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August 25, 2010

基礎的自治体の問い直し

竹井隆人『集合住宅デモクラシー』は、藤沢町、サンシティ管理組合と事例を知るなかで、面白そうだと図書館から借りてみた。

これを読み始めて、「基礎自治体」という言葉が出てきたので、ネットで調べ始めたら、表題のようなコラムを見つけた。今村都南雄という2003年2月当時中央大学、現在山梨学院大学の行政学の先生が書かれている。

このコラムは、第27次地方制度調査会で「基礎自治体のあり方」が審議され、「西尾私案」が提出されたのをうけて、基礎自治体とは何かが改めて問われるようになったことについての感想を書いたもの。

西尾私案については、ここここを参照。

今村先生が取り上げているのは、この議論にあたって、いわば「自生的自治」とでもいうべきものへの人々の熱い思いが根強く残っていることに驚いたという話である。

以下引用  

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ここで「自生的自治」とは、自分たちの生活現場で、おのずと形成されるべき一定範囲の生活コミュニティにおける自治のことを指している。それはお仕着せの与えられる自治ではなく、上から、外からの干渉や関与を無用視する自己完結型の自治観である。

都市化と消費社会化の進展によるとめどもない個人主義の浸透のなかで、このような自治の形成がどこまで可能なのか、また現実的裏付けがあるのか、考えをめぐらせても、確たる回答は出てこない。

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どうして驚くのだろう。これが本来の自治のはずなのに。

先生は、明治の大合併の前の自然村や郷村・・の自治観は、「自ずから治まる」自治であっても、「自ら治める」自治モデルではなかったはずである。

と書いている。宮本常一によれば、西日本では、全員の合意ができるまで、(ダラダラと)話し合いを続けるという寄合の状況が書かれており、そこで取り決めたことは、箱に入れておくのだという。これを「自ずから治まる」自治といって片づけてよいのだろうか。これも「自ら治める」自治の形なのではないか。

以下引用

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戦後再出発した地方自治において私たちが求めたのは、明らかに「自ら治める」自治の実現であった。・・・単一国家制のもとでの政治・行政単位として、都道府県と並んで市町村を位置づけたのではなかったか。したがって、基礎的自治体の単位を設定する場合も、実は、国はもとより都道府県の存在を暗黙裏に前提にしていたのであり、決して「自生的自治」観におけるような自己完結型の地方自治を想定したものではなかったのである。

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上記で「私たち」というのは誰なんだろう。地方自治法を決めた学者や行政のことなのだろうか。要は「自治」という本来下からの「自生的」なものにも関わらず、上から国の行政の下請け的なイメージで市町村などの基礎自治体を決めたということなのだろう。

民主主義を考え、真の自治とは何かと考えた場合、この上から決められ、上位下達のための機関としての行政区は、「自治体」ではないはずだ。

先生は、「私たちの身近にいくつもの「自生的自治」の単位が生まれることは望ましい。しかし、それをもってストレートに基礎的単位とする地方自治制度の設計は、すこぶる困難な課題」としている。

おそらく、行政学者として、この「自生的自治」を制度にどう組み込むかを考えての発言なのだろう。自生的自治が本当に住民の代表かとか、財政をどうするとか、制度設計が難しいということなのだろう。あるいは、自生的自治が「完結型」であるというイメージにこだわっているのかもしれない。

現在の基礎自治体では、団体自治を実現し、それを住民がコントロールする(住民自治)となっている。それにあたって、選挙や罷免、情報公開などがその手段として認められているが、自生的自治(下からの自治、自分たちのこととして政治を考える)がなければ、形骸化したままとなる。

多くの人たちがそれに気づいているので、西尾私案を契機に、まてよ、本来自治って自分たちで考えて決めることなのではないかと考え始めたということなのだろう。

このコラムは2003年なので、その後、制度的に自治体内に地域自治組織を組み込む話が進んだが、制度を活かすも殺すも、問題は実態がそうなっているかだ。

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