミュニティ・ガバナンス

この言葉で検索すると、まず、WIKIでは「地域コミュニティにおける民主的なルールづくりに向けた運動のことをいう」と定義され、「今日、地域コミュニティにおける市民をはじめとした地域構成員間の信頼とネットワークの密度を意味するソーシャルキャピタル、地域における問題解決能力を意味する問題解決力と並び、地域力の構成要素のひとつとして考えられる」とある。

なんかちょっとヘンな気もするが、一応紹介まで。

いろいろな本も出版されているようだ。いくつか紹介すると;

1.自治体学会編『コミュニティ・ガバナンス-誰がが何を決めるのか』2004年学芸出版では、特集で座談会が組まれており、「一人ひとりを基礎としたコミュニティ・ガバナンスへ-市民、家族、地域、自治体の「関係」をつくるために」というのが掲載されている。

2.その後2008年には、山本啓編『ローカル・ガバメントからローカル・ガバナンスへ』法政大学出版局から出されている。公民パートナーシップや市民参加の可能性、自治体内分権が扱われ、ローカルなレベルにおける「コー・ガバナンス」(共治・協治)への構造転換が書かれているようだ。

このほか、合併の過程で生まれた地域自治組織(合併特例区、地方自治区)を活かした取り組み、自治基本条例、議会の在り方、生活圏ごとの住民自治組織などなど。

興味をそそったのは、竹井隆人『集合住宅デモクラシー-新たなコミュニティ・ガバナンスのかたち』2005年、世界思想社で、アマゾンの内容紹介によれば、セキュリティの問題やアメリカの事例に言及しつつ、集合住宅における住民自治組織が「私的政府」として政治的権能を振るうことにより、わが国における未達のデモクラシーが成就されうる可能性を呈示するとある。

例の板橋区の緑の団地の事例を連想する。

吉原先生の無料で読める論文記事などは見当たらない。先生のオフィシャルサイトでは、町内会などを丁寧に調査されているらしい。

大内田鶴子『コミュニティ・ガバナンス』2006年、ぎょうせいは、町内会の新しい動き(宝塚市)や日本の昔からの火消からはじまる町の組織や五人組の意義などを書かれているらしいので、図書館に予約。

ローカルガバナンス研究所(木原勝彬)のPDFは、私が思っているようなことが書かれているようだ(生活圏ごとの住民自治組織)。

総務省で「コミュニティ組織のガバナンスの在り方に関する研究会」というのを21年末から22年2月にかけて開催したようだが、会計事務などが中心か。報告書は、こちらhttp://www.soumu.go.jp/main_sosiki/kenkyu/new_community/18520.html。国が上から目線でコミュニティ・ガバナンスを論じたりするのは本末転倒のような気がする。

+++++++++++

昨晩、本間さんとも議論したが、本来自治というのは、地域の人々がこうしたい、こうありたいというのが先で、それを地方自治体や国が認めるなどの方向のはずなのに、日本の場合には、国の方からこういう姿や運営方法が良いなどと決めて、全国的に枠組みをおしつける(提案する)。これはヘンだ。

本来、自発的に起こる自治なのであるから、地域地域によってやり方も形も本来異なるはず。(もちろん、どうしたら自発的に起こるのか、どうしたらうまい運営が可能かなどは、学者としては考えるべきであるが)

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討議的民主主義とコミュニティ・ガバナンス

「グラスルーツ」で検索したら、『ヘスティアとクリオ』という雑誌に行き当たった。雑誌名の意味は分からないが、コミュニティ・自治(ガバナンス)・歴史研究会とあり、まさに私が気にしている内容が盛りだくさんである。HPは、ここhttp://www.sal.tohoku.ac.jp/~n-yoshi/hestia/html/backnum.html

ちなみに、HPの英語表記には、Society for the Research of Community, Governance and Historyとされているのに、その訳では、governanceに「自治」を充てているので、これを英語で調べてみると、やはり「統治」とか「管理」など上から目線の訳になっている。そこで、「自治」で調べてみると、self-governmentと autonomyという英語が充てられている。

