ユルゲン・ハーバマス
ドイツ人で1929年生まれ。2つの書籍の紹介。
1.『公共性の構造転換』(以下はWIKIによる)
○公共性の歴史(崩壊と再生への期待)
(1)16世紀以後(絶対主義時代):国家(公的)、それ以外(私的)
(2)市民社会(市民的公共性):民衆による討議が可能に。論証以外のあらゆる権威を認めない。参加者は、相互に論証による説得を受けいられることでさまざまな問題を争点化することができた。→しかし、社会階級の利害が討議の前提(夜警国家)
(3)無産階級との階級闘争を経て、公共性は階級的疎外を縮小させる政治制度を発展させた。無産者が公衆として討議に参加できるようになった(19世紀中ごろ)。
(4)19世紀までは、国家と社会は分離していた(市民的公共性は国家から自律していた)。しかし、19世紀に労働組合と労働者政党が組織され、多くの労働者の代表が議員となり、貧困からの解放を掲げ、それを実現していったため、20世紀には労働法、社会保障法により福祉国家が実現した。この結果、人々は行政サービスの受益者となったために批判的理性を持って政府に主体的に向き合うことができなくなった。公共性への参加の自由は、受益と消費の自由に変容してしまった。
政治過程では、大衆に対し、社会集団、政党、行政機構、報道機関が働きかけており、本来の公共的論議よりも、大衆の感情や利益に働きかけることによって、民主政治での多数派の支持を得ることが可能となる。そこで、公共性の本質である議会の機能も喪失し、議会は討論ではなく利害調整の場になる。
市民的公共性においては、議員は国民全体を代表するものとされていたが、。大衆デモクラシーの下では政党の支持母体に命令される対象となる。議会の討論は、論理的な説得ではなく、有権者に向けた示威や印象を与えるための劇場となる。参政権の拡大は、結果的に批判的な審議能力の低下をもたらした。
(5)ハーバーマスは、公共性の再生を模索。諸集団の均衡とその組織の内部において公共性を確立することを提案。諸集団を通じた公共的な意思疎通と批判への参加。
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最後の(5)が良くわからないが、おそらく、討議型民主主義を言いたいのだろう。
公共性の歴史は、面白い。労働者が政治に参加したことによって、福祉国家に移行し、その結果、人々が行政サービスの受益者になり下がってしまったこと、議会が討議の場でなく、利害調整の場となり、劇場となってしまったことは、納得だ。
2.『コミュニケーション的行為の理論』(教えて!GOOより)
○彼は、人間の社会行為を二種類に分ける。
(1)成功しようとする志向=戦略的行為
(2)了解へ達しようとする志向=コミュニケーション的行為
(1)は、一方が他方を論破したり、権力を背景に相手を圧倒し、相手は、不承不承それに従うようなこと。(2)は、会話することによって、双方とも話す前とは違う地点に到達し、最初の自分の希望とは異なった結果になっても、双方が満足感を味わって了解に達するようなこと。
(2)が起こるのは、話している双方が無意識のうちに、「理想的発話状況」というモデルを想定しながら話しているから。「分かり合える」「双方が了解に達することができる」という「画に描いた餅」を共通のモデルとし、それを先取りしつつ会話を積み重ねることによって、会話の中でその「画に描いた餅」を現実のものとすることができる。
この「理想的発話状況」を可能にする条件として、次の3つが挙げられている。
①真理性
②正当性
③誠実性
これは、ハーバーマスが私たちの生きている世界を3つに分けたものに対応している。
(ア)人間を取り巻く外的環境としての「客観的世界」
(イ)人間の意識や主観などの「内的体験世界」
(ウ)文化的に構成された社会的な領域で、さまざまな社会規範、わたしたちが無意識のうちに従っているようなものまで含む社会的世界」
①の「真理性」とは、(ア)「客観的世界」に照らして、この発言が正当である、ということ。
②の「正当性」とは、(ウ)「社会的世界」に照らして、この発言が正当である、ということ。
③の「誠実性」とは、(イ)「内的体験世界」に照らして、この発言が正当である、ということ。
事例「すみませんが、水を一杯もってきてください」と先生から頼まれた場合。
①真理性を欠く場合
「いいえ、一番近い水道でも授業が終わるまでに戻ってこられないほど離れています」
②正当性を欠く場合
「いいえ、先生は私を先生の部下のように扱ってはなりません」
③誠実性を欠く場合
「いいえ、先生は本当は、他のゼミナール参加者の前で私に嫌がらせをしようとしているだけなのです」
先生の頼みに対し、生徒は、その問いかけが妥当なものかどうか、3つの観点から判断して応答する。
ハーバーマスによるコミュニケーションの目的は、あくまでも「欲望や目的を知らせる」こと。
話すことによって目指すのは、欲望を満たし、目的を達成するためではなく、その気持ちを明らかにすること。すると、それに対して、他の人々が応答し、コミュニケーションがなされる。
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コミュニケーションによって、理想的な合意に達することができるのかどうか、以上を読んだだけでは分からないが、ハーバマスは、おそらく、討議によって市民的公共性が生まれるはずだと期待したのだろう。
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