« 篠原 一『市民の政治学-討議デモクラシーとは何か』 | トップページ | 『熟議民主主義ハンドブック』第一章 »

2013年5月 6日 (月)

『市民の政治学』を読んで

前ブログでは、当初予想以上に、まじめに読みながら気になったところを書き留めてしまい長くなってしまった。

私は、地域で活動しはじめてから2年くらいが経ったところだ。

〇普通の人が集まって対話すると、智恵が生まれ、何かが始まる

当初、地域イノベーター養成講座を実施したおり、先生(私)が何かを教えるよりも、普通の人(受講生)が皆、漠然と何かしら問題意識を持っており、それを話し合える場があると、互い刺激し合うことにより、当人の考え方も整理され、素晴らしい知恵やアイデアが生まれたり、何かを始めたいという意識が生まれたりすることに驚き、感動した。

今、考えると、おそらくそういう問題意識を持っている人たちだからこそ、日曜日の朝から8週間も続けて参加したのだろうと思うので、優れた人たちが集まっていたのかもしれない。しかし、すくなくとも、普通の人が一人ひとりバラバラではまとまらないアイデアも、多様なバックグラウンドの人たちと話し合うことで、次第に形がつくられていくことに驚き、対話や討議に力があることを知った。

〇行政とは別に、市民が町のことを知り、考え、議論することが必要なのでは

その頃、西東京市の総合計画が策定されており、市民を集めてWSが行われていたこともあり、総合計画等が、行政主導で行政のスケジュールと都合で策定されるのはしかたないとしても、その町にすむ当事者である市民が、自分たちの生活に直接かかわることについて、もっと話し合い、行政の提案を受け入れるにしても、よく理解して受け入れるとか、行政の気づかない解決方法を提案するなどがあっても良いのではないかと思った。

ちょうどFS(フューチャー・セッション)が日本では企業から導入され、それを地域にも応用しようという動きが流行になっていたこともあり、市民に集まってもらって、いろいろな地域の課題を話し合ってみようではないかと思い立った。

同じ思いの仲間と、これまで3回FSを実施してきた。毎回老若男女40人ほどが集まり、第一回は未来を担う子ども、第二回は防災、第三回は地域に眠る人財の活用について話し合ってきた。

そんななか、「熟議」という言葉に反応した訳だ。

〇欧米では、討議デモクラシーの流れは必然とされており、すでに試みが始まっている

この本を読むと、欧米では、ずい分前から、近代の変容に対する議論が進んでいたことが分かり、1990年頃から、討議デモクラシーの実験があちこちで行われているというのに愕然とした。私は学問的背景がないなかで、なんとなく、ニオイとして感じてやってきたことが、欧米では、まともに取り上げて研究・実験されているというのだ。

この本によれば、討議デモクラシーは、歴史の流れから当然に読み取れると書かれており、ハーバマスによれば、政治システムや経済システムは、自動制御的コントロールの体系で、行為者の意識を超えた形で個人の意思決定が規制されるが、生活世界の媒体は、コミュニケーションであるという。

討議には、討議倫理が必要で、簡単に言えば、誰でもが自由に発言でき、誰でも情報を自由に手に入れることができ、そのうえで討議し、相手の意見を入れて自分の意見を変えること・・によって合意が成立する。

代議制によるデモクラシーと討議デモクラシーの2回路システムが望ましいとされている。

〇欧米の試みは、制度化を狙っており、サンプルの取り方も公平性を求めている

討議デモクラシーが歴史の流れというので、我が意を得たりと思ったが、欧米でやっている試みは、①制度化を狙っていること、そのため②サンプルの取り方も公平性を保つために大がかりであり、③3日とか半年とか、長期間討議をすることになっている。④また、研究も兼ねているので、その討議がどんな効果をもたらしたかをチェックしている。

(日本で裁判に陪審制が導入されたが、討議デモクラシーの試みの場合のサンプルの取り方は、陪審員の選び方のような感じだ。裁判に陪審制が取り入れられたことを考えると、政治に2回路制を導入しようという動きがあっても良いと思うが、日本では、これまで余り議論されていない。)

これは、我々数人がリードしてやれるようなことではない。

私は、西東京市でのFSを「耕し」の段階と位置付けており、まずは、話し合える場をつくること、参加した人が自分たちの生活を良くするには、まちを良くしなければならない、だったら、行政がやることに対しても、もっとよく考えて判断しなければと思ってくれること、行政に頼らずともできることは、自分たちでもやろうと行動すること、そういう社会になるための「耕し」の時期だと思っている。

ここは、まだ不勉強だが、対話ラボがやっているワールドカフェ等々の対話の方法も、欧米での、こうした流れから生まれてきた方法論なのだろう。

〇さて、どうしたものか

私は3回のFSを終えて、実は、次をどうしようか悩んでいる。託児も考えると、長時間拘束するのは難しい。せいぜい3時間のFSだと、その時は、話合えて皆さん気持ちが明るく前向きになってくれるが、数日経てば忘れてしまう程度のことしかできない。

欧米での試みは、数日から半年かけて行うなど本格的だし、大學やテレビなどが協力し、その時代の最大の社会問題、政治問題を取り上げている。

今回、この本を読んで、時代の流れにあっているというので、嬉しい反面、どのように進めたらよいのか当惑している。

もう少し、本を読むなりして充電することにしよう。

« 篠原 一『市民の政治学-討議デモクラシーとは何か』 | トップページ | 『熟議民主主義ハンドブック』第一章 »

市民」カテゴリの記事

民主主義」カテゴリの記事

熟議」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『市民の政治学』を読んで:

« 篠原 一『市民の政治学-討議デモクラシーとは何か』 | トップページ | 『熟議民主主義ハンドブック』第一章 »

最近のトラックバック

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