おそらく、この人たちは、私と同じように、真の自治の在り方を求めているようだ。

2007年の№6の巻頭言で、東北大学の吉原直樹教授が表記のタイトルで文を寄せている。そこでは知人の経験談としてある委員会の模様が描かれていて、委員が多様な議論をし続けているが、進行役として、議論を方向づけることをやめたという。委員会を重ねるたびに、委員それぞれが自らの発言にこびりついている立場性を相対化するようになるのがそう遠くないとみているからだという。

そして、この吉原先生は、、一方で町内会を、もう一方でボランタリー・アソシエーションやNPOを、また行政や企業などの社会における立ち位置を考えながらコミュニティ・ガバナンスを考えているという。そして、対位法的な考え方の限界を感じつつ、それぞれの組織の持つ自己組織的な力を見極めながら、それっらがネットワーク状に節合する可能性や、そこから派生する創発的なもののについて考えているという。

これは、ガバナンス本来の発想に立ち返ることであるが、これをやらないと、コミュニティ・ガバナンスという言葉が独り歩きして、かえって最強のガバニンク様式=ガバメントに組み込まれてしまうと懸念している。

日本では、コミュニティもガバナンスもよく考えないで早急に日本に導入され、流通しているが、脱文脈化と再文脈化が必要ではないかと言っている。

+++++

むずかしい言い方なので良くわからないものの、議論をすることによって、相手の立場も理解し、互いに合意点を見つけ出していくのが民主主義だと思うのだけど、我々は、この訓練をなされていないのが問題であると思ってきたが、たぶん、先生もそんなことを言いたいのではないかと思う。

そこで、「討議的民主主義」を検索してみると、いろいろ出てきて、専門家の間では、問題になっていることのようだ。「コミュニティ・ガバナンス」についても、検索するといろいろ出てくる。これについては、別途紹介・検討する。

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August 16, 2010

川崎フロンターレと盆踊り

NHKのテレビで、川崎フロンターレのマーケティング活動が報道されていた。

川崎のクラブであることを市民に意識しないで思ってもらえるように、いろいろな企画をしていた。

1.球場で家族が楽しめるいろいろなイベントをやる(選手が女装なども、秀樹のコンサートなど)

2.地元を選手が回って、挨拶をしたり、小言を言われたりする。

3.子供たちに、フロンターレの試合結果等を活用した学習ドリル(数学)を学校の先生と一緒に改良を加えて作成、配布している。  などなど(うろ覚え)

アメリカでスポーツ経営を学んだ人がマーケティング部を担当している。

実際、試合の入場者数は、絶対数ではまだそれほど多くない(平均並)が、伸びでみると、大きく増えていることが分かる。Skawasaki

算数のドリルを通して、子供は、川崎フロンターレを自然に身近に感じるだろうし、夏休みイベントなどで家族と出かけた思い出ができ、かつ一緒に過ごした選手が日本代表になったりしたら、応援する気持ちになるだろう。

このように人々の思い出に記憶されたものは、その子が大人になった時に、自然に好きになっていたりするに違いない。

川崎市にサッカークラブがあっても、人々の思い出とつなげたりしなければ、ただあるというだけで、市民のものとは感じられないに違いない。

一方テレビでは、盆踊りの維持が難しく、主催者は高齢化が進んでいるし、地元民の参加も減っていて、外部の盆踊り好きの人たちが来てくれることが救いになっているというニュースも流していた。

昔は、盆が大っぴらに休める時期であり、そこで恰好よく踊ることや恰好よく太鼓をたたくことなどが男女の出会いになっていた。村落のなかだけでの婚姻ではダメなので、祭りの日には、隣村まで出かけていって出会いをするというようなことが共同体のなかでのハレの日となっていた。かつては、若者衆が祭りをしきったり(それが一人前になるうえで必要)、出会いという楽しみがあったり、かつそれが思い出にもつながっているので、祭りや盆踊りに意味があった。

同じ行事をやっていたとしても、それが若者が主体的に運営する大人になるための通り道であったり、楽しい思い出につなげるなどのソフトの面が失せてしまえば、意味がなくなり、形骸化してしまう。

サッカーも、盆踊りも、地域に支えられ、地域のアイデンティティの素になるものだが、「今日の環境に合わせて」地域の人々にとって意味のあるものにするための知恵を働かせないと、地域に支えられないし、地域の人たちがそれで燃えることも起こらない。

新参者のサッカーが地域一体化(市民が認識する)のきっかけになるのか、盆踊りが再生するのか、いずれにしても、知恵が必要であろう。

川崎フロンターレや新潟アルビレックスの事例(市民に支えられる、市民にサッカーを通して一体感が生まれる)は、市民づくり(市民であると自覚する)のヒントを与えてくれる。

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August 13, 2010

地域活性化に必要なこと(2)住民自治-我孫子市

1.地域が活性化するには、住民が自分たちの地域をどうしたいのか考え、自ら決定し、自ら実行し、それに責任を取るようにならないとダメなのではないかと思う。

2.その場合、住民が責任を持てる地域というのは、合併が進み、道州制が議論されているが、そんな大きなものではないのではないか。

3.しかし、現状、地域のことなど面倒くさいなど、自分のこととして考えたがらない住民を意欲的な住民にするには、どうしたらよいのか。

4.地方分権の方向にあるが、お上の都合で分権されても、住民が地域のことに主体的に取り組む基盤が出来ていなかったら意味がないのではないか。自治体にただ分権しても、本当の自治にはならないのではないか。

というようなことをあれこれ考えている。いくつかの文献を読むと、いろいろなヒントがあったので、ランダムに記載しておく。

1.大本先生が我孫子の元市長の福嶋さんにインタビューしている記事があり、これによると、福島さんの考え方は、私の疑問に答えている。

ヨーロッパなどで言われている補完性の原理は、市民の活動がまずあって、それを補完するのが自治体とされ、出発点が市民であるのに対し、日本では、市町村を都道府県が補完し、それを国が補完するというように、出発点が基礎自治体になっている。

何を分権するかを中央が考えるのではなく、市民がやりたいこと・やれることをやって・・・の順番。地方自治体が民間に委託するにしても、こちらが考えて任すのではなく、自分たちにやらせてくれたら、もっとよくできるものを提案してもらう。

いわゆる「新たな公共」は、「市民との協働」と「市民への分権」によって実現する。

・市民とは「他者を配慮でき、自己決定ができ、決定に対する責任のとれる自立した人格の個人」を指す。

市民は、ボランタリー・アソシエイション(NPOなど)の活動を通して自治能力を高め、成長していく。

・自治能力とは、「異なる立場、異なる利害関係を持つ市民同士がきちんと対話して、議論のなかでお互いに納得できる合意を自らつくりだしていく力」である。

これを実現するために、福嶋さんは、次のようなことをやってきた。

(1)市民の育成と市民への分権:市民のボランタリー・アソシエーション活動(NPOなど)への支援

・市民活動、NPO、市民事業(コミュニティ・ビジネス:CB)への支援は市民活動支援課(小さな政府で豊かな公共)が担当(専任5名・嘱託2名)

・市民活動レベルアップセミナー、シニア世代歓迎の集い、地域活動インターンシップ・プログラム、小中学生へのボランティア体験情報提供、市民活動フェア、空き家・空き店舗情報提供、公募補助金制度、市民事業・CB支援事業(CB推進協議会運営、CBフォーラム、CB起業講座、CBサロン、起業のための研修等受講料助成)、市民活動公益保険、NPO活動に対する支援(収益事業をやった場合、法人市民性均等割5万円を免除)

・市川市の税金の1%を自分が指定するNPOなどに市が補助する仕組み。寄付に対する税控除ができないのでやったのだろう。ただ。税金とは、所得に応じて支払い、その使い道においては主権者全員が同じ権利を持つという大前提からすると原理を崩している。たくさん納めた人は税金の使い方により発言力を持つことになるから。1%だから許されているが。

(2)市民参加・参画の徹底と行政と市民の協働

・計画案づくりからの市民参画、計画の実行段階での参加、行政職員への民間経験者の採用。総合基本計画だけでなく、各部署の審査委員会等へも市民公募。

・情報公開(議員からの議会外での要望もすべて開示する)

市民投票制度(選挙で市長や議員を選んでも、1票入れるときに候補者の政策の全部に賛成したとは限らない。選挙の折に浮上していなかった重要なテーマが出てくる場合もある。主権者である市民と市長や議会の意思がずれていると市民が感じた時に、投票して判断を仰ぐ仕組みを用意することは大切。条例で制定

・まちづくり協議会(11エリア、地域のコミセンを自主運営したり)。地域のコミュニティとテーマ別コミュニティ(福祉とか、環境とか・・)。藤沢町のように、自分たちの要求に優先順位をつけるまでには至っていない。

(3)「新しい公共」として提案型公共サービス民営化制度

・行政の役割は、最小限とし(①許認可など公権力を伴う仕事、②あらゆる市民や企業の活動をコーディネートし下支えしていく仕事)、それ以外のすべての事業を対象に、企業、NPO、CB、市民活動団体などから、委託・民営化の提案を募集。

(4)職員の行政能力の向上

・施策の立案にあたり、シンクタンクに委託することなく、当該部署の職員による実態調査、アンケート調査などによって問題やニーズを調べたうえで、施策の計画を立案。

(5)ノーマライゼーションの福祉(子供と障害者に重点)

(6)持続可能なまちづくり(特に手賀沼の浄化と周辺環境整備:周辺の農業促進)

○議会(首長となれ合いにならない:チェック機能)→市民に責任を持つというスタンスはまだ。議会は、もともと、執行部に要求する、批判することでやってきて、問題提起とその解決策(議員立法)はやれていない。議員は公の場で批判されることに慣れていない。旧来は根回し方式(議会はシャンシャン)。議会として市民に説明する、市民の意見を聞くはなかなかやられていない(栗山町)。

○福嶋「議会と市民の自治が別々にあるのではなく、議会は市民の自治の一番基本的な制度。ただ、議会の議員や市長を選挙で選ぶだけでなく、日常的に直接行政のいろいろな分野に参加することが大切だ。そっちも選挙と同じくらい重要だと言っているわけで、直接参加だけが市民の自治だと言っているわけではない

○市長が出した議案一つにしても、それを審議するときに議会は公聴会を開けるはずだし、タウンミーティングをやってもよい。これがやられていない。大本「イギリスでは、タウンミーティングは夜開かれて、傍聴し、意見をいう、それをもとに議会で決めていく」

○議員は、知り合いに頼まれると例外的にでも特例で配慮して欲しいと動きがち。請願(紹介議員がいる場合)、いない場合は陳情(一定のマスがないと効果ない)。我孫子では、請願も陳情も同じ扱いにしているが、ふつうは陳情は聞いておくだけになりがち。

代議制はしょうがないので直接参加だという市民自治は、逆に限られた市民自治になりかねない

○福嶋氏が提案した住民基本条例は、何回もパブコメをやったが、議会で否決された。

●オンブズマン制度(行政活動監視:中野区、川崎市が導入)

●国会では法制局が法案を瑕疵がないかチェック。地方自治体では、議会事務局が担うが不十分。我孫子では、市の政策法務室が条例案づくりをサポートする制度を作った。市民が作れるようになる。傍聴者も発言できる制度。

○2004年に環境保全の一環として、古利根沼を乱開発から守るための用地取得費の一部に充てる「住民参加型ミニ市場公募債(オオバン我孫子市民債)」は、国債0.8%金利のところ0.58%なのに、発行総額2億円の予定が10億円以上集まった。

○住民の関心が高まり、児童虐待件数が増えたのは、隠れていたものが見えてきた。

●J.S.ミル『代議制統治論』「統治の卓越の最も重要な点は、国民の徳と知性を向上させること」。大本「市民自治を実現するため、行政依存的でない、自立した、他者を配慮できる市民が多く育つための条件づくり、基盤づくりに我孫子市長はじめ行政が努力」

●国立市、狛江市、尼崎市でも市長が同様のことをやったり、やろうとしている。大本「問題は、市民および行政職員の両者をどのように自律的・自立的市民に育て・高めるかにある。その方法が具体的でないと対等の参加と協働が実現しにくい

●宮崎県綾町(有機農業の町:照葉樹林文化)郷田實町長(脳溢血で突然死)→その後九州電力が鉄塔を立てるために原生林を伐採

●長井市のレインボープラン(生ごみのたい肥化)に刺激を受けて、市民の人は強化しろというが、熟度の高い堆肥になるのかが問題(有機農家が求める良質な肥料でないと)。

●スウェーデン:子供のノーマライゼーション:人工的な公園などを取り壊して自然に戻し、子供を遊ばせるが、危険もある。危険を体験させることが生きる権利。

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「住民が自分たちの地域をどうしたいのか考え、自ら決定し、自ら実行し、それに責任を取る」

これを本当の住民自治というのだと思うのだが、人口が増えれば、直接民主主義は難しくなり、代議制にならざるをえない。しかし、住民の意向を反映させるためにいろいろな仕組みが考えだされており、それが選挙やリコールなどだ。

地方自治は、団体自治と住民自治とからなるとされ、前者は、自治体が国とは別の自治権を持つということ、後者は、地方自治体は、住民の意志を受けて自治を行うこととされている。したがって、「住民自治」と言った場合、あくまで主体は、地方自治体で、その団体の活動を住民がきちんとガバナンスすることが住民自治の意味になっている。

住民が自治体をガバナンスするための手段としては、選挙、条例の制定・改廃の請求、事務の監査、議会の解散を請求、議員等の解職の請求などの権利が挙げられている。言ってしまえば、選挙の時しか意志を表明できないような感じだ。

しかし、制度は、その背景や環境が整っていなければ形骸化してしまう。

住民が政治(自分たちの地域をどうしたいか)に関心を持たなければ、選挙もいいかげんなものになってしまう。選ばれた首長や議員も、ただ選ばれたので偉いと思って特権意識のみあったのでは、地域が良くはならない。

このため、代議制はやむを得ないとしても、それを十分に活かすためには、住民が福嶋氏いうところの「市民」となり、「自治能力」を持つようにならなければならない。

しかしながら、住民は、自分たちの地域を自分たちで考えるものだとの認識を持つに至っていない。このために、覚醒させることと、ハウツウの訓練が必要であり、その一例が我孫子市がやっているさまざまな仕掛けであろう。

住民に身近なこと、切羽詰まったことでワークショップを開くなどのことから自分たちが主人公であり、自分たちが動けば、地域が変わることを実感し、議論や運動の方法などを体験して学んでいくことが必要だろう。そして、そうした人を増やしていく。

本当は、子供のころから、そういう体験を通して、自分たちの地域のことを考えさせ、それは自分たちで解決していくべきものである(そのために、首長や議会や行政を使うも含め)と覚えていくことが必要なのだろうと思う。これが民主主義の教育だと思うが、現状、どこまでやれているのだろうか。ただ、選挙に行けというのではダメだろう。

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August 08, 2010

地域の活性化に必要なこと(1)一人ひとりに居場所がある

地域(日本)に元気を取り戻す重要なキーワードは、横石さんが自らの体験から言われているように、一人ひとりに役割があり、朝起きたらやることがあることなのではないか。

これは、非常にプライベートなことと、社会的なこととがあると思う。

プライベートなことは、お母さんだったら、子供のためにお弁当を作るとか、成長を見守ることなどで、お父さんだったら、家族のために稼いでいるという誇りだろう。家族(恋人など拡大してもよい)に役に立っていると思われることだろう。

これが現在は、壊れている。

私も昔は、コンビニさえあれば良いのにと思っていたこともあるし、コンビニが家族の機能を肩代わりしてくれることに喝采していたのだが、結果としてこれが家族を壊している(壊すのを加速している)。

一人暮らしの若者や高齢者がなんとか生きていくために、今では、コンビニが大きな役割を果たしており、今仮にこれを廃止にしたら、死んでしまう人もいるだろう。しかし、家庭の機能を代替してくれるサービスが家族を壊している。

女性を家庭に縛り付けるのかといわれるかもしれない。もちろん女性だけでなく、家事を夫が肩代わりしたり、子供が手伝うことも含め、家族が互いに互いのために何かをしてあげる(逆に、やっている人にとって生きがいになる)という関係性をもう一度再構築する必要がある。

しかし、すでに、単身世帯などが増えている現状で、当人が面倒なしがらみを嫌っている現状で、こうした「家族」の関係性を再構築するというだけでは不十分だ。

地域のなかの人間の関係性を再構築することで「家族」の拡大版にすることは無理なのだろうか。

その場合、「家族ごっこ」を考えると無理がある。単身高齢者を見守るとか弁当を届けるというのは、される方にしてみれば余計なお世話となる。無理な家族ごっこではなく、いろどりが実現したように、社会的な役割を得るというのも一つの方法なのではないか。

社会のなかでお金を儲ける、誰か(横石さん、お客)に頼りにされる、褒められる・・・といったことだ。社会の中で人間としての関係性を構築することが張り合いとなり、生きがいとなる。その過程のなかで、見守りなどがなされるのが一番良い。

いろどりの仕掛けは、一つのケースである。高齢者を例にとれば、個々の個性を活かしながら活躍の場を与える必要があるのではないか。活躍というのは、凄い活躍をする場合もあるが、その人なりの活躍の場で良い。

農家の主婦・高齢者がやる直販所や産品生産などもその一つのケースである。そういうワイワイやるなかでのおしゃべりでも良くて、Aさんは、これが得意、Bさんは、面白い人など、そんな程度のことで良い。

こうした社会的関係性を専業主婦、子育てしている主婦、何をやってよいかわからない若者、あるいは、子供などにも持たせられるかどうかが総人口のエネルギーを活かせる道なのではないか。

静岡の小出さんが、何をやりたいかわからないが何かやりたいという人のつぶやきに付き合い、何かを見つけてあげるのを使命としているが(この場合ビジネス)、声を発していない人たちのこのエネルギーを活用してあげられる仕組みを作ることがキーではないかと思う。

前にも書いたかもしれないが、女性の埋もれているエネルギーを上手に活用しているのが創価学会だ。女性が役職を得ることで、イキイキと活躍している。

シルバー人材センターだけでない、上手な仕組みをどうつくるか。

兼業農家の勧めを書いていた人がいたが、無職で田舎に戻ったら、いろいろなことを頼まれて、結構やっていけるという。本来の人間社会とはこういうものなのではないか。

子供も、昔は、年下の子供の面倒をみたり、家の手伝いをしたりして、一人前になったような気がしたはずだ。また、昔は若者衆のようなものがあり、大人は、祭りとかある部分については、若者の自主性、自治を認めていた。

失敗もしながら、何かを自分たちでやることでやったと思い、成長していくはずだ。こうした、大人の知恵やルールが失われている。若者が何をやったらよいかわからずにエネルギーを持て余しているのは、「就職」しか選択肢がないからだ。

若者は、国を守ったり、人を助けたり、何かしたいと思っている。チャンスがあれば、海外のNGOなどで働くが、そうしたことを知らない、出会わない子も多い。

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